流行病1
「皇帝の側近に特権を与える法案が可決されました!」
カナンはエウラリカの部屋に飛び込むやいなや、険しい表情でそう報告した。エウラリカは腰を浮かせ、「ついにやったわね」と眉根を寄せる。
ルージェンら官僚の一部派閥によって提案された法案は、皇帝が助言を必要とすると考えられる場合、皇帝とほぼ同等の権限を側近に対して与えると定めるものであった。それは考えるまでもなく南方連合の息のかかった案であったが、しかし、次代の皇帝選びに揺れる議会では多少の論争を巻き起こしつつ可決されたという。
次の皇帝がエウラリカになろうと、第二王子ユインになろうと、どちらも政治における決定権をもつには不適当である、というのが議会の総意であった。それならば官僚たちの息のかかった者を側近として皇帝を傀儡とするのが最も都合が良い。
唯一計算から外れているのは、既に第二王子を囲み込んでいる一派が、もれなく売国奴であるという点だろう。
エウラリカは再び長椅子に腰を下ろし、腕を組んで長い息を吐いた。
「次の譲位の時点で、この国は南方連合の手に落ちるという訳ね」
その言葉に、カナンも真剣な表情で頷く。事態は明らかに切迫していた。
話題を切り替えるように、エウラリカはカナンを首だけで振り返る。
「それで、この間言っていた税制担当の室長はどうだった?」
「黒ですね。ざっと見たところこの程度の金額が」とカナンは数字の書かれた書面をエウラリカに見せるように裏返して掲げた。「南方連合に流れているようです」
「ふむ……」
エウラリカは足を組み、顎に手を添えて息を吐いた。
外遊としてハルジェルへ赴き、帝都へ帰ってくれば、夏は瞬く間に過ぎ去った。秋はまるで存在すらしなかったように雲散霧消し、気付けば外は息が白くなるほどに寒くなっている。冬である。
「思っていた以上にたくさんいるわね……ひとつひとつ叩いていったんじゃ切りがない」
エウラリカの言葉にカナンも苦い顔で頷いた。帝都へ戻ってから本格的に調査を開始したものの、調べれば調べるほどきな臭い動きが出てきて嫌になる。休まらない毎日が続き、カナンは思わずどかりと長椅子に腰掛け、背もたれに体を預けて嘆息した。
額に手の甲を乗せながら、カナンはついでのように切り出す。
「そういえば、ハルジェルの方は何かとばたついているらしいですよ」
「『傾国の乙女』の隠蔽?」
「あの火事をきっかけに右大臣が色々と勘づいて、領主と左大臣が身動きできないんだとか」
「コルエル家もわりと大きな家系だし、本腰を入れて追究されたら痛いかもしれないわね。それにしたって今まで気付けないのは間抜けだけれど」
エウラリカは鼻を鳴らし、すっかりぬるくなって湯気を立てなくなった茶を口元に運んだ。伏しがちの目が液面を見下ろしている。
「取りあえず、ハルジェルが近日中に兵を動かせる状態でないことは分かったけれど……向こうがどう出るかが予想できないのよね」
エウラリカは苛立たしげに足を組んだ。カナンも頷き、腕を組んで嘆息する。正面切って宣戦布告を叩きつけたものの、事態が急展開を迎える訳ではなく、これまで同様に不穏な水面下の動きが続くばかりであった。
「…………。」
エウラリカがふと遠くを眺めるような眼をする。彼女はここ最近とみにこうした表情を見せるようになった。はっきりとは言えないが、どうにも嫌な予感がする。居心地悪く、カナンはその場で身じろぎする。エウラリカはどこかの虚空に思いを馳せており、窺うような目をするカナンに意識を向ける様子はない。
「どうしました、エウラリカ様」
「……何でもないわ」
エウラリカは曖昧に微笑んで、ふいと顔を背ける。
「そろそろネティヤが来る頃じゃないかしら」
その言葉に日の高さをちらと見やれば、確かに太陽は南中しようとしていた。ネティヤはここ最近、仕事の昼休憩に抜けているのか、正午の頃にエウラリカの部屋を訪れている。外遊前のように四六時中監視するという訳にもいかないのだろう。しかし、毎日顔を出して様子を確認しに来る辺りは、ルージェンからの指示があるのだろうか。
……不可解なのは、エウラリカがネティヤの訪れを拒まないことだった。エウラリカがそう決めたのなら、カナンだってわざわざ強固に逆らいはしない。どうせまたお得意の『お考え』ってやつがあるんだろう。
カナンは腰を浮かせて扉の方に行くと、扉を細く開けて廊下を確認した。廊下の入り口に兵が立っているほかは、人の気配はない。
「そういえば、同僚が最近流行っている感染症にかかって欠勤しているとかで、仕事が増えて忙しくしているらしいですよ」
「じゃあ遅れるかしら。どうせ来るなら早めに来て欲しいものだわね」
言いながら、エウラリカは長椅子の肘掛けに手をついて立ち上がろうとした。その気配を感じてカナンが肩越しに振り返る。
向けた視線の先で、エウラリカの体が大きく傾いだ。踏ん張ろうとした足が床を滑る。
「エウラリカ様っ!」
カナンは泡を食って駆け出した。床に倒れ込もうとした体をすんでの所で抱き留め、その顔を覗き込む。血の気が失せたような、蒼白な顔をしていた。
「どうしました!?」
カナンの叫び声を聞きつけたのだろう、廊下に立っていた兵が駆け寄り、室内を覗き込んだ。エウラリカは腕の中でぐったりと目を閉じている。さぁっと血の気が引いた。弾かれたように机の上を振り返った。使用済みの茶器が置かれている。
「医師を呼んでください!」
カナンは血相を変えて、兵に向かって鋭く怒鳴った。
***
「流行病の典型的な症状、ですね」
「え?」
医師が下した判断に、カナンは呆気に取られて目を丸くした。背後では騒ぎの途中に姿を現したネティヤが、「何を大騒ぎしているんだか」と嘆息する。
「……毒とかでは?」
「いや、毒の兆候は見られませんな。感染しやすい病ですし、看病の際には鼻と口を覆うように注意しなさい。幸いにも症状は軽いですから、暖かくしてしばらく安静にしていれば大事はないでしょう」
医師は疲れた表情で告げた。この流行病の騒ぎで、連日休みなしで駆けずり回っているのだろう。エウラリカが倒れたとあって、仮眠から叩き起こされて部屋まで引きずってこられたらしい。寝癖と濃い隈から、医師の疲弊ぶりがよく分かる。
エウラリカは一旦長椅子に寝かせられ、毛布をかけられて目を閉じていた。寝言にもならない声がふにゃふにゃと漏れ、唇が曖昧に動いている。その頬は真っ赤である。医師は細かな注意点をつらつらと述べると、足早に部屋を出て行った。また後で別の医師を使わすそうだ。
「まるでエウラリカ様が死んだみたいな取り乱しようだったぞ、驚かせないでくれ」
先程部屋に到着したネティヤが腰に手を当て、カナンを横目で見る。カナンはその視線を受け止めて、じろりとネティヤを見た。……そう揶揄されるだけの状態であった自覚はある。
「……どの口が言っているんですかね」
「何の話だか」
少し前までエウラリカを暗殺しようとせっせと付け狙っていたことは、知らないふりをするらしい。まあ、そっちがそのつもりなら茶番に乗ってやってもいい。カナンは長い息を吐いた。
「……ん、」
声を漏らして、エウラリカが薄らと目を開けた。カナンは慌てて駆け寄り、「大丈夫ですか」と顔を覗き込む。エウラリカはしばらくの間ぼんやりと天井を見上げていたが、徐々に目の焦点が合ってきたらしい。ゆるりと顔をカナンの方に向け、問うように瞬きをする。
「……なに?」
「エウラリカ様、倒れたんですよ」
カナンは努めて穏やかな声で告げた。エウラリカは一瞬怪訝そうな顔をして、それから小さく頷く。
「最近、きちんと眠れていますか?」
ネティヤが気遣わしげに声をかける。エウラリカは少し躊躇ってから、おずおずと首を横に振った。カナンとネティヤは顔を見合わせる。……これは休ませなきゃいけない。
「エウラリカ様! 本読んでないで寝てくださいってば」
部屋の隅に運び込まれた寝台の上で、エウラリカは枕を顎の下に敷いてうつ伏せになり、顔の前で何やら本を広げている。カナンは足で扉を閉めながら、両手に毛布を抱えて寝台に歩み寄った。
「寒気は収まりましたか?」
「喉が渇いたわ」
病人の立場を良いことに、エウラリカの横暴と我が儘は輪をかけて度を増していた。カナンとネティヤを顎で使って憚らない。
「冷たいものが飲みたいわね」
「体が冷えますよ」
カナンが諫めてもエウラリカはどこ吹く風で、「部屋が暖かいんだから問題ないわよ」と余裕綽々である。エウラリカが罹患している流行病は、重篤化すれば死者も出るような代物だったが、健康な人間であればそれほど重症にはならないと言われている。エウラリカは元々風邪一つひかないような健康体だったし、この国の誰よりも手厚い看病を受けていることは間違いない。
エウラリカはそんなことなど百も承知だろう。その結果がこの態度である。
「ちゃんと休まないと、治るものも治らないですよ」
「それならお前だって、あんまり私に近づいているとうつるんじゃないの?」
「そんな憎まれ口叩くんなら看病しませんよ」
「良いわよ、ネティヤに頼むもの」
と、言ったところで、扉が外から叩かれた。あらかじめ決めておいた、特定の拍を刻んでいる。カナンはそちらに近づくと、扉を細く開けた。ここ数日で見慣れたネティヤの顔が覗く。
「相変わらず仲がよろしいことだな」
「聞き耳を立てていたんですか? 悪趣味ですよ」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。音が漏れているんだ」
ネティヤはエウラリカが倒れてから、以前にも増して頻繁に部屋を訪れるようになった。ネティヤは紛れもなくルージェンが使わした内通者のはずだったが、今のところ不穏な動きは見られない。ルージェンもエウラリカに対して静観を決め込んでいるということだろう。
ネティヤを部屋に入れながら、カナンはちらとエウラリカを一瞥する。エウラリカが本を枕の下に突っ込む様子が分かった。
「別に、無理して来なくても良いんですよ」
カナンはネティヤに素っ気なく告げる。本当はもっと気遣っている風な口調で言うはずだったのに、どうも取り繕うのに失敗したらしい。ネティヤは特に気分を害した様子もなく、「私が来たいだけだ」とさらりと応じる。あしらうような態度に、カナンは思わず眉をぴくりと上げた。
「君はエウラリカ様を自分のものか何かのように振る舞うが、エウラリカ様を気遣う人間はたくさんいるんだからな」
「……どうだか」
どうも、ネティヤがエウラリカに対して分かったような口を利くのが、カナンには面白くないのだった。
「こんにちは、ネティヤ」
「ご容態はどうですか。体は楽になりましたか?」
「少しね」
ネティヤは我が物顔でエウラリカの枕元に腰掛けている。エウラリカはどうやら天蓋から降りた幕を閉じたらしく、その表情は窺えない。
(……いつの間に、ネティヤはエウラリカに対する態度をこんなに軟化させた?)
カナンは腕を組んで首を捻った。ネティヤは東方諸国――つまり帝都にしてみれば辺境の出身である。恐らくはその出自を理由に相当な辛酸を嘗めてきたのだろう。この官僚が帝都に人間に燃やす敵愾心は並々ではなく、血筋で言えばエウラリカだって憎む対象であるはずだ。
実際ネティヤはエウラリカの婚約を仕立て上げ、自らは第二王子の尻馬に乗って出世を目論んでいた。この女が野心家であることに間違いはない。いくらルージェンに言われたからといえ、利益もないのに、こんなに足繁くエウラリカの部屋を訪ねてくる必要があるだろうか?
(何か妙だな)
エウラリカがネティヤの訪問を拒まないのも気になっていた。カナンは部屋の中央に立ち尽くしたまま、二人の女が穏やかに会話をしている様子をじっと眺めていた。
***
エウラリカの容態が悪化したのは、とりわけ寒い朝のことだった。その日は帝都では珍しく雪が降っており、窓から見える地面は薄らと白い粉を被っていた。
ネティヤが呼んだ医師が、入れ替わり立ち替わりエウラリカを見に来る。カナンは為す術なく部屋の隅に立ち尽くすしかない。エウラリカは熱に浮かされて呻いており、顔を真っ赤にして眉根を寄せている。
「エウラリカ様のご容態はどうだ」
そう言って近づいてきたネティヤに、カナンは思わず猜疑の目を向けた。エウラリカの体調が急変したのは、まさかこの女が何か盛ったせいではないだろうな。カナンが言葉を発するよりも早く、ネティヤは「私は何もしていないぞ」と真剣な顔で頭を振る。
「エウラリカ様は大丈夫だろうか……」
腕を組んで呟くその姿は、まるで本当にエウラリカを案じているかのように見えた。カナンはネティヤをじろりと眺め、腕を組む。
エウラリカが咳き込むのが聞こえた。その弱々しい声に、カナンは思わず体ごと振り返る。エウラリカは目を閉じたままだ。仮病が『お得意』なエウラリカだったが、どうも今回は本当らしい。
――もしもエウラリカを亡き者にしたかったら、この流行病を隠れ蓑に殺害するのが一番手っ取り早いに決まっている。
カナンは唇を噛み、拳を握りしめた。エウラリカ自身は暗殺を避けることができる状態ではない。いくら兵が周囲を固めているとは言えど、エウラリカが病にかかっている以上は医師やその関係者が出入りしない訳にはいかない。
(これまで以上にエウラリカの身辺に注意しなければ……)
カナンは厳しく唇を引き結んだ。
エウラリカが病にかかったという情報は城内ではすぐに知れ渡り、城内を歩けば時折エウラリカの病状を聞かれることが増えた。ウォルテールは果物を持って見舞いに来たし、エウラリカの容態に注目する人間は多いらしい。
それだけに、カナンの警戒も否応なしに高まっていった。




