外遊-柵4
きつく枕を握り締めた手を、無理矢理掴んで背に回させることだってできた。身を屈めた際に、ほんの少しの抵抗を示して顔を背けた、その顎を掴んで無理矢理口づけることだってできた。
それをしないのが自分の甘さだと思ったが、きっと彼女はそんなことに気づきもしないのだろう。
『もっと有効活用しようと思っていたのよ』と彼女が言わんとしていたことの意味は、分かる。この女のような立場の人間にとって、純潔やら貞淑やらという言葉がどれだけ重要なのか、少なくとも自分は理解しているつもりでいた。それだけに、彼女がこんなところでそれを散らしたことに、深い衝撃を覚えてもいた。
天蓋から垂れ下がる紗は、外界と寝台の中を曖昧に区切って揺れている。長い金髪がほどけて広がっている様子は、悪夢のようだった。白々しい肌が目について離れない。水の底に沈んで行くかのように息苦しい。
肌に手を這わせれば、普段布に隠されていた傷跡がいくつも指の腹に触れた。それに気づく度に、胸の内に暗澹たる気分が湧き上がる。
脇腹の縫合跡を手のひらで慎重に撫でた。
「これ、どうしたんですか」
随分と昔の傷に見える。相当な怪我をしたことが容易に想像できて、問う声は知らず知らずのうちに低くなっていた。
エウラリカは鬱陶しそうに腰を捻って目を細めた。
「うんと小さい頃に、ちょっと、塀から落ちたときの……」
この傷跡が痛むのかどうか分からない。痛まないにせよあまり無遠慮に触るものではない。そう思って、ほんの掠める程度に撫でていただけなのに、エウラリカは身をよじって手を避ける。
「兄に初めて怒鳴られたのはあのときだったわ。周囲の大人たちにもこんこんと説教された……」
エウラリカの口から幼い頃の話が出ると、何だか奇妙な気分になった。あまり愉快ではない感情である。
自分の知らない、小さくて丸まっこい幼子の幻影が瞼の裏で明滅する。どんな顔や声で笑っていたのかを必死に思い浮かべようとしたけれど、その想像の全てが曖昧なもやに包まれていた。
何か言おうとしたけど結局ろくな言葉にはならず、適当な音が唇からこぼれ落ちる。
「……エウラリカ様にも、小さい頃があったんですね」
「当たり前だわ」
強気な口調で、彼女は跳ね除けるように応じた。それが少しだけ面白くなくて、気づけば脇腹に触れる指先は気ままに滑っていた。
「ん、」と一瞬だけ高い声が漏れる。彼女は下唇を噛んで懸命に声を抑えているらしかった。初めて聞くような響きである。ここまで来ておきながら、聞いてはならぬ類の声を聞いてしまったような気がした。まるで熱いものに触れたかのように手を引っ込めてしまう。
怒られるかと思ってこわごわ様子を窺うと、彼女は目元を赤くしてこちらを睨みつけていた。
「……脇腹は弱いのよ。やめて」
もう一度触れて良いのだろうか、と束の間躊躇う。少し考え込んでから、自らの下衆に気づいて自省した。エウラリカの表情からはいまいち読み取れないが、彼女がやめろと言うならそうすべきなのだろう。迂遠な駆け引きをするような女じゃない。
カナンは大人しく頷くと、慎重にエウラリカの頭を撫で、長い髪を指で梳いた。
「仰せのままに、エウラリカ様」
律動的な呼吸が続いていた。その合間に、彼女はふと思い出したかのような素振りで、前置きなく口を開く。
「……私、エーレフにね、」
「……こんなときに他の男の話ですか」
分かりやすく不興を表した声音で応じるも、エウラリカは口を閉じようとはしなかった。
「エーレフに、ジェスタへ行くように、命じたのよ。……ウォルテールにジェスタ侵攻を命じたのと、ほとんど同じ頃……」
彼女は天蓋を見上げて、短く息を吐く。その目がどこか遠くを見ている。
「……大陸中央書庫に保管されている地図が欲しかった。帝都の地下通路の全貌が記された地図……あれさえあれば、私は、旧帝国の存在を証明することができる。もう誰も、こんな馬鹿げた使命なんて負わずに済むはずだった……」
カナンは思わず動きを止めた。目を見開いてエウラリカを見下ろす。
「でもエーレフは地図を持ち去った。その上自分のものになれと、私に言い放った」
身の程を知れ。荒い語気で吐き捨てた言葉には、滅多に見られないような怒りと悔しさが滲んでいた。しかし一瞬火がつくような激情が覗いたと思えば、すぐにそこには疲れた笑みが取って代わる。
「この間、温室に来た暗殺者を突き落とした崖があるでしょう」
「ええ」
「あそこから、虫の息のエーレフを落としてやったの。骨が折れた……」
エウラリカはカナンの相槌など必要としていない。訥々と語り続ける様子には、まるで昔の日記を一人で読み上げるような、妙に達観した響きがあった。
「兄がジェスタにたどり着いてしまえば、きっとあの図書館は燃やされてしまう。ジェスタを守るべき王族は死に絶える。ウォルテールならきっと、都市も血脈も守ったまま目的を完遂できると思った。……馬鹿正直で愚直で、可哀想なほど優しい男だから」
嘲りとも賞賛ともつかない口調であった。エウラリカの両手は相も変わらず、頑なに枕や敷布を強く握り締めて放さない。
「そうして、お前が……」
そこで初めて、エウラリカの目ははっきりとカナンを捉えた。覆い被さるようにして影を落とす、その顔を見上げている。薄らと上気した頬に、諦念に基づく微笑が浮かんだ。
きっと二人は同じ日を思い浮かべていた。カナンにとっては最大の屈辱を味わった日。世界が決定的に変わってしまった、最大の転換点だった。
それはエウラリカにとっても同じなのだろうか。ほんの少しでもあの日のことを、ふとしたときに思い返すことがあるのだろうか。
エウラリカの目の奥に、深い緑色が沈んでいる。冴え冴えとした、晴天のように鮮やかな青色の底に、どうしても割り切れず飲み込めない、不条理な色彩がある。少女は小さく喉を鳴らして目を閉じた。
「――お前にもっと早く出会えていたら、何かが変わっていたのかしら」
その言葉に、カナンは思わず深く項垂れた。何度も思い描いたことがある。もしも、互いの立場がほんの少しでも違っていたら、もしも自分たちがもっと真っ当な形で出会い、真っ当な関係を築けていたら、自分たちは幸せになれていたのだろうか。
たとえばこれが、平凡な村娘と平凡な少年の物語だったとしたら……。
細い首に指先を触れても、エウラリカは逃げなかった。
「……何かが変わっていたら、きっと俺たちは一生会うこともなかったんですよ」
祖国への思いも、屈辱も、憎悪も、禍根も、恐怖も、愛おしさも執着も全部飲み込んだ先にしか、この形は存在しなかったのだ。
夜は緩慢に更けていった。
***
熱が冷めた未明の頃、カナンははっと目を覚ました。寝台の隅ではエウラリカが体を小さく縮めて寝入っている。天蓋から垂れた薄布が揺れている。咄嗟にカナンは枕の下に手を突っ込んでいた。固い柄の感触を指先で捉える。
枕の下から短剣を取り出して、音を立てずに鞘を落とす。
窓が開けられる音がした。軋む窓枠。限界まで押し殺された足音が床を打つ。カナンは息を止め、寝台の上でゆっくりと片膝を立てた。慎重に上体を起こせば、寝台が僅かに軋む。全身が緊張していた。エウラリカの寝息ばかりが鮮明に聞こえる。カナンは無言で瞬きをした。微睡みの名残はすっかり消え失せていた。
カナンが言えた義理ではないが、窓から王女の部屋に入ってくる人間など、ろくな輩ではないに決まっている。カナンは素早く合点した。
(暗殺者か)
月明かりの当たる紗に、人間の輪郭が浮かび上がった。ゆらりと揺れ動きながら影が大きくなる。布地に手がかけられた。カナンは身を屈めて力を溜める。中でカナンがじっと身構えているなど知りもせず、侵入者はカーテンをひと思いに開け放った。
軽やかに布地が翻り、夜の空気の中に波打つ。振り上げられた刃を視界に捉えるや否や、カナンは勢いよく短剣を突き上げた。はっきりとした手応えを感じる。そのまま寝台を蹴って、カナンは男の体を床の上に仰向けに押さえつけた。
暗殺者が床に頭を打つ鈍い音がした。短剣は腹の中央に突き刺さっていた。その手応えは鈍く、しかしはっきりと掌を押し返した。
男が呻く。カナンは膝で胸を強く押さえながら、片手でその口を強く塞いだ。
「静かにしろ、エウラリカ様が寝てんだ」
荒い呼吸はまるで獣の喧嘩のようだった。静かな部屋の中に物音が大きく響く。
男の抵抗は激しかった。押さえていた片腕が汗で滑り、直後、首筋をひやりとした感触が掠める。
(っまずい、)
咄嗟に、カナンは男の腹から短剣を抜き、頭の上まで振り上げてから、強く突き立てた。手のひらの下で絶叫がくぐもっている。
長いもみ合いの末、男は動かなくなった。冷たい石床には黒々とした血が点々と落ち、残像のように目に焼き付いて消えない。夜の熱はすっかり雲散霧消していた。
カナンは胸を上下させながら、呆然と立ち尽くす。傍らには、人の形をした影が冷え冷えとして横たわっている。見たくない。見てはいけないのに、目が離せない。
(俺は……)
一呼吸置いて、そこで弾かれたように振り返れば、寝台の上でエウラリカが身じろぎをした。その目が開かれる。どうやら彼女は床に広がった血痕を見咎めたらしい。はっと肩を強ばらせるのが分かった。
「……殺したの?」
うたた寝の気配を色濃く残した声で、エウラリカが寝ぼけ眼を擦る。のそのそと寝台に手をついて、エウラリカは裸足のまま床に降り立った。
「答えなさい。殺したの?」
「あ……」
「相手の傷は?」
エウラリカの声は寝起きの曖昧な発音で、しかし問いは鋭く余談がない。カナンは恐る恐る床の上を見やった。
「腹と……首です」
「そう」
ふらふらと覚束ない足取りで、エウラリカがカナンの傍へ歩み寄る。と、かくりと膝が折れたように倒れ込んだ。それをすんでのところで支えて、カナンはエウラリカの顔を覗き込む。
眠そうに目を瞬かせながら、エウラリカは床に転がったままの短剣を取り上げた。寝台に放置されていた鞘を脇の下に挟み、布巾で刃の汚れを拭き取ると、慣れた手つきで鞘に収める。
「……お前が暗殺者を返り討ちにした訳ね」
エウラリカは短剣を握った手を緩めないまま、舌の回らないような口調で呟く。
「僕は、」
そんなつもりじゃなかった。そんな言葉が滑り落ちかけて、カナンはすんでのところでそれを飲み込んだ。違う。もしも自分がやらなければ、エウラリカが殺されていたか、エウラリカが殺していたかの二択だったのだ。
「言ったじゃないですか……僕が、エウラリカ様を、守るって。だから……」
エウラリカはカナンを見上げたまま、にこりともしなかった。カナンが言わなかった言葉をお見通しのように、無言で瞬きをする。
エウラリカは顔ごと背けてカナンから目を逸らした。
「……私は、お前に人を殺させるつもりはなかった」
聞かせるつもりのなかったような低い声で、エウラリカはそう吐き捨てた。その目は男の死体を虚ろに眺めており、カナンは聞いてはならないものを聞いてしまった気分で身じろぎをする。
「世の中には万死に値するような悪行が数え切れないほどあるけれど、人殺しは別だわ」
エウラリカが表情一つ変えずに語るのを、カナンは声もなく見つめていた。
「それは必ず巡る。個と個のはなしだろうと、国家のぶつかり合いの間にすり潰されていった兵のはなしだろうと、廻る歯車の数や大小にかかわらず……」
ゆっくりと立ち上がり、エウラリカは肩越しにカナンを振り返る。そこに、今までになかったような、深い同調が滲んでいた。
「強い情は、罪は、自ら選んだ選択は、必ずお前の柵になる」
「……分かっています」
二人はしばらく、向かい合って立ったまま、視線を合わせていた。カナンの手の中には、暗殺者の首に刃を強く突き立てたときの感触が色濃く残っていた。濃密な血の匂いが立ち込める室内で、エウラリカはじっとカナンの目の奥を見つめていた。
「……人を殺した人間は、殺す前の自分に戻ることは決してできないの」
その頬が、ゆっくりと持ち上がる。
「知るということは不可逆で、人の営みにおけるどんな過ちも決して償えないし、私たちはもう変われない」
口角を上げた表情は、はっきりと好戦的である。随分と前に覚悟を決めた人間の顔をしていた。それが、妙に眩しく思えるのは、カナンがまだそこまで思い切れないからなのだろう。
「……後片付けを、しなきゃ、ですね」
わざと話題を逸らすように呟くと、エウラリカは少し思案するように斜め上を見上げた。
ややあって、彼女は「そうだ、良いこと思いついた」と微笑んだ。
開け放たれたままの窓に向かって指を指す。カナンは首を傾げて、そちらに視線をやった。
***
木立の中に滑り込みながら、カナンは荒い息を吐いた。死体は生きた人間より重いことを、背負って初めて知る。
「そういえばエウラリカ様……いつから起きていたんですか」
「邪推はやめなさい。あそこで起きるまで本当に寝ていたわよ」
ずり落ちそうになる死体を揺すり上げながら、カナンは傍らの横顔を見やった。暗い森は中へ潜り込む人間を覆い隠すような、秘密めいた静けさを湛えている。
「こういう輩が来るって、見越していたんですか」
「……予想していなかったって言ったら嘘になるわね」
「じゃあやっぱり俺のことを盾にする心づもりで……?」
皆まで言わずに問えば、エウラリカはあからさまに答えづらそうな表情で目を逸らした。それは要するに肯定である。
なるほどどうりでおかしいと思った。エウラリカが随分とお優しいと思ったのだ。この女が何の目的もなく部屋に入れるはずがない。短剣の場所を教えたのもおかしいと思った。仏頂面で虚空を睨むカナンに、エウラリカはひょいと肩を竦める。
「放っておいたらお前、外で一睡もせずに蹲っているつもりだったでしょう」
「それはそうですが」
「そんな状態で、私だっておちおち眠れないわよ、気持ち悪くて」
外にいるのは気持ち悪くて、同衾は可ときた。どうにも釈然としない言い草である。呆れ果ててわざとらしく天を仰げば、空は徐々に明らみつつあった。
二人は誰に気取られることもなく林の中を進んでいった。目的地はまだ分からない。
「何をしに行くつもりですか」
「ちょっとした意趣返しよ」
悪戯っ子のように含みのある口調で、エウラリカはちらと歯を見せて笑った。
***
馬車の左右では背丈の揃った小麦畑が一面に広がっていた。エウラリカは背もたれに体を預け、膝掛けを胸まで引き上げて目を閉じている。車輪と馬の蹄の音を聞きながら、カナンは窓辺に頬杖をついて外を眺めていた。
恐らくルージェンのところに事の次第は報告されることだろう。小規模とはいえ一個隊で移動している自分たちより、ルージェンに対する書簡の方が早く帝都へ到着するに違いない。そうすればカナンが今回ハルジェルで吐いた大嘘の数々が、相手に知れることとなる。
(正面衝突はもう避けられまい)
帝都へ戻れば、これまで以上に気の抜けない日々が始まるだろう。やるべきことはただ一つ。……エウラリカが殺されるよりも早く、相手を排除すること。
(恐らくルージェンだけを叩いても意味がない。南方連合の手の人間は相当内部にまで食い込んでいるとみるのが妥当だし、その一人一人を殺して回るというのは良策ではない)
足を組み、カナンは深々と嘆息した。何ならエウラリカを皇帝に据えることができれば、南方連合の勢力など一掃することができるのだが……。現状、カナンもエウラリカも特段大きな権力を持たない以上、中枢で直接裁量を握ることはできない。
(エウラリカに後ろ盾をつけるか……あるいは俺が何とか、)
カナンが頭を悩ませているのをよそに、エウラリカは微かな寝息を立てている。無理もない、とカナンは肩を竦めた。だって今日は早朝から随分な大冒険だった。
「――ウォルテール様! 主都が!」
不意に、外でアニナが悲鳴を上げるのが聞こえた。次いで周囲を囲む兵たちのどよめきが上がる。馬車は徐々に速度を落とし、一度大きく揺れて止まった。その衝撃でエウラリカがぱちりと目を覚まし、「どうしたの」とカナンを振り返る。
カナンは窓の外を一瞥する。漏れ聞こえる会話に耳を澄ませ、そうしてエウラリカに向かってわざとらしくもったいぶった口調で囁いた。
「火事ですって」
聞くやいなや、エウラリカの目に愉悦が閃いた。彼女は立ち上がるやいなや馬車の窓を押し開け、外に身を乗り出すと「まあ、火事!?」と白々しく叫ぶ。それを追ってカナンも腰を浮かせ、エウラリカが見ている方向に顔を向けた。
先程発ってきた主都から、細くたなびく煙が立ち上っている。その煙がどこから発生しているかを、カナンとエウラリカは知っている。主都の中央、城の中である。
「おや」とカナンは眉を上げ、短く息を吐いた。
「これは大変だ……」
こんなところまで煙は届かないと分かっていても、どうしても口と鼻を覆ってしまう。エウラリカが目を細めて頬を吊り上げた。
これはほんの小さな火事である。大火と呼ぶのもおこがましい、災害にもならないような些細な小火だ。何が燃えているかなど知ったことではない。
――林を切り開いて作られた温室、その床に敷き詰められたタイルの一つは持ち上げることができる。その下に開けられた縦穴の先、地下には倉庫があって、そこには依存性が高いゆえに異名をつけられた、とある植物から作られる薬物が保管されているのだ。
その倉庫は、地下通路によって資料庫に繋がっているのだという。聞けば、資料庫は左大臣の執務室の近くに位置しているとか。……そんなのは知ったことではない。
「……一体、誰が火をつけたのかしら」
エウラリカは窓枠に手をつき、吹き渡る風に髪を躍らせるがままにして呟いた。
風通しの良いハルジェルの地形は、そこに住む人間の信条としても刻まれているという。だったら領の主が領民に隠れて企てをするだなんて、そんな風通しの良くない不透明なことなんて駄目だろう。
主都から煙が出ればその発生源はおのずと明らかになる。流石の領主とて完全にもみ消せまい。エウラリカは好戦的に目を輝かせ、主都の輪郭を望んでいる。これからハルジェルを襲うであろう混乱と騒動を思って、カナンも思わずほくそ笑んだ。
関係のない市民まで巻き込まれて可哀想? そんなのは知ったことではないわ。
そう言い放ったエウラリカの横顔を思い出す。燭台に火を灯し、木箱にひとつひとつ火をつけて回った、今朝の秘め事の香りが鼻腔に蘇った。
エウラリカの眠っていた部屋には血溜まりが残っている。しかしそこには人の姿はなく、死体は温室の中に安置された状態で見つかることだろう。
傾国の乙女が炎の中に飲み込まれてゆく。地下と炎とハルジェル。それは、分かる者が見れば一目瞭然な、悪趣味な文脈の話である。
これは宣戦布告だ。……こちらは、お前たちの企みを知っている。
カナンは目を眇めた。
「――きっと、とってもろくでもない奴ですよ」
白々しく言い放ったカナンに、エウラリカが頬を吊り上げる。
『私たち、とっても悪い子ね』
窓枠に頬杖をついて、彼女が人差し指を振った。




