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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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外遊-一脈3


「――エウラリカ様は勘が良いんですよね」

 気安い口調で端を発したが、ハルジェル領主は深刻な表情で口を開こうとしない。警戒されているのか、はたまた頭が真っ白になっているのか。

「僕のことは左大臣閣下から聞いていませんか?」

「き……聞いている」

「そうですか、それは良かった。……エウラリカ様の暗殺は難しいって進言しませんでしたっけ?」

 カナンがわざとらしい笑顔で問えば、領主は見るからに渋い顔をした。左大臣から話は言っているはずだが、それを聞き入れなかったのは明白である。カナンもルージェンの名を勝手に借りている以上人のことは言えないが。


「だから言ったのに……」

 カナンはこれ見よがしに腰に手を当てて嘆息してみせた。領主は憔悴した顔で項垂れている。何としてでもエウラリカをこの外遊にて殺害しなければならない。ハルジェルがそうした圧をかけられていることは知っているし、それだけにこの暗殺を諦めさせるのが難しいことも分かっている。

 頭を抱え、領主は血走った目を見開いていた。よほど切羽詰まっているのだろう。ハルジェルに課せられた重圧はそんなに大きいのか。



「――ところで、来賓席で末席にいた方、一体どなたかご存知ですか?」

 カナンが静かな声で微笑んだ瞬間、ヘンドリーは大きく目を見開いた。



 現帝はエウラリカの我が儘に振り回され、官僚との軋轢は深まり重臣たちからの信頼を失いつつある。皇帝の代替わりの話題はいつ出てもおかしくない状況である。これは明らかにエウラリカが故意に仕組んだものだったが、そこに乗じて良からぬ企てが進行しているのもまた事実だった。


 帝都ではルージェンを初めとした官僚たちが糸を引き、アジェンゼの横領やエウラリカの婚約を操ろうと画策している。ルージェンは地方出身の官僚を取り込んで第二王子派を形成し、エウラリカを排除することで次代の皇帝を手中に収めようという魂胆だろう。


 同時にハルジェル領は領内で違法薬物を製造し、帝都に輸出を続けていた。それはルージェンの仕組んだエウラリカの婚約と結びつき、婚約者としてあてがわれたイリージオの操縦のために利用された。結局イリージオは呵責に耐えかねて身を投げたが……。


 ルージェンによる度重なる暗殺は全て阻まれた。そうして仕組まれたのがこのハルジェル外遊である。ハルジェルではエウラリカを暗殺すべく、領主や左大臣が手ぐすね引いて待っていた。それではハルジェルの動機は何だ。……かつて新ドルト帝国がハルジェル王国を打ち負かして吸収したところに、禍根がなかったとは言い切れない。もう二百年も昔の話じゃないかと言いたいが、仕組まれた諸々からはハルジェル側の自己愛が透けて見えた。

(ハルジェル側というよりは……)

 カナンは横目で領主を一瞥する。初めは、ルージェンの背後にいるのがハルジェルなのかと思っていた。しかしこの領主がそこまで緻密に糸を張って帝都に網を投げられるとは思えない。



 すなわち――これらを全て仕組んだ人間がいる。

 エウラリカ曰く、それは『エーレフ』という、今は亡き前任者と繋がっている人間だという。エウラリカはその男について詳しくは語らないから、カナンにも詳細は分からない。しかしエーレフはエウラリカによって殺されており、その理由は『裏切ったから』。

 エーレフが殺された日とカナンが帝都に連行された日は一致している。エウラリカは従者を自ら処理したその足でカナンを拾い上げて後継とした。それではこの話題は、カナンがエウラリカと出会うより前から始まっていたのである。


 エーレフはエウラリカを裏切り、何者かの下についた。ではそれは誰か?



「ま……末席?」

「はい」

 頷くと、ヘンドリーは額に汗をかいたまま、愕然とした表情でカナンを見据えた。

「君は……何もかも、知っているのか」

「ええ」


(俺は何も知らない)

 カナンは胸の内で呟く。何も分かっていないのだ。エウラリカが置かれた境遇も、抱えている虚ろな感情の根源も、一体誰が悪意を差し向けているのかさえも分かっていない。


「先程しくじってしまった以上、エウラリカ様の暗殺はもう難しいでしょう。ウォルテール将軍もついていることですし、この先エウラリカ様が一人になる機会はないと言って良い。この件は帝都に持ち帰らせてください」

 カナンは努めて平然とした口調で告げた。領主は一瞬縋るような目をしたが、「しかし」と呟いて頭を振ってしまう。数秒考えて、カナンは優しい声と表情で領主の顔を覗き込んだ。



「大丈夫ですよ」

 カナンは穏やかに声をかけた。

「僕が取りなしておきましょうか。エウラリカ様の暗殺を見送ってもらえるように進言しておきます」

 男の目の奥に躊躇いが浮かぶ。カナンは艶然と笑みを深めて領主と視線を合わせた。

「……君があの方に言えば、今回の失敗は見逃してもらえるのか」

 カナンは否定も肯定もせずに微笑む。含みのある仕草で顎に手を添え、これ見よがしにため息をついた。


「しかし、あなたが本当にあの方の下についているのか、僕には確信が持てません。……あの方のお名前と正体、言えますか?」

 優位性を示した高慢な微笑みと、有無を言わせぬ問いかけ。逆らえない弱みを握った命令。そこに理路整然とした説得力は必要ないのだと、自分は既に身をもって知っている。喉元に首輪が触れる。鈴が笑うようにささやかな音を立てる。

「……それとも、言えませんか?」

 弓に矢をつがえ、獲物に狙いを定めるように、カナンは低い声で囁いた。「答えなさい、ヘンドリー」


 領主は喘ぐように喉を反らして、細い息を吸った。

「あ――アドゥヴァ様です」

 カナンは一瞬だけ指先を跳ねさせたが、表情は変えずに領主を睨みつけたままで、続きを促す。

「南方連合、首長の……アドゥヴァ・ナフタハル様」

 顔全体に汗をかき、哀れなほどに全身を震わせて、領主は答えた。その表情に嘘をつこうという気概は見られない。


 カナンはゆっくりと息を吸った。四肢が打ち震えた。それでは、これらの全ての糸を引いていたのは、


(帝都の南部、砂漠地帯に位置する他民族国家――南方連合!)



 ***


 今にも走り出してしまいそうな足を宥めて、カナンは大股の歩幅でエウラリカのところへと引き返した。

(南方連合……帝国とはあまり関わりはないが、近年急速に拡大を見せていることで要注意とされていた国だ……いや、国ではないのか?)

 何にせよ情報が少なすぎる。悶々と考えつつエウラリカの部屋の扉に手をかけたところで、中から男の声が聞こえてきた。


「……類い希なる美しい方です」

 それが苦しそうなウォルテールの声であると気づいた直後、エウラリカの声は静かに応じた。

「私、美しくなりたいだなんて、一度だって思ったことはないわ」

 その言葉を聞き届けるよりも早く、カナンは「エウラリカ様」と遮るように扉を開けていた。ウォルテールが体ごと振り返る。立ち上がってこちらに歩いてくると、逃がすまいとするようにカナンの腕を掴んで顔を寄せた。

「カナン。こんなときに一体どこへ行っていたんだ」

 苛立ちと焦りの滲む表情で、ウォルテールは低く吐き捨てる。カナンは片手を挙げ、ウォルテールをなだめるように「そう慌てないで、落ち着いてください」と呼びかけた。あしらうような態度にウォルテールは不服げだったが、しかし手を離して腕を組む。


 確かに、ウォルテールにしてみれば、式典の途中にエウラリカがいきなり怪我を負うところだったのである。あれが事故であったか故意の暗殺未遂であったのか、それを判別するだけの根拠はウォルテールにはないだろう。しかしこの将軍が警戒をするのももっともな状況であった。


「大丈夫。……大丈夫ですから」

 カナンは掠れた声でウォルテールに語りかけた。ウォルテールの目に疑心が浮かんでいる。眉をひそめ、カナンの一挙一動を見逃すまいとするような眼差しであった。

 芯から案じているようなウォルテールの顔を見据えれば、その向こうにルージェンの姿が見える。やるせなさが胸に広がった。ほんとうに、どうして、この人の兄なのだろう。


(いつか全てが明るみに出たとき、この人は耐えられるのだろうか)

 長兄の企てのこと。友人であった兄弟の死にまつわること。張り巡らされた謀略のこと。自分がこの外遊においてまるで人質のように動員されたことも、……自分が何も知らずにのうのうと暮らしていたことも。

「もう大丈夫です。……俺が近くにいる限り、エウラリカ様には決して危険を近づけさせるものか」

 声は自然と小さくなっていた。ウォルテールがカナンの肩を掴む。背を丸め、視線の高さを合わせて、ウォルテールはどこまでも真っ直ぐな目をしてカナンに問いかけるのだ。


「なあ、お前は、一体何を言っているんだ。……何を見ているんだ?」


 あまりに無邪気で、無知な言葉である。知らず、失笑が漏れていた。カナンは顔を背ける。ロウダン・ウォルテールという男がどうして『こう』なのか、説明されなくたって分かる。誠実なひとを作るためには、優しいひとを作るためには、同じだけのものを注ぐ必要があるのだ。

 ふと、ウォルテールの肩越しに、エウラリカと視線が重なった。整った顔立ちと目も眩むような地位を生まれながらに手にしておきながら、彼女はどこまでも無感動な目をしていた。

 カナンは無理やり口のかたちを笑みに作って、短く呟いた。

「いずれ分かる日が来ます。きっと……」

 悪意と敵意に晒され続けて、それでもなお誠実で優しくあるには、ひとはあまりに弱すぎる。



 ***


「入れば?」とエウラリカが声をかけたのは、カナンがその部屋の外に忍ぶようになって三度目の夜のことだった。


 夜風がやや肌寒い、涼しい晩だった。月明かりは雲間に見え隠れして、冴え冴えとした光を断続的に投げかけている。前触れもなく降ってきた声に意表を突かれて、カナンは馬鹿みたいに口を半開きにしたまま、背後の頭上を見上げた。

 窓枠に頬杖をついて、エウラリカはまるでふて腐れるような、どこか挑戦的な表情をしていた。長い髪は後頭で緩くまとめられ、一つになった束が肩を滑り落ちて胸元へ垂れている。


 カナンはしばらく呆然として、中腰のままエウラリカを見上げた。ややあって、ようやく理解が追いつく。こっそりエウラリカの部屋の外で座り込んでいたところを見つかった、ばつの悪さが襲ってくる。

「こん――こんばんは」

「どうも」

 全くもって頭の悪い挨拶をすると、エウラリカは軽く首を傾げて応じた。その手が頬杖をやめ、窓を大きく押し上げる。来い、と言わんばかりに彼女は顎をしゃくり、無言で踵を返して部屋の中へ戻ってしまう。カナンはしばらく躊躇って、それから、窓枠におずおずと両手を乗せる。

 暗い部屋の中、エウラリカは無言で立ち尽くしていた。折しも月明かりはこうこうと外壁を照らし出し、カナンは背後に白い光を背負ったまま、つと言葉を失った。


 地面を蹴り、両手で体を押し上げ、カナンは容易く室内へ潜り込んだ。エウラリカに言われて窓を閉じ、厚手のカーテンを引く。手招きされるがままに寝台へ寄る。鏡台から椅子を持ってきて、枕元まで移動させた。

 エウラリカは寝台の縁に腰掛けて、爪先が床についてもいないのに足を組んで偉そうにしている。

「さて、と……。何か掴めたことはあった?」

 当然のことのように飛び出た質問に、カナンは思わず面食らった。自分はエウラリカに一言も、領主に探りを入れたなどということは伝えていない。目を丸くするカナンに、エウラリカはどこか小馬鹿にしたような表情である。敵わない、とカナンは小さく嘆息した。


「そうですね、あの……式典の前、部屋に入ってきた男が、」

 そこまで言いかけて、カナンはふと口を噤んだ。南方連合という単語が脳裏をよぎる。瞬きの刹那に、広い地図の姿が瞼の裏に閃いた。カナンの知る地図に、南方連合が記されていることはなかった。ジェスタで見慣れていた地図も、帝都で掲げられる地図にも……。それは名前がないというだけの話ではないのだ。

 南方連合の支配する土地は従来の版図から遠く離れ、地図の外に位置している。だからそれがどれだけ大きいのか……どのような人間がどれだけ生きているのかも分からない。まさしく未知の領域であった。もちろん交易はあるし、存在だって互いに認識している。しかし、それでも南方連合という組織は、得体の知れないものであることに間違いはない。


「あの男が全部の糸を引いているのは分かっていると思いますけど、」

 言い淀むが、エウラリカは相槌も返さない。カナンは逡巡する。

(もしも俺がここで南方連合の名前を出したばかりに、エウラリカが更に危険に突っ込むようなことがあったらどうする)

 カナンはちらとエウラリカを見やった。彼女は腕組みをして、じっとカナンを窺っている。

 胸の内に、不安と危惧が去来する。いきなり押し黙ってしまったカナンを、エウラリカは黙って見据えていた。その視線は何やら探るような鋭さがあり、カナンはゆっくりと息を吸う。


「あの、男は……」

 一瞬だけ、適当な嘘をついてしまおうかという衝動が脳裏に浮かんだ。おずおずと顔を上げれば、何を考えているか分からないエウラリカの無表情が待ち構えている。


「……南方連合の首長、アドゥヴァ・ナフタハル」


 まるで痰が絡むように、その言葉は酷くつっかえながら出てきた。エウラリカはしばらく、少し目を見開いたまま、カナンを見て沈思する。その表情に、正体の分からない安堵が浮かぶのが分かった。

「――良い子ね」

 そう呟いて、エウラリカが微笑む。「お前ならちゃんと答えてくれると思ったわ」と彼女は組んでいた腕をほどいてカナンに向き直った。



 カナンは腰を浮かせて、「でも」と語気を強くした。エウラリカが自身の唇の前に人差し指を立て、声量を落とすように合図する。カナンは大人しく椅子に座り直して、再度「でも、だからと言って」と低い声で切り出した。

「……これ以上危ないこととか、自分を蔑ろにするようなことはしないでくださいよ」

 エウラリカはゆるりと首を傾げて微笑む。「私だってわざわざ必要もないのに危険を冒さないわよ」と余裕綽々で笑う表情が小憎らしく、カナンは思わず鼻に皺を寄せてしかめ面になる。


「……俺が何も言わないから流されたと思っているのかもしれませんが、俺は怒っているんですからね」

「あら、何の話?」

「昨日のことです」

 エウラリカはわざとらしく頬に手を当てて唇を尖らせ、素知らぬ顔をした。分かっているくせに、とカナンは半目になった。

 カナンは唸るように呟く。

「……嘘をついて抜け出したこと」

「お前に私の全ての行動を教えて差し上げる必要があるとでも?」

「左大臣のところまで忍んだでしょう」

「だって絶対にあの男が何かを知っているんだもの。訊きに行くのは当然だわ」

 エウラリカは飄々とした態度を崩さずに薄ら笑いを浮かべている。


「初めて顔を合わせた中年男の頬にくれてやるほど、あなたの唇は無価値ですか」

「……ええ」

「あんな男に見せてやるほど、あなたの肌は価値がありませんか」

「ちょっとちらつかせたら情報を吐くと思ったのよ」

 淡々と答えるエウラリカを見ているうちに、カナンは苛立ちがこみ上げてくるのを感じていた。あまりにも浅はかな判断だった。


「どうして、あんなことを言ったんですか」

「あら、どれのことかしら?」

 堂々としらばっくれて、エウラリカが首を捻る。カナンは無言で立ち上がった。エウラリカは寝台に腰掛けたまま、悠然とした微笑みを崩さない。


 片膝を寝台に乗せると、寝台は小さく軋んだ。膝が沈み込み、エウラリカの体が僅かに傾ぐ。彼女は静かに微笑んでいる。

「……身も心も捧げる覚悟だったんですか?」

 一世一代の問いに、エウラリカはあっさりと頷くのだ。

「誰でも良かったの」

 そうだろうな、とカナンは内心で呟いた。あんたはそういう女だ。諦念とともに、ふつふつとした怒りが胸の内で渦巻く。誰でも良いなら俺でも、と直截な言葉を唇に乗せかけて、すんでのところで飲み込んだ。



 気づけば、その華奢な肩に手をかけていた。影が落ちる。

「エウラリカ様――せっかく情報を掴んできた飼い犬に、ご褒美はないんですか」

 一瞬、エウラリカの目が意外そうに丸く見開かれた。カナンを見上げて、「あら」と呟く。

 少し脅してやるつもりだったのだ。自分がどれだけ危険な手段を取ろうとしていたのか、どれだけ大それたことをしようとしていたのかを教えてやるつもりだった。俺がどんなに肝を冷やしたか思い知らせてやる。意趣返しのつもりで肩に触れた手のひらが、妙に熱い。


 エウラリカは黙ってカナンを見上げていた。僅かに首を反らし、その頬に浮かぶのは愉悦の笑みである。今にも組み敷かれようとしている側はエウラリカだというのに、彼女の表情に臆する素振りはなかった。むしろ好戦的と言っても良いような眼光だ。カナンはその場に縫い止められたように動けなくなった。

 耳の中で心臓の音がうるさい。エウラリカはゆっくりと口角を上げる。目が離せない。月明かりが長く延びて、寝台の中央を横切っていた。四角く切り取られた光の中でエウラリカがこちらを見ている。


 ほんとうに美しいのだ。ほんとうに……。


(――放したくない、)

 じわりと五指に力がこもる。肩口で寝間着の布地が皺を作る。細い首筋に、うなじの生え際から落ちた後れ毛が緩く弧を描いて影を作っている。

 自然と、肩から背へ、手のひらが滑り落ちた。エウラリカは拒まなかった。まるで人形のように身を預ける矮躯を胸の内に抱きかかえる。無意識のうちに腕が強ばっていた。きつく抱き締められても、彼女は別段文句を言わなかった。苦しげな息を一瞬だけ漏らしたのに気づいてはいたが、どうしても腕を緩めてやることができなかった。


「エウラリカ様、」

 その体を強く抱けば抱くほど、底冷えするような恐怖が広がってゆくのだ。吐いた呼吸は情けなく震えていた。両腕をその背に回して、胸に押しつけるみたいにして抱きすくめた。エウラリカは拒まない。拒まないが、ただそれだけだ。


 こんなに力一杯繋ぎ止めようとしたって、あなたはきっと容易くするりと抜け出して、我が身を危険に晒しに行くのだろう。だったら自分で手にかけた方が良いじゃないか。分かっている。よく分かっている。エウラリカが何を望んでいるのかを俺は分かっている。あの日下された命令はただひとつ。


「エウラリカ様――」

 その肩口に顔を伏せて、カナンは掠れた声で囁いた。


「僕には、あなたは殺せない……」


 はっきり聞こえただろうに、エウラリカはしばらくの間、黙って目を伏せていた。カナンもまた、何を言うこともなかった。ふと、エウラリカは顔を上げ、頬を胸につけたまま、ゆるりと目を細める。その唇が動いた。

 流暢に綴られた言葉は、かつて王子であった青年の母語である。少女が嗤う。底で両腕を広げて待ち構えるように、墜ちてくるのを受け止めようとするみたいに、エウラリカが囁いた。


『――悪い子ね』


 久しく聞いていなかった母語は素早く染み込んだ。その言葉は知っている。カナンの中でのそれは、犬を叱るときの言葉だった。

 彼女の目に浮かぶのは紛れもない諦念だ。投げやりな破壊願望が確かにそこにあった。視線が真正面から重なった瞬間、箍が外れたような気がした。



 寝台に倒れ込みながら、エウラリカは唇の前に人差し指を立てて悪戯っぽく微笑んだ。

『教えてあげる。そこの枕の下に、とても良く切れる短剣を隠してあるのよ』

 そう言ったエウラリカは、しかし、終ぞそれを取り出すことはなかった。




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