外遊-一脈1
しばらく部屋には沈黙が降りた。カナンは窓際で玄関先の様子を眺める。折しもまた一つ馬車が停止し、扉が開かれた。折りたたんでいた体を広げるようにして、大柄な男が小さな箱の中から姿を表した。知らず知らずのうちに、カナンはその様子に目を吸い寄せられる。
(……誰だ、あれ)
艶のある褐色肌の男であった。遠目にもその立ち姿がしなやかで鍛えられた人間のそれであることが分かる。思わず喉を鳴らして唾を飲み込んだ。ひとときも視線を逸らせないような、威圧にも似た魅力を持つ男だった。
その姿が玄関に吸い込まれて見えなくなるまで、カナンは身じろぎ一つせずに、凍り付いたように立ち尽くしていた。
「……エウラリカ様、」
じわりと氷の表面が溶けるのを待って、カナンは低い声で呼びかける。エウラリカは机から足を下ろしながら「何」と振り返る。カナンはまだ窓を向いたまま、何を言えば良いか分からずにしばらく逡巡した。
「い……今、見慣れない男が、来ました」
「そりゃあ各地から重鎮の皆々様が集まっているんだから、お前が知らない男がいるのは当然――」
「そうじゃなくてっ」
エウラリカの言葉を遮って、カナンは体ごと振り返る。一言で言えば、『ただ者ではない』。しかし、それをそのままエウラリカに伝えれば、彼女が小馬鹿にしたようにせせら笑うのが目に浮かぶようだった。
扉が何の合図もなしに開け放たれたのは、その直後のことであった。カナンとエウラリカは同時に振り返る。エウラリカが弾かれたように立ち上がり、長椅子の背後に回り込んで身構えた。
ノックもせずに扉を押し開けたのは、巨躯の男であった。カナンははっと息を飲む。間違いなく、先程玄関から入ってきた男である。素早く目配せをすると、エウラリカは警戒を示してさりげなく腰に手をやっていた。そんな空気感など気にも留めないように、男は緩慢な仕草で頭を掻く。聞き慣れない発音で一言二言呟いたが、どうも『おやおや』と似たような意味合いの感嘆詞に思えた。
まだ若い、三十路に差しかかる前に見える男だった。内側から生命力が張り詰めた、巨大な肉食獣を思い出させるような存在感であった。傍に立っているだけで肌の表面がヒリつくようだ。
一体何者だ。何の用だ。厳しい誰何を飛ばそうと思ったのに、何故か声は喉元で絡みついて離れない。カナンとエウラリカは表情を険しくしたまま、男と対峙した。
「部屋を間違えてしまったようだ。申し訳ない」
男はやや癖のある帝国語で告げて、悪びれることなく片手を広げて軽く振ってみせた。そのまま部屋の中にずかずか入って来ようとするので、エウラリカが素早く「なら出て行ってもらえる?」と厳しい口調で告げる。
「帝国のお姫様は手厳しいな。初めまして、エウラリカ様……で合っているか?」
「正解よ。それならさっさと退室して扉を閉じてちょうだい」
「つれないな。せっかくこうして部屋に来たんだから、顔くらい見せてくれたって良いだろうに」
「知らない人間に顔を品評されるのは嫌いなの。今ならまだ無礼を見逃してやるわよ」
言いながら、エウラリカは軽く咳払いをした。カナンはすぐに了承して、男の前に歩み出てその歩みを阻む。「お引き取りください」と男の肩を掴むが、男はそれを拒まない。
そればかりか、悠然とした仕草で、カナンとエウラリカの顔をゆっくりと見比べて頬を吊り上げてみせた。人差し指を立て、したり顔で首を傾げる。
「今の咳払いは、さしずめ二人だけの合図って訳だな、お姫様?」
「…………。」
それまで戸惑いと警戒ばかりを示していたエウラリカの表情に、僅かな動揺が滲んだ。カナンも思わず息を飲む。男は愉快そうに目を細めた。
「そう怒ったような顔をしないでくれよ。まさかこんなお粗末な手段で『秘密の合図』って訳じゃないんだろう?」
男は後ろ手に扉を閉じ、肩を揺するとあっさりとカナンの手を外す。カナンは慌ててその進路に割って入った。
「それ以上近づかないで頂きたい」
暗に剣の存在を示しながら睨みつければ、男は一瞬目を丸くしてから、呵々と大笑する。カナンは鼻白んで唇を引き結んだが、男はエウラリカを振り返ってにやりと笑った。
「可愛い忠犬だな。いや……駄犬か?」
「人の従者に口出しをする暇があったら自分の従者の躾をしておきなさい。部外者からの講釈は結構」
よそ行き用の愚鈍か本性かの間で決めかねていたエウラリカの態度が定まる。エウラリカはつんと顎をもたげ、首を反らすようにして男に対峙した。
「俺の従者は一人前以上に立派な働きをしてくれるさ、この坊やとは違ってな」
「何が言いたいの?」
「首輪までして厳重に繋ぎ止めて、よほど信頼が浅いとみた。どうせ付き合いも短いんだろう。そうだな、これはあくまで予想だが――せいぜい四年程度か?」
その数字はまさしく事実であった。適当に口にしたには偶然が過ぎやしないか、とカナンは肩を強ばらせる。その隙に男の手が伸びて、カナンの首に嵌められたそれに触れた。鈴が揺れる。
首の太さからはややゆとりのある首輪の内側に指を引っかけて、男はほほえんだ。首輪が締まったせいで喉元に首輪が食い込み、カナンはこみ上げてくる嘔吐感を飲み下す。軽くえずいたところで、エウラリカは視線を鋭くした。
「その汚い手を離しなさい」
エウラリカが低い声で吐き捨てると、男は腕を引っ込めた。カナンはすぐに距離を取って喉を押さえた。
男はひょいと肩を竦め、諦めたように両手を上げてみせた。扉の方に体を向けながら、男がこれ見よがしに嘆息する。
「絶世の美女と名高いエウラリカ王女のご尊顔でも拝もうと思ったが、輪郭すら見させてもらえないと来た。話に聞いていた以上に人を寄せ付けないお方だな」
「……その話、誰から聞いたの?」
「昔の知り合いだ。今はどこで何をしているのか知らないが」
男は扉を開け、廊下に半身を出したまま、エウラリカを振り返った。
「なあ、お姫様。――エーレフという男がどこに行ったのか、あんた、ご存知じゃないか?」
その名前を耳にした瞬間、エウラリカが総毛立つのが、傍目にも分かった。その肩が持ち上がり、エウラリカの喉が引きつるような音を立てる。カナンの驚きも同様であった。
(エーレフ、……エウラリカを裏切って殺された、俺の前任者、)
カナンにはエーレフの素性も人格もさっぱり分からない。けれどその存在が、エウラリカにとってどれだけの大きさを占めているのかは、おぼろげながら分かっている。そのつもりだ。だってエウラリカはエーレフの話をするとき、いつも苦しそうな顔をしている。
男は顎に手を添えて虚空に視線をやる。
「あの男に用事があるんだが、あるときぱったりと足取りが途絶えてな。本当に知らないか?」
「知らないし、たとえ知っていたとしても教える義理はないわ」
エウラリカは硬い声で答えると、落ち着かない様子で身じろぎし、腹の前で強く拳を握った。その頬が青ざめている。
「ねえ、あなた、……エーレフと、何の関係があったの」
絞り出すような声に、しかし男は「それこそあんたに教える義理はないな」と人を食ったような態度で肩を竦めた。
男は「じゃあ」と片手を上げて部屋を出て行く。
「待ちなさい!」
エウラリカの鋭い声が響いたが、それを意にも介さず男は扉を閉めた。
室内にしんとした空気が広がる。エウラリカは立ち竦んだまま、男が姿を消した扉を見つめて動かない。
「エウラリカ様、」
「……あの男、生前のエーレフと関わりがあったんだわ」
エウラリカはうわごとのように呟いた。握り締められたその手が震えている。それだけで、彼女の驚愕がまるで手に取るように分かった。
「エウラリカ様、大丈夫ですか」
「ええ……」
カナンが声をかけると、彼女はよろめきながら長椅子に腰を下ろす。片手を口元に添え、エウラリカは俯いて沈黙した。その全身を憂いが包み込んでいるような気がして、カナンは思わず眉を下げて目を伏せた。
形になる前の苛立ちがもやもやと胸に立ちこめたが、それを露わにするほど無神経ではない。
(そのエーレフって奴は、あなたにとってそんなに大事な存在かよ)
間違ってもそんなことを口に出すほど、馬鹿じゃない。
***
エウラリカは見るからに動揺していた。係の人間が式典の開始を告げ、会場まで先導する間も、ずっと上の空である。
衣装の長い裳裾が床を引きずらないように、カナンはその裾を持ち上げる。そのせいでエウラリカとは距離があり、耳打ちをすることも軽く小突くことも叶わない。歯がゆさと危なっかしさにカナンは気が気でなかった。
誘導されたのは大扉の前で、向こうからは大勢の人の気配が伝わってきていた。待ち構えていたのは領主一人きりで、カナンは半ば睨むような視線でその顔色を窺った。厳しい表情をしているのは領主も同様である。
「こんにちは、ヘンドリー。何だか緊張してる?」
が、その緊迫した空気を打ち壊すように、エウラリカが出会い頭にぶちかます。カナンは思わず顔を引きつらせたが、ぴくりと頬が動いたのは領主も同様だった。「こんにちは、エウラリカ様」と応じた領主は、何とか笑みのような形を作ろうとしたらしいが、その下手くそさときたら直視に耐えなかった。
「ヘンドリーは、領主になって何年目なの?」
「ええと……五、六年でしょうか」
「そう」とエウラリカは笑顔で頷いた。「わたしは十九年間王女よ」
「そうですねぇ」
領主も、ようやくエウラリカがまともに話をする気がないと気づいたらしい。適当な相槌を打って、こっそり嘆息をしていた。およそ隠す気がないと思えるほどあからさまな態度だったが、エウラリカは気づかないふりで、なおも中身のない雑談を投げつけている。不毛な時間である。
少なくとも領主と左大臣が帝都の主権を握ろうとする輩の一員であることは、既に分かっている。カナンは無言で領主の顔を観察する。領主としてのこの男の評価は存じ上げないが、企てをするには不向きな人間であるという印象を受けた。
端的に言って、分かりやすすぎるのである。今だってそうだ。横目でエウラリカを窺ったときの視線。ぎらつくような憎悪と敵愾心が、その眼差しにありありと浮かび上がる。ハルジェル領と帝都の確執がそこに透けて見えるような気がした。
領主とエウラリカを先頭に、大扉の前に賓客たちが集まり始める。カナンはそれとなく首を巡らせて、先程の男がいないかを探すが、……見当たらない。
(賓客ではないのか? まさか誰かの側近とか……あの態度で?)
カナンが首を捻っている間にも着々と準備は整い、ついに大扉がゆっくりと開かれる。溢れんばかりの拍手と外の光が面々を出迎えた。
カナンは素早く会場に視線を走らせた。扉の向こうには手前に賓客用の長机、反対側に客席が用意されているらしい。ぎっしりと人の詰めかけている様子には思わず閉口したが、見通しはさほど悪くない。客席からもそれほど距離はないが……石や矢くらいなら届くだろうか? しかし、真正面で石を振り上げたり、弓に矢をつがえている輩がいたら、流石に気づくはずだ。
とにかく、エウラリカの安全には気をつけなければならない。カナンはこっそりと嘆息した。




