外遊-ハルジェル主都にて5
「ええっ、エウラリカ様の準備ってまだ終わってないんですか」
身支度を終えたカナンが部屋から出ると、まだエウラリカの姿が見当たらない。だいぶ前から準備に入っていたはずだけども……。目を丸くして廊下の奥を見やると、ウォルテールとその部下デルトは揃って苦い顔で頷いた。
今日は朝からエウラリカの部屋に侍女たちが押し寄せ、アニナの指示のもとエウラリカを飾り立てているらしい。アニナが右大臣の娘であるという情報は知れ渡っているようで、随分な幅の利かせようである。
朝方の会話もあって、カナンは思わずはらはらしながらエウラリカのいる方向を見やった。エウラリカ着替え中につき男子禁制にされてしまった廊下を眺め、カナンは腕を組んで嘆息した。エウラリカはあれでいて、井戸の中だとか、どこででも着替える女だから、今さらだと思うけれど……。
「カナンも似合ってるじゃないか」
「どうも」
デルトが肩を叩いて冷やかしてくるので、カナンは苦笑で応じた。今日のカナンは非常に久しぶりの正装をしていた。城内でエウラリカに随行しているときならいざ知らず、国内外から賓客の集まる式典において王女の傍に控えるとなれば、それなりの服装が求められる。
おおよそ軍の礼服と同じような形なのだが、首元がどうも苦しくていけなかった。全体的に緩いつくりのジェスタの正装が懐かしい。カナンは詰め襟に指を引っかけながら、こっそり嘆息した。
デルトは満面の笑みで「そう恥ずかしがるなって」と腰に手を当てる。
「そうしてると何だか、どこかの王子様みたいだぞ」
「はッ!?」
それまで興味なさげに外を眺めていたウォルテールが、驚くほど俊敏に振り返る。
「あ、はい……そうですか」
カナンもいきなりの図星に咄嗟に妙な返事をしてしまう。つとその場に微妙な空気が流れたが、元凶であるデルトは何も気づく様子なく、一人だけ朗らかに笑っていた。
ウォルテールが『落ち着け』とでもいうように目顔で訴えてくるので、『当たり前です』の意を込めてカナンは肩を竦めてみせた。
「ともかく、出発しなければいけない時間が迫っているから、先に馬車の方へ行っていなさい」
「はい」
体よく追い払われて、カナンはそそくさとその場を離れた。どうもウォルテールに危ない人間だと思われている気がしてならない。不本意である。
馬車の前で腕を組み、カナンは身じろぎ一つせずにエウラリカを待ち構えていた。初夏らしい張りのある青天に、色の濃い葉を広げた木々の枝々が映えている。日陰に停められた馬車の周辺は、ひんやりとした空気が漂っていた。御者は何くれと馬の世話を焼きながらも、カナンが気になるのかちらちらと横目で窺ってくる。純朴そうな顔をした中年男である。
「……良い天気ですね」
あまりこちらを見てくるので、応じるように声をかける。御者は小さく微笑んで会釈をした。ハルジェル側が用意した馬車と御者である。少し思うところがあって、カナンは一旦馬車に入って内部を見回した。座席に手を這わせて異常がないかを確認する。
(何もない、か……)
詰めていた息をそっと吐いたところで、背後のすぐ傍に気配を感じた。戦慄する。咄嗟に体を捻って腕を振り払いながら振り返ると、御者が一歩下がって避けるのが分かった。カナンは肩で息をしながら、無言で御者の表情を観察した。
「――何か異常でもありましたか?」
御者は不思議そうに首を傾げている。その仕草が果たして本当に邪気のないものなのか、それともそうと装われたものなのか。その判断がつかずに、カナンはごくりと唾を飲んだ。
(過敏になっているみたいだ)
胸に手を当てて、早鐘を打つ心臓を宥めるように深呼吸をする。額に滲んだ汗が僅かな風の動きを知らせていた。
結局、馬車に何かが仕掛けられている様子はなかった。拍子抜けして、カナンは深々とため息をつきながら馬車の前でしゃがみ込む。どうも気を張り詰めすぎて良くないな。
「体調が悪いなら中で待って頂いても」と御者が気遣わしげに覗き込むのを軽く断って、カナンは膝に手をついて腰を浮かせた。そろそろ出発しないと式典に間に合わない頃である。もういい加減エウラリカの準備も済んだだろう。
そう思いながら、落ちてきた髪を耳にかけて顔を上げた。瞬間、玄関先のざわめきがぴたりと鎮まる。
(何だ……?)
怪訝に視線を寄越す。言葉が思い浮かぶよりも先に、息が止まるのが分かった。
「うわー、とんでもないべっぴんさんだなぁ」
独り言のように御者が呟く。その言葉に相槌をうつ余裕もなかった。
風が薙ぐ。真っ先に目に入ったのは、驚くほど深い碧色をした双眸だった。不敵とも言って良いような表情で、微笑みを湛えたエウラリカが玄関先から歩み出す。
(『エウラリカ』だ、)
当たり前の事実が胸に浮かぶ。カナンは大きく目を見開いたまま、凍り付いたように立ち尽くしていた。
エウラリカは背後に裳裾を持ち上げる侍女を従えつつ、楚々とした足取りで光の下へ足を踏み出した。額や鼻先、頬に陽が射し、その顔を輝かせている。緩慢なほどの瞬きののち、閃くように眼差しが外界に差し向けられた。その双眸に息を飲むほどに怜悧な光が宿る。
自身に満ち溢れた表情であった。泰然とした余裕をまとい、衆人の耳目を浴びるがままにして目を細めている。紅を引いた唇が蠱惑的に弧を描く。
――私を見ろ。その全身が告げていた。一瞬たりとも目を逸らすことを許さない、それはまさしく王者の風格であった。
カナンの全身が震える。エウラリカは一旦横を向いて、ウォルテールと短いやり取りを交わしたらしい。軽く頷くような仕草をしたのち、滑らせるように視線を動かす。視線が重なるのが分かった。エウラリカは艶然と微笑んだまま表情を崩さず、カナンは声もなく立ち尽くす。
エウラリカは迷いのない足取りでカナンの前まで来ると、じっと見なければ気づかないほどほんの少し、くいと口角を持ち上げた。間近で見るとエウラリカはますます恐ろしいほどの存在感を放っており、カナンは思わず目を伏せた。
「どうぞ」と馬車の扉を開けると、エウラリカはするりと馬車に乗り込む。引きずるほどに長い裳裾が、馬車の入り口と踏み台に軌跡のように残った。カナンは屈んでそれを持ち上げると、馬車の中に自分も乗り込む。内側から扉を閉めると、直後にエウラリカは「ふう」と唇を尖らせて息を吐いた。
馬車がゆっくりと動き出すのを全身で感じながら、カナンは正面で横柄に足を組むエウラリカを見やった。
「……お綺麗です、って言ったら、怒りますか」
「怒りはしないけど、今朝方のお前が何も話を聞いていなかったとは思うわね」
「まあ、そうですね」
エウラリカの目鼻は普段よりくっきりと際立ち、普段のように線の細い、儚げな様子は薄れていた。きりと目元が涼やかな輪郭を描いている。改めて見てみると、気の強いエウラリカの内面がいつもより分かりやすく表に出ているように思えた。
「色々と口出しをしていたら長くなったわ」
「口出ししたんですか? てっきり為されるがままかと」
「……放っておいたら肖像画と全く同じ顔が完成しそうだったから」
エウラリカは鼻を鳴らし、足を組み替えた。何くれと化粧に注文をつけているエウラリカを想像すると面白くて、カナンは思わず口元に手をやって笑いを堪える。「何よ」とエウラリカが眦をつり上げた。が、本気で怒っている様子ではなく、カナンの脛を爪先で小突いて鼻を鳴らしている。
エウラリカは腕を組んで窓の外を睨みつけていた。少し居心地の悪そうな横顔を盗み見ながら、カナンは慎重に口を開いた。
「……よくお似合いですよ」
帰ってきたのは小馬鹿にしたような吐息一つ。ろくに取り合う気のない呆れ顔に、カナンはおずおずと微笑んだ。
馬車はゆっくりと宮殿の道を進んでゆく。馬車の中は濃い影に包まれていたが、細く開かれた窓からは、爽やかな夏の風と眩いばかりの日差しが一筋、射し込んでいた。
エウラリカを形容するのに『美しい』も『綺麗』も駄目なのなら、どうすればいい? カナンは腕を組んで馬車の天井をしばらく見つめた。
ようやく一つの案が思い浮かんだのは、馬車が徐々に速度を落とし、一つの建物の玄関先に付けようと停止した直後だった。なるほど、とカナンは真顔で独りごちる。
「エウラリカ様」
「ん?」
顔を覆い隠すようなヴェールを頭から被りながら、エウラリカが顔を上げた。カナンは馬車の扉に手をかけたまま、何も考えずに思いついた言葉を口にする。
「――かわいいですよ」
これはどうか、とエウラリカの様子を見守るが、彼女は一向に口を開こうとしない。馬車は更に遅くなり、僅かな揺れと車輪の軋みともに完全に停止する。その間、エウラリカはヴェールを整える姿勢のままずっと硬直していた。
「…………正気?」
長い沈黙ののち、エウラリカはそれだけ応える。顔色はヴェールに隠されて分からなかった。カナンは目を逸らした。……少し調子に乗ったかもしれない。
***
「私たちが宮殿内に滞在するのは明日の午前中まで。……この式典が平和に終わると思う?」
「思いませんね」
誘導された控え室の隅、エウラリカが腕を組んで目を眇める。顔を覆うヴェールは比較的厚く、遠目ではエウラリカの顔は顎先さえも見えない。しかし手の届く程度の距離であればその表情を窺うのには支障はなく、エウラリカが面白がるような顔で玄関先を見やっているのがよく分かった。
「それ暑くないんですか?」
「暑いか暑くないかで言ったら暑いわよ」
ふん、と鼻を鳴らす。エウラリカは「今すぐ取りたいわ」と唇を尖らせた。
これ見よがしに並べられた皿の数々を親指で指し示しながら、エウラリカが皮肉げに頬を吊り上げる。
「お前、そこの軽食試してみなさいよ」
「積極的に僕を殺そうとしないでください」
カナンが半目になると、エウラリカは鼻で笑いながら腕を上げ、後頭部に指先をやった。結い上げられた髪の結び目の辺りに手をやり、髪飾りを取ろうとするような仕草をする。
「何してるんですか、髪が乱れますよ」
「この髪飾りは全部済んだ後に後出しでつけてくれって言ったから、取っても髪が落ちることはないはずだわ」
「分からないでしょうが、せっかく丁寧に整えてくれたってのに……」
言いつつ、カナンは背後に回り込んで、問題の髪飾りを確認する。要するに簪である。カナンは何年も前に見た妹の髪を思い浮かべながら考えた。適切な角度で引き抜けば良いのだろうが……。
「どうして取りたいんですか」
「これ銀なのよ」
「ああ」
軽く頷いて、カナンは慎重に外した髪飾りをエウラリカに手渡した。彼女は踊るような足取りで円卓に近づくと、小ぶりな水差しに髪飾りを差し入れる。しばらく黙って様子を見守っていたかと思うと、くるりと振り返って口元に手を添える。エウラリカは芝居がかった茶目っ気のある驚き顔で、変色した簪を掲げた。
「見てこれ、びっくりするほどお粗末」
「ですね」
エウラリカがカーテンの裾で髪飾りを拭っているのを尻目に、カナンは腕を組んで部屋の中をぐるりと見回した。目に見えない悪意が渦巻いている。それは、肌が引き攣れるような不快感であった。
式典が行われる祭儀場の裏に作られたこの建物には、どうやら他にも式典への招待客が控えているらしい。建物の規模と入ってくる人数から察するに、他の人間はここよりも小さな部屋に入れられているか、それとも大部屋に入れられているのだろう。
帝都への反逆を目論見ながら、それでも皇帝の娘には礼を尽くす態度が滑稽だ。まあ礼を尽くす尽くさないという話題では、とてもじゃないが相手を咎められない。カナンはちらと横目で主人を窺った。エウラリカは長椅子の上ですっかり寛いで、靴を脱ぎ捨てて机の縁に踵を乗せる無礼ぶりである。
「エウラリカ様、足を下ろしてください」
「やだ」
カナンが声をかけても返事はにべもなく、エウラリカは薄ら笑いを浮かべる。
「いちいちお行儀を気にするなんて、お前ってお生まれが良いのねぇ」
「誰が言ってるんですか」
カナンは慣れた調子で嫌味を投げ返したが、エウラリカは一瞬だけカナンを見据えたのち、完全無視を決め込んだ。腕を組んで虚空を睨みつけている。深く思案しているような横顔に、カナンはそれ以上の会話を諦めた。
当然だ、エウラリカとてこんな状況で気が張り詰めないはずがない。その表情はどこか怒っているようにも見えた。




