露営
ウォルテールと合流し、一行は再び南方のハルジェル主都に進路を取って進み始めた。とはいえ時刻は既に宵の口で、視界も悪い。それから程なくしてウォルテールは野営の指示を出し、焚き火を囲んで簡素な夕食を摂ることになった。
どうやらこれがエウラリカのお気に召したらしい。このような野宿が王女の不興を招きやしないかと戦々恐々としている兵たちをよそに、エウラリカは夕飯を二度もおかわりしてご満悦だった。
食事を終え、数人の下級兵たちが後片付けのために立ったほかは、誰もが焚き火を向いて輪になっていた。ご丁寧に敷いて頂いた敷布の上で、エウラリカは足を揃えて膝を抱えている。隣のカナンはぼうっと炎を眺めたまま背を丸めて胡座をかいていたが、エウラリカが振り向く気配を感じて姿勢を伸ばした。
エウラリカは目を細めて笑っていた。耳打ちしようとするように顔を寄せてくるので、応じて体を傾ける。
「……私、夜の森なんて初めてだし、地面に座って食事をするのも初めて」
エウラリカは弾む声でカナンの耳元に囁く。明かりはささやかな月影と絶え間なく揺らめく炎ばかりだったが、エウラリカが大いに目を輝かせているのは分かった。
「楽しいわね」
焚き火から立ち上る煙を見上げて、エウラリカは頬を綻ばせている。絶え間なく揺れる光に、その横顔が浮かび上がっている。それを眺めながら、カナンは「そうですね」と微笑んだ。
兵がおのおの寝静まった夜更け、カナンは眠そうに目を擦っている兵に声をかけて夜番を代わった。どういう訳か、目が冴えているのか気分が昂ぶっているのか、眠れる気がしなかったのである。
傍らに摘まれていた小枝を手に取り、意味もなく弄びながら、カナンは夜の物音に耳を澄ませていた。軍人たちの盛大ないびきの向こうで、風にさざめく梢の外れやフクロウの鳴き声がしっとりと静寂を満たしている。
(……たまたま見つからなかったから良いものの、もし今日、あそこで捕らえられていたらどうなっていただろう)
夕暮れ時の小さくも確かな冒険、あるいは危険の記憶が、まるで遠い昔のことに思えた。もしも見咎められていたら、自分はエウラリカだけでも逃がせただろうか。それともエウラリカを身代わりに逃げ出しただろうか? どんな想像をしても、現実味がない。……否、夢見心地のように足下が覚束ないのはずっとのことである。
(エウラリカさえいなければ)
手の中で枝が音を立てて折れる。
(エウラリカさえいなければ、俺はこんなところにいるはずではなかった)
それは紛れもない事実だった。しかし、そうして我が身を哀れんで陶酔するには、カナンはあまりにも、――知りすぎている。折れた枝を重ねて指先に力を込めれば、それは手の中で簡単に砕けた。
(何も知らなければ、何も思わなければ、こんな葛藤だってする必要はなかったのに)
カナンは胸元に手をやり、外套の合わせを手繰り寄せるように強く握り締めた。揺れる炎の向こうに、声もなく微笑むエウラリカの幻影が浮かび上がった気がした。
『私はお前のことを信頼している。それだけで十分でしょう』
違う。そんなことを求めているんじゃない。
『間違っても勘違いしないことね――お前が、私にとって特別な価値のある人間などとは』
知っている。そんなことは知っている。あなたが他人に格別な寵愛を注ぐことなどないことなんて、嫌と言うほど知っている。だってあなたは誰のこともすぐに切り捨てるし、必要とあらば殺害だって厭わない。知っている。知っているのだ。エウラリカがどんなときにどんな判断をするのか、知っている。
手の中で小枝が何度も折られて小さくなってゆく。幾度か破片が指の腹を刺したが、そんな些細な痛みなど気にならなかった。
『親しい人が、慣れた相手が牙を剥いてくれる方が、どんなに易しいか分からない』
数え切れない悪意の糸を背負っておきながら、あの生き物はそう言ったのである。
『その方が簡単に切ることができるでしょう』
その言葉の通り、事実、エウラリカは『そう』してきたのだ。目的の為なら近しい人間を容赦なく切り捨ててきたはずだ。肉親さえも、最も近い手駒でさえも。
そして、その剣は等しく冷酷に、彼女自身にも向けられている。カナンは思わず片手で目元を覆って顔を歪めた。
かつて、あれほどまでに殺せないと思っていたエウラリカが、今は、明日にでも消えてしまいそうな気がしてならないのだ。ただでさえエウラリカがどれだけ危険な立場に立たされているのか、それをカナンは承知している。そのうえ当人は我が身さえも尊ばないときた。
どうせ馬車の中で健やかな寝息を立てているであろう主人の姿を思い浮かべて、カナンは項垂れた。
エウラリカの特別になりたかった。自分の存在を認めさせてやりたかったし、簡単に切り捨てられることのないほどの深くまで食い込んでやりたかった。
目の前の炎にも似た、そうした衝動が、ゆっくりと鎮まってゆくのを感じていた。カナンはほのかな寂しさと共に息をつき、握り締めていた小枝の破片をぽんと火にくべる。
仕方ない。エウラリカはそういう女なのだ。……どれだけ深くに食い込んだって、そのときが来れば、一瞬の躊躇いもなく捨てるのだろう。それが自身の肉までもを削ぎ、切り落とすような判断だとしても。
(……どうすれば、エウラリカを守ることができるのだろう)
眉根を寄せて唇を噛んだところで、背後から乾いた足音がした。軍靴の響きである。カナンは素早く振り返り、「どうしましたか」と声をかける。そこにウォルテールがいるのを認めて、思わず肩の力が抜けた。ウォルテールは眠っている周囲の兵を憚るような仕草で気配を忍ばせつつも、親しげな調子で片手を挙げてみせる。
ウォルテールが十分に近づいてから、カナンは肩越しに振り返ったままウォルテールに問うた。
「お休みになった方が良いのでは? 明日も移動ですよね」
「あいつらはいびきがうるさくて適わない。一度目が覚めてしまったら寝付ける気がしないな」
ウォルテールはわざとらしい仕草で肩を竦め、やれやれと嘆息する。ウォルテールにそんな繊細な一面があるとは思わなかった。カナンは思わず「あはは」と声を上げて笑ってしまったが、予想外に響いてしまった声に慌てて口を塞ぐ。
ウォルテールは苦笑しながらカナンの隣に腰を下ろした。「お前は寝なくて良いのか」と怪訝そうなウォルテールに、彼は適当な答えを返す。……何だか眠れないのだ、などという些事を語る必要はない。ウォルテールもさして追究することはなく、その視線は気遣わしげにカナンの背に向けられた。
「怪我はどうだ。痛むか」
「ぼちぼちです」
あまり気にしないようにしていたことに触れられ、カナンは手の中で落ち葉を弄ぶ。背中を斜めに横切る怪我はまだ治りきっていないし、激しい運動をすればまた傷口が開くだろう。だからカナンは帯剣さえしているが、実際に戦う選択をすることは難しかった。
……だから、こんな、敵の手中に自ら飛び込むような作戦を採っておきながら、カナンはエウラリカを守ることができない。それがどうしようもなく不甲斐なかった。我が身の安全さえも顧みることのないエウラリカを守るのは、自分しかいないというのに。
「――狙われているのは、エウラリカ様か?」
そうした懊悩を見透かしたかのような言葉に、カナンは思わずびくりと肩を強ばらせた。驚愕に目を見開いてウォルテールを振り返れば、常の温和な面立ちとは一変して、厳しい眼差しが据えられている。
「帝都は、エウラリカ様にとって安全な場所ではないのか」
それまで胸の底で押し殺してきた不安が、はっきりと言葉にして突きつけられたことで、途端に形を持って膨れ上がった。カナンは詰めた息を吐くこともできずに唇を引き結んだ。ウォルテールの言葉はどこまでも真剣だった。
「しかし、ハルジェルで怪しい動きがあるとすれば、そちらに近づくのだって決して安全とは……」
難しい表情で腕を組み、ぶつぶつと思案を巡らせている。その横顔を視界の隅で捉えたまま、カナンは沈黙したまま腹の前で十指を組み合わせた。
(どの口が言ってるんだよ)
カナンは奥歯を強く噛みしめる。全部お前の兄のせいじゃないか。オルディウスやイリージオが死んだのだって、エウラリカが何度も殺されかけていることだって、こうして自分たちがハルジェルに向かわされていることだって。
何も知らないみたいな顔をして、与えられた綺麗な真実ばかり飲み込んで、薄っぺらい表層の薄氷の上で素知らぬふりをして……!
ふつふつとこみ上げた怒りの原因は自分でも分からなかった。まるで八つ当たりだ。それでも、カナンは腹の底にゆっくりと煮えるものが溜まってゆくのを感じていた。
(何も知らずに自分だけ平和なところに立っていろよ。俺はあんたを利用できるだけ利用し尽くしてやる)
纏まらない恨み節を抱えてカナンが顔を上げるのと、ウォルテールが「カナン」と声を発するのは、ほとんど同時だった。
視線が重なった瞬間、喉元までせり上がってきていた強い言葉が不意に氷解する。気づけば、カナンは小さな声で呟いていた。
「帝都よりも、ハルジェル領よりも、……ウォルテール将軍の側にいるのが一番安全です」
それが、自分でも驚くほどに弱々しく、まるで哀れみを誘おうとしているみたいな声音だったので、カナンはつと続く言葉を見失って動きを止めた。不意を突かれたのはウォルテールも同じらしく、呆気に取られた表情で目を丸くしている。
「よせよ、照れるじゃないか」と茶化すみたいな言葉が少しして返ってきたが、それからすぐに彼が俯いたことからして、この将軍が深く思い悩んでいることが伝わってきた。
カナンはつられて目を伏せ、片膝を立てると脛の辺りを両手で抱えた。
(俺では、エウラリカを守れない)
薄々分かっていたことだった。自分たちの関係はあまりに曖昧で脆く、そして歪みきっている。そこには簡単に引き裂ける程度の紐帯しか存在せず、それを失ってしまえば自分に為す術はない。
それでも自分は、このハルジェル外遊にてルージェンらの尻尾を掴まねばならないのだ。しかしエウラリカを危険に晒さないようにするのは簡単なこととは言えなかった。ただでさえ自分は自らの迂闊で背中に傷を負っている。
ならばどうするか。刃傷沙汰に持ち込むことなく話を進めねばならない。けれど、この先何が待つかも分からないのに……
「……なあ、カナン」
不意にウォルテールが呻くように呟いたので、カナンは「何でしょうか」と顔を向けた。ウォルテールは相変わらず項垂れたまま、たっぷり呼吸五回分ほど黙り込み、それから掠れ声で告げる。
「――危ないことを、するなよ」
……あまりにもカナンの生活からかけ離れた言葉だったので、カナンは思わず呆然とした。ぽかんと口を開いたまま、返す言葉もなくウォルテールを見つめる。
(どうすれば、俺なんかに、そんなことが言えるんだろう)
自然と指先が強ばり、丸まってゆくのを自覚していた。カナンはやっとのことで一言相槌を返したが、自分が何を言ったかも定かではなかった。訳が分からないまま、血の気が引いてゆく気がした。
「分かったよ、……ハルジェル中央へ向かう」
ウォルテールはゆっくりと呟く。オリルの報告を受けて、この男が酷く思い悩んだことが窺われる声音であった。その証拠に、今でもウォルテールは苦しげに顔を歪めている。エウラリカの身の安全や国内情勢、潜伏する賊の影といった諸々が、何の準備もなくウォルテールの肩に乗っているのが目に見えるようだった。
カナンは息を詰めてウォルテールの言葉を待っていた。それは何か恐ろしいものを待ち受けるような、薄ら寒い心地であった。ウォルテールがどんな言葉を口に乗せるのか、カナンには想像ができなかった。将軍は顔を伏せ、穏やかに暖色の光を投げかける炎を眺めている。
「でも、……向こうの都に着いても、何かを探ろうとか、危ないことをしようだとか、そんなことは考えないでくれないか」
「…………。」
それはできない相談だった。カナンは無言で目を逸らし、目の前の明かりとは対照的な夜の森に視線を滑らせた。森の中では、伸ばした手の先さえもが飲み込まれそうな深い闇が、林立する木々や樹冠の枝々の黒々とした影の隙間を満たしている。
「そういうのは俺たち大人の仕事なんだよ。お前がやることじゃない」と、不意にウォルテールの言葉尻が揺れた。絶やさず、しかし燃え上がらないように焚かれた炎が、夜の静寂にひびを入れるような音をさせて、一度だけ、強く爆ぜた。カナンはウォルテールの横顔越しに、深々と広がる茫洋とした幽暗を眺めていた。
「――だってお前、まだほんの子どもじゃないか」
カナンは静かに微笑んだ。今、隣に座って、肩も触れそうな距離にいるこの男が、自分のことを深く哀れんでいることを、カナンは痛烈に感じ取っていた。ウォルテールが自分に対して罪悪感を抱いていることは言われなくたって知っているし、カナンだって全てを水に流したわけではない。両者の間に厳然たる溝として横たわるこの禍根が、きっと一生消えることのない疵であることを、自分たちは互いに了解している。
他人に同情される筋合いなんてないし、とりわけウォルテールに哀れまれるなんて、憤懣やるかたなかった。どの面下げてと吠えかかりたいし、普段ならば嫌味の一つや二つをちくりと刺してやるくらいである。しかしどうやら、この湿った夏の夜が、似つかわしくない感傷をかき立てているらしかった。
目を伏せ、カナンはひとり沈思した。
(……この人なら、エウラリカさえも哀れむことができるんだろうか)
この期に及んでエウラリカのことを思い浮かべていることに気がついて、カナンは片手を持ち上げ、首筋に手のひらを押し当てた。参ったな、と唇が知らず知らずに動く。
ふと、かつてエウラリカがウォルテールと繋がっておけと言ったことを思い出して、カナンは思わず苦笑した。『手駒に入れておけば役に立つ』『便利』、ウォルテールを表すそうした言葉は一面で言えば確かに真実なのだろう。しかし、ウォルテールがそれだけの男ではないことも、カナンは既にある程度理解していた。
傍らのウォルテールは膝を立て、頭に腕を回すようにして目元に当たる光を遮った。呼吸からは彼が眠っているのかどうかは分からなかったが、ウォルテールはもう身じろぎ一つしないようだ。カナンはふと顎をもたげ、頭上に広がる夜空を振り仰いだ。星々の色濃い連なりが視界を横切っている。
「――やっぱり、あなたは致命的に優しい人ですね」
切なさとおかしさがない交ぜになったような苦笑で、カナンは小さく呟いた。夜が深まってゆく気配を、ひしひしとその背に感じながら。




