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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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外殻4




 足音を忍ばせて、カナンとエウラリカはそれぞれ別の木の陰に隠れた。前方から話し声が聞こえる。

「おい、これは今日のうちに帝都に運んでおく分じゃないのか」

「どうも帝都から来たっぽい連中がうろついていてな。例の官僚の女も最近嗅ぎ回っているようだし、迂闊に出せねぇ」

 人目を憚ることなく大声で言い交わす男たちの言葉に、カナンはゆっくりと頷いた。腕を組んでちらと目線を横に動かせば、幹に背を預けたエウラリカがこちらを見てしたり顔をしている。

『どうします』と手振りで問えば、『まだ待て』と言うようにエウラリカが掌を向けてきた。


 木立の向こうからの声は続く。

「帝都から?」

「何とかテール将軍とかいうのが随行している馬車だってよ。帝都のお偉いさんが乗ってるんじゃないかってフィマが言ってた」

「ふーん」

 念のためエウラリカを窺うと、『残念、乗っていない』と言うように肩を竦めて手をひらひらと振っている。この状況でよくもまあ余裕綽々でふざけられるものである。


「にしても、最近はめっきり輸送量が減ったな」

「帝都に入っていた売人どもが半分以上消えたんだってよ。詳しくは知らされていないが、焼死体を見たって言っている奴もいた」

「火事か?」

「さあな」

 そうした会話に、カナンは無言で唾を飲んだ。知らず、ごくりと喉が動く。……帝都、売人、焼死体。思い当たる節がないと言ったら嘘になる。エウラリカは腕を組んだまま目を伏せていた。

 地下で逃げ惑う人々、次々と倒されてゆく燭台と、端から舐めるように燃えてゆく敷物。まるで昼間のような明るさと狂乱に包まれた地下の光景が瞼の裏に蘇る。知らず、握りこぶしに力がこもっていた。


「主都の様子はどうだ」

「問題ない。ああ、強いて言えば……倉庫の位置が三番街から移転したらしい」

「じゃあ、『中』に?」

「ああ」

 誰かが聞き耳を立てていることなど想定していないのだろう。会話は気安く、人目を憚る様子もない。まさかずっとここで立ち話をしている気だろうか、とカナンは気が揉めて眉間に皺を寄せた。



 しかしその危惧は必要なかったように、しばらくして両者は簡素な挨拶と共に別れたらしかった。声が聞こえなくなって、数十秒を数える。エウラリカの合図を受けて、カナンは木の陰から滑り出た。気づかぬうちに日が傾いていたらしい、森の中は薄暗く、梢の隙間から橙色の光が光線のように斜めに降り注いでいる。気配を殺して、カナンは街の外周沿いに進んだ。


 本来なら獣が入らないように立てられているはずの柵が、今は開け放たれたままになっていた。家と家の間に広い空間が設けられており、そこに停められている馬車の荷台は空である。カナンは素早く視線を巡らせ、近くの民家の玄関が半開きになっていることを確認する。ほぼ同時にエウラリカも気づいたらしい、ほんの一瞬視線を交わすだけで了解し、二人はその家に近づいた。


 玄関を避け、外壁沿いに進むと、エウラリカがひょいと首を伸ばして窓を覗き込む。

「あら、家じゃないわね」

「そうみたいですね」

 カーテンの細い隙間から中を窺えば、室内にはおよそ人が住んでいる生活感といったものがなく、木箱がいくつか置かれているだけで他に物のない、がらんと開けた空間が広がっている。部屋の広さと家の大きさを考えると、どうやら間取りというものも一切なく、外見だけを民家らしく整えた倉庫と言えそうだ。

「ふーん」と言いながら、エウラリカが更に中を窺おうとするように背伸びをする。外に向かって張り出した窓枠に手をかけ、首を傾げた。


 カナンもその背後から顎をもたげて窓に顔を寄せ――ようとした瞬間、半開きになった扉の向こうに人影が見えて、カナンはエウラリカの肩を上から押して勢いよくしゃがみ込んだ。

 ごん、と鈍い音がして、エウラリカが「痛っ」と小さく漏らす。慌てて引き下ろした拍子に額をぶつけたらしい。しかしエウラリカも当然、人の気配には気づいていたようだ。額をさすって恨みがましくカナンを睨みつつ、しゃがみ込んで壁際に身を寄せる。幸いにも張り出した窓枠のおかげで部屋の中から真下は見えづらくなっているだろうが、それでも絶対に見つからないとは言えない。


 息を殺して気配を窺う。ぶつぶつと怪訝そうな独り言とともに、足音が近づくのが分かった。エウラリカが両手で口を押さえたまま息を飲んだ。――窓の上から覗き込まれてしまえば、見つかるのは必然である。カナンはエウラリカを壁際に庇うようにして覆い被さった。最悪見つかるのは自分だけで良い。一人だけだと思わせてしまえば囮になって逃げ出すこともできるだろう。


「何かいたか……?」

 重いものが床に下ろされる音がして、足音は更に近づいた。少し足を引きずるような癖のある歩き方であった。明らかにこの窓辺を確認しようとしている。警戒に体を強ばらせれば、ふ、と浅い息が漏れた。エウラリカは壁に背を付けたまま足を揃えて膝を抱え、胸の前で両腕を畳んで頭上を窺っている。その耳の脇に片手をついたまま、カナンはできるだけ体を小さくしようと背を丸めた。頭を垂れ、エウラリカの肩口に額を寄せる。全身に緊張が走っていた。

「猫ではなさそうだったが……」

 不意に、声が驚くほどに近い真上から聞こえて、カナンは無言で目を見開く。唇を引き結んだまま、そろそろと剣に手を這わせる動きを、エウラリカが黙って眺めていた。


 それはほんの一瞬のことだったのか、それともずっと長い時間のことなのか、カナンには判然としなかった。相手は明らかに堅気の人間ではなく、近くにいる人数も知れないこの状態で、剣を交えるのは避けたいところである。

「……気のせいか」

 そんな一言とともに足音が遠ざかるのが聞こえて、カナンとエウラリカは同時にほっと息を吐いた。一瞬気が緩んで視線を合わせたところで、直後、壁が強く蹴りつけられたように強い音を立てて揺れた。エウラリカが声を殺したように小さく呻く。

 近くの柵の上に止まっていた小鳥が、驚いてぱっと素早く飛び去った。「鳥か」と声が呟く。鳥の影が森の上に消えたところで、今度こそ足音は立ち去ったように聞こえた。



 カナンは壁に手をついたまま、慎重に身を起こす。剣をいつでも抜けるように構えたまま、そっと窓枠から顔を覗かせ、室内を窺う。

「…………。」

 左右をゆっくり窺ってから、カナンは室内に人がいないことを確かめた。顔を下に向け、地面に片手と片膝をついて身構えているエウラリカに頷く。エウラリカはすぐに立ち上がった。その唇の前に人差し指が立てられる。カナンは声を出さずに頷いた。

 エウラリカが背伸びをして窓枠に手をつく。とんと地面を蹴って体を浮かせようとするが、上がらない。数度もがいている様子をカナンは腕を組んで眺めた。少しするとエウラリカは振り返り、開き直った態度で顎をしゃくる。カナンはこれ見よがしに肩を竦めてみせて、エウラリカの足下に屈んだ。


 カナンの肩を踏み台に窓を乗り越えたエウラリカが、軽やかな仕草で室内に降り立つ。カナンもすぐに窓から中に入り、木箱を開けようとしているエウラリカに歩み寄った。

 一抱えほどの大きさをした木箱は蓋が釘で打たれており、それを確認したエウラリカは苦々しい表情で舌打ちをした。カナンは片手で合図をしてエウラリカを下がらせると、剣を鞘から抜いて蓋の隙間に差し込む。何度か横に滑らせたところで隙間ができたので、剣を戻して隙間に指をかけた。我が意を得たりとエウラリカが寄ってきて、その隙間に柄のついた針を差し入れる。エウラリカ御用達の物品である。カナンは思わず頬を引きつらせた。


 柄を手のひらで下に押し込めば、木箱の蓋は中が覗ける程度に持ち上がった。カナンは蓋の一辺を持ち上げ、エウラリカは床に膝をついて中を窺い、中に手を突っ込む。その目が見開かれ、表情に光が射した。

「見てみなさい」とエウラリカが低く囁くので、カナンも膝を折って木箱を覗き込んだ。


 何か小さなものがぎっしりと中に詰められているように見えた。目を凝らせば、それがどうやら刻まれた葉であることが分かる。というよりは、葉であると断定した理由は、視覚によるものではない。

(この匂いは、トルトセアの……)

 鼻腔に入り込む独特な匂いに、カナンははっと目を見張る。数秒おいて、カナンは弾かれたようにエウラリカを見上げていた。エウラリカは小さく頷き、木箱の蓋を下ろす。カナンは立ち上がり、エウラリカと顔を見合わせた。


「やはり、これは……」

「――傾国の乙女」

 エウラリカは短く呟き、満足げに頬を吊り上げた。


「先だっての婚約騒動は、ハルジェル領の策略とみて良さそうね」

 腰に手を当てて、エウラリカは常のように高慢な口調で結論を出した。



 ***


 木箱の釘を雑に戻し、カナンとエウラリカは再び窓から外に出た。既に随分と暗くなっている森を戻り、馬を回収すると街道をゆく。ウォルテールとの取り決め通りに休憩所で馬をとめる。

「……何だか疲れたわ」

 のろのろと馬を下りるエウラリカを支えながら、カナンも同感のため息を漏らした。

「次からはこんな同行は認めませんからね。危険すぎます」

 わざとらしく苛立った口調で言えば、ふと、エウラリカは驚くほど静かな眼差しでカナンを見据えた。形容しがたい逡巡の色が、一瞬、目の奥に浮かぶ。カナンは思わず息を飲み、唇を半開きにしたまま立ち尽くすエウラリカを見つめ返した。


「――お前は、」

「どうしましたか、体調でも……おっと、」

 軽く膝を曲げてエウラリカの顔を覗き込んでから、カナンは自分がその言葉を遮ってしまったことに気づく。慌てて「はい」と応じるも、エウラリカはもう喋る気分ではなくなったらしい。不服げな表情でひょいと両手を挙げ、さっさと奥のベンチに向かってしまう。

 カナンは馬の手綱を持ったまま、エウラリカの真似をして肩を竦めてみせた。



 エウラリカはベンチにどかりと腰掛け、足を投げ出して顔を伏せる。カナンはおずおずとその様子を窺い、わざと足音を立てて歩み寄った。ある距離まで近づいたところで、エウラリカは鋭く咳払いをする。そこでぴたりと足を止め、ふとカナンはくすりと笑った。

 エウラリカが顔をもたげ、問うようにカナンを見上げる。「いえ」とカナンは後頭を掻いた。

「……縄張りを探る獣みたいだと思って」

「主人を獣呼ばわりとは、お前、良い度胸ね」

「悪い意味じゃないですってば」

「へえ、じゃあどういう賛美であらせられたの?」

「別に褒めてる訳でもありませんけど」

「上手にお喋りできないなら、また帝国語を教えて差し上げましょうか」

「鎖で繋いで?」

 カナンが白々しく首を傾げると、エウラリカは少し黙り、足を組みながら大きなため息をついた。くい、と指先で指図され、カナンは大人しくエウラリカの横に立った。数秒顔を見合わせると、エウラリカは目を逸らす。


「……座れば?」とぎこちなくかけられた言葉に、カナンは大げさに驚いてみせた。もちろん本心からの驚きも含まれていたが、エウラリカはぴくりと目元を引きつらせる。

「私だって怪我人をずっと立たせておくほど非道じゃないわよ」

「怪我人を踏み台にして窓によじ登った方のお言葉とは思えませんね」

 カナンが頬を吊り上げると、エウラリカは聞こえよがしに舌打ちをした。



「鎖を持ってくれば良かった」とエウラリカは毒づいて、傍らに腰掛けたカナンを振り返る。カナンは膝の上で指を組み、しれっとした顔を貫いた。

 遠くの空が見る間に暗くなってゆくのを、カナンは僅かに顎を持ち上げて眺めていた。何の気なしに呟く。

「別に、鎖なんてなくても逃げませんよ」

「――どうして?」

 カナンの横顔を見据えたまま、エウラリカは掠れた声で聞いた。この高慢な少女には似つかわしくない声音であった。最近になってよく聞くようになった声でもある。これは先程の会話の続きだ。直感して、カナンはエウラリカに体ごと向き直った。一瞬だけ膝と膝が触れたが、咄嗟に身を退いたのは互いにほとんど同時だった。


 カナンは知らず知らずのうちに首輪を握り締めていた。鈴が鳴る。

「どうしてって、だって……」

 エウラリカの顔には斜めに影が落ち、その表情は妖しく浮かび上がって見えた。

「……放っておいたら、あなたは何をするか分からないでしょうが」

 呟くと、エウラリカは本当に失望したような顔をした。これもまた、エウラリカには珍しい顔であった。眦を下げ、彼女は静かに微笑んでいた。


「違うでしょう」

 それはまるで幼子を教え諭すような口調だった。エウラリカはふいと顔を背けた。傾いた夕陽が投げかける赤い光に、その横顔が輪郭線となって鮮明に描き出される。彼女は低く吐き捨てた。

「お前がここにいるのは、私に、祖国を人質にされているからでしょう」

 カナンは咄嗟に息を飲み、目を見張った。全身に緊張が走る。……エウラリカの言うとおりである。自分はエウラリカに屈服させられ、祖国の安全と自身の将来的な自由のために、この女に仕えているのだ。そのことがいつしか意識の外になっていた事実に、カナンは戦慄していた。

(はじめの目的は、はじめの理由は、)

 いつしか鼓動が早鐘を打っていた。森の中でエウラリカと交わした言葉の数々が脳裏をよぎる。



「……俺は、」と咄嗟に絞り出した声はしわがれていた。伸ばしかけた手を避けるようにエウラリカが肩を引く。それを更に追って、カナンは少女の肩に触れた。息を飲むほどに薄く、心許ない肩をしていた。

「俺には……」

 肩に這わせた指をエウラリカは振り払わなかった。触れた五指に力がこもる。片腕で抱き寄せても、彼女はそれを拒まなかった。


『お前、――私を殺しなさい』

『お前だって、私がここで死んでくれた方が有り難いんじゃないの?』

『お前、私を殺してくれる?』


 エウラリカの言葉を思い出すにつけ、カナンの胸の内にじわりと滲むような哀しみと、明確な確信が広がっていた。瞬きの刹那に、明るい真昼の草原の光景が蘇る。全身に陽射しと風を受け、溢れんばかりの笑顔を浮かべていた姿が目の前に立ち現れる。

 カナンは顔を歪めた。


(――俺は、この人に、死んで欲しくない)



 両腕の中に収まった体が、恐ろしいほどに小さい。抱き締めてしまえば今にも崩れ落ちてしまいそうな気がして、カナンは恐怖に肩を強ばらせたまま、ただ触れるだけのように腕を回していた。少しして、単に息苦しくなっただけのように、エウラリカが少し喉を鳴らして首を伸ばし、肩に顎を置く。距離が縮まる。触れ合った胸元が熱かった。両手を体の脇に垂らしたまま、エウラリカは何も言わない。


 おずおずと両腕に力を込めた。エウラリカは抗わない。決して応じることもない。それがどうしようもなく隔てられた溝か壁のように思えた。どんなに言葉を尽くしても、どれほど身を寄せ合っても、エウラリカの姿も素顔も見えてこない。どんなにきつく抱き締めたってきっとこの腕からするりと抜けて行ってしまう。必死に手を伸ばしたって彼女がその手を取ることは絶対にない。


 触れられない。触れられないのだ。

「エウラリカ様、」

「何よ」

「僕は……、」

 結論を声に出してしまえば、何かが決定的に変わってしまうような気がしていた。カナンは深く項垂れた。奥歯を噛みしめて声を押し殺す。エウラリカはどこか遠くを眺めて、物思いに耽るように目を細めていた。




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― 新着の感想 ―
[一言] 読んでいてカナンとエウラリカの葛藤が伝わってきます。 変化しつつある関係に戸惑い、拒絶しつつも受け容れていく描写が最高です。 本当に続きが楽しみです!
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