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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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外殻2



 エウラリカに呼ばれて、カナンは彼女の部屋の寝台に腰掛けていた。

「さっき『思い当たる節がある』と言っていたのは何の話ですか」

「多分そのうち来るんじゃないかしら。こういう小さな街は情報が回りやすいものだし、ウォルテールの名前を聞いてあの女が反応しないはずがないわ」

「『あの女』?」

 カナンが聞き返すと、エウラリカはにんまりと笑顔を浮かべた。その笑みに何やら含みを感じて、思わず腰が引ける。


 エウラリカは窓際に歩み寄り、カーテンに手をかけた。楽しげに頬を緩めてエウラリカが目線を向けてくる。紛れもない、厄介ごとの予感である。カナンは頬を引きつらせた。慌てて腰を浮かせ、「何するんですか」と制止するように声をかける。


 し、と彼女が唇の前に指を立てた。カナンは渋々口をつぐんで息を殺す。エウラリカの手がそっとカーテンを持ち上げ、薄暗い部屋に一筋の光が射し込んだ。エウラリカは細い光を覗き込むようにして外を窺っている。手招きされ、カナンはカーテンの隙間に顔を寄せた。

「ああ、来たわね」

 そう呟いたエウラリカの見ているものを知りたくて、カナンは更に身を屈めた。



 女が一人、周囲や背後を確認するように何度も振り返りながら、往来を横断している。知らない女だ。人目を忍んで宿屋の入り口へと近づいてくる女の姿を認めて、カナンは目を瞬いた。エウラリカは訳知り顔で「来ると思ったわ」とご満悦、しかしカナンは女の正体が分からずに首を傾げた。何となくどこかで見覚えがあるような気もするのだが……。

 分からないものは仕方ない。カナンはエウラリカを振り返って、女の素性を訊こうと口を開きかける。



 ――と、そのとき前触れもなく、背後で扉が開け放たれた。「なっ……」と驚愕したような声が漏れるのを耳にして、カナンは目を瞬く。振り返って見れば、ウォルテールが棒立ちになっていた。


「な、にを、なさっておられるのですか!」

 扉のところに立ち尽くしたまま、ウォルテールは真っ赤な顔をしてわなわなと震えている。いきなり怒鳴られたカナンは、驚いてエウラリカと顔を見合わせた。エウラリカも目を丸くして、「いきなり大きな声を出してどうしたの?」と怪訝そうに応じる。カナンはウォルテールを落ち着かせようと、「どうかされましたか」と穏やかな声で聞き返した。

 すると今度はウォルテールの方が困惑したような顔をする。しばらく呆然としたように絶句し、それから渋面で眉間を揉み始める。苦渋に満ちた顔に哀れみは覚えるが、何が何なのかはよく分からない。


「その、……みだりに近づくのはいかがなものかと。勘違いする者もいますから」

 ウォルテールがおずおずと告げると、エウラリカが「あら、勘違いって何のこと?」と素早く応じる。その視線がカナンに向けられた拍子に、毛先が鼻先を掠めた。微かな感触にどきりとする。

 改めて振り返ってみれば、細く開けたカーテンの隙間から外を見ようと、触れ合いそうなほどに顔を近づけていた。見開かれたエウラリカの双眸の奥までがはっきりと見える。注視すれば、両目を縁取る睫毛の先までもが鮮明だった。はっと息を飲んだ瞬間、エウラリカが艶然と微笑む。いや違う、これは馬鹿にした笑みである。碧色が光る。

「……っ!?」


 もう慣れた距離感だったが、傍目にどう見えているかに気づいてしまうと、もうそのままの体勢ではいられない。カナンは慌てて姿勢を戻し、転げるようにして背後へ下がった。

「も……申し訳ありません」

 冷や汗をかきながら、誰に向けてのものだか判然としない弁明を口に乗せる。エウラリカが一瞬だけ、面白がるような色を浮かべて目を細めた。

「頼むぞ、カナン」とウォルテールに釘を刺され、カナンは真剣な面持ちで数度頷いた。


 心臓がいやに高鳴っていた。どれもこれもエウラリカのせいである。恨みがましく横目を向けると、彼女は鼻先をつんともたげて小馬鹿にするような笑みを浮かべていた。

(……くそ、)

 それにしても、とカナンは思わず視線を部屋の隅に投げかけた。……ここ最近、こうした釘を刺されることが相次いでいる。そんなのは馬鹿な戯れ言、無用の心配である。そう言って一笑に付すべき話題だった。それなのにどういう訳か、不必要なほどの居心地の悪さを覚えている自分がいた。カナンは狼狽えて唾を飲む。

 様子を窺うようにちらと一瞥した先のエウラリカは、それを待ち受けていたかのように視線を受け止め、笑みを深めた。カナンが苛立ったのを確認して、彼女は満足げに廊下の方へと目を向ける。促すような仕草に、カナンも釣られてそちらを窺った。



「――ウォルテール将軍であらせられますか」


 不意に、抑えた声がウォルテールを呼んだ。半開きの扉のところで、一人の女が緊張した面持ちで立っている。それは先程、窓から見下ろした女の姿に他ならない。顔色の悪い女で、ひっつめた髪に頑なさが透けて見えた。カナンはその顔をじっと見つめた。どこで会っただろうか?

 ウォルテールは廊下の方を振り返り、女といくつかやり取りを交わすと、一歩退いて女を部屋に招いた。と、そこで女がカナンとエウラリカに目を留めて立ち竦む。

「あっ」

(えっ?)

 まるで心当たりがあるような反応を示した女に、カナンは焦りを覚えた。もしや面識のある人間だっただろうか? しかしエウラリカに耳打ちをして訊くわけにもいかない。


 と、そこでウォルテールまでもが息を飲んだ。動揺を滲ませながら、おずおずと女に声をかける。

「貴女は、エウラリカ様の……」

「……ご明察の通りです」

(誰だ!?)

 どうやら訳が分かっていないのはカナンだけらしい。エウラリカは素知らぬ顔だが、この女の素性を把握しているのは既に承知の通り。


(……あとでエウラリカに聞いておこう)

 この件は一旦脇に置いておくことに決めて、カナンは状況を見直した。ウォルテールは見るからに狼狽しており、エウラリカも話の主導権を取ることはできない。カナンは努めて平然とした表情を取り繕った。……まさか自分だけがよく分かっていないと表明するわけにもいかない。


「それで、どのようなご用件なのですか。ご様子から察するに、ただ事ではないと見えます」

 口火を切って女を促せば、彼女は小さく頷いた。

「この街で役人をしている、オリルと申します」

(名前にも聞き覚えはない……)

 カナンは眉をひそめた。一体どこでこの顔を見たのだろう。エウラリカはどこでこの女を知った?

 オリルを見れば、彼女は張り詰めた表情でウォルテールを見据えている。

「単刀直入に申し上げます。……即刻、この街を立ち去ってください」

「それは一体どうして」

 果たしてこの女を信頼して良いものか分からなかった。素早く問い返すと、オリルは「それは……」と目を伏せる。

「話してくれ」

 ウォルテールが穏やかに声をかけると、オリルは一度唇を引き結んでから、ゆっくりと口を開いた。



「……ハルジェール領の中に、怪しい動きがございます。こちらに左遷されてから分かったことですが」

(左遷?)

 ちくりと、記憶の隅を何かがつついた。カナンは再びオリルをまじまじと観察し、左遷という言葉を思い浮かべる。ろくな職に就いていないカナンには縁のない言葉だが、確かにその単語を耳にした記憶がある。どこで聞いたのだったか……。


(第二王子入城に関して、エウラリカに異を唱えた官僚が、各地に左遷されたことがあった。あれは……二年前?)

 カナンは鋭く息を飲んでエウラリカを振り返った。

(……まさか、あのときから?)

 どうやらその『まさか』らしい。ちらと見やったエウラリカの横顔には冷然とした眼差しが宿っており、何かを組み立てようと深い黙考に耽っているような色がある。肘をついて顎を支え、口元に寄せられた指先は下唇に触れたままぴくりともしない。


 ――間違いない、あの左遷騒ぎのときから、エウラリカはこの事態を見越していたのだ。



 ウォルテールは腕を組み、唸るように問うた。

「……怪しい動きとは何だ」

「まだ決定的に何かがあるという訳ではありません。しかし、この街を通る流通の中に正体不明の荷物が紛れ込んでいるのも、一度や二度ではなかった」

 対するオリウの声も低く潜められ、彼女の警戒をありありと表している。自然とカナンの表情も引き締まった。


「帝都側からハルジェル領に、何かが持ち出されている、と?」

「逆です。――何かが帝都に持ち込まれている。それが何なのかは分かりませんが……」

 オリルの言葉を聞きながら、カナンは緩く組んでいた腕を解き、背後の窓枠に指を置く。人差し指がとんとんと窓の桟を叩いた。

(ハルジェル領から、帝都に持ち込まれる、荷物……)

 それは十中八九、さきほどカナンが目撃した馬車の貨物のことであろう。ハルジェル領の方向から街の裏につけていた馬車。人目を忍ぶようにしていたことからしても、あれが堅気の物品でないことは分かるというものである。オリルの言うことを信じるのなら、あれはどうやら帝都へ運び込まれているらしい。


 それに、草原でエウラリカが意味深に語っていた言葉も気になっていた。婚約騒動に紛れて裏で起こっていた、あれらの事件は、まだ続いている。その口ぶりには確信めいたものがあった。そして、それは恐らくハルジェル領に関係しているとも。

 エウラリカがオリルをハルジェルへ左遷と称して使わしたのは、二年前のことである。それではエウラリカは当時からそれを見越していたのか。二年前など、まだネティヤが接触してくるより前のことである。婚約に関わる騒動よりも前のこと。しかし、『あれ』は既に帝都に出回っていた。


(――その頃から、『傾国の乙女』の出所としてハルジェル領を睨んでいたという訳か)

 カナンはようやく確信して、無言のうちに目を細めた。皮肉を込めて横目で目配せをする。エウラリカは視線に気づいたのか、目だけを動かしてカナンを見上げた。それが答えだった。

『あとで詳しく聞かせてもらいますからね』

 唇だけで告げれば、エウラリカは小さく鼻で笑ったようだった。



「……それに、この街は異常なほどに急激な拡大をしています。私がここに来る数年前までは、この街はそれほど大きな街ではありませんでした。しかし今は……」

「家がいくつも乱立し、見通しも悪く、治安もあまりよろしくない」

 言い淀んだオリルの言葉を引き継げば、彼女は我が意を得たりとばかりに首肯する。カナンは表情を変えないまま付言した。

「街道沿いから離れれば、どれも真新しい家ばかりです」

 そして、そのどれもが人の住んでいる気配がない。それは一度気づいてしまえばあからさまなほどに異常な光景であった。この街に住んでいるオリルなら感づかない訳もない。オリルは息を飲んだが、間を置かずに肯定した。


「帝都圏との境界に位置するこの街が、明らかに異常な動きを見せている。私はそのことに気づいてすぐ書簡を出しましたが、……どういう訳か、何度連絡を上げても、なしのつぶてです」

「……俺は、そんな報告を受けていない」

「やはり……」

 エウラリカの唇に添えられた指先がぴくりと動く。不快を示して眉根が寄せられた。


「返事が来ないばかりか、それ以来私には監視がつくようになりました。住人はいつも私の家を見張っていますし、部屋の中に誰かが入った形跡があったのも気のせいではありません。……監視は撒いて来ましたが、私がここで閣下にお会いし、ご報告申し上げたこともすぐに知られることとなるでしょう」

 オリルは差し迫った声音で早口に語る。それは一見すれば荒唐無稽な思い込みにも思えたが、その表情や、繋がりかけた点と点が、これはただ事ではないと告げていた。エウラリカの表情は明るくない。



 オリルは真剣な表情で告げる。

「一刻も早く、この街からお逃げ下さい」

「どう……どうする。今からでも帝都に引き返した方が」

「その方がよろしいかと」

 ウォルテールとオリルがそう頷き合っているのを見て、カナンは目を剥いた。これはどうしたものか。……ここまで来て、このまま引き返すのか? そう思案した一瞬、エウラリカが音もなく立ち上がる。


「――わたし、ハルジェル領に行きたいわ」

(なるほど、後退はお望みでないらしい)

 はっきりとした声でエウラリカが宣言した。それでカナンはすっかり了承する。ウォルテールに窘められ、我が儘に反論しているエウラリカを眺めながら、カナンは腕を組んだ。


(エウラリカは婚約騒動より前からハルジェルを睨んでいた。つまりハルジェルを警戒する理由があったはずだ。当て推量で判断をするような人じゃない。……ハルジェル領から帝都に持ち込まれる『謎の荷物』の中身だって、まだ断言はできない。……運び込まれていたあの貨物を調べれば、全てが分かるか)

 カナンはゆっくりと瞬きをした。顔を上げると、困り果てたような表情のウォルテールと目が合う。縋るような目に頷いて、カナンは小さく微笑んだ。



「そうですね。急いでハルジェル中央へ向かいましょう」

「は?」

 小気味良いほど予想通りの反応で、ウォルテールが絶句する。


「……話を聞いていたか?」

 耳を疑うようにウォルテールがおずおずと問い返すので、カナンは慇懃な態度を崩すことなく言葉を続ける。

「聞いていました。ここで引き返せば、企てをしている輩はこちらが何らかの情報を掴んだと判断し、帝都に着く前に何としてでも口封じをしようとするでしょう。この隊がどなたを擁するものであるか覚えていますか」

 朗々と語る。エウラリカは黙ったまま、しかし真っ直ぐな目でカナンを眺めているらしい。カナンは今、自分がエウラリカの口となっていることを自覚していた。……自由に口をきけぬ主人に代わって、カナンは流れるように言葉を並べる。


「企てがどのようなものなのか、誰の手によるものなのかは何も分かっていません。が、一つの街を膨れ上がらせるというのは、どこかの一私人に出来る芸当ではない――背後に『何か』が立っていると考えるのが妥当だし、恐らくそれは相当に大きい組織です。国の中枢まで食い込んでいる可能性だってある」

 口を開く前のただ一瞬の呼吸でさえ、まるでエウラリカのそれのようだった。彼女自身の口から何かを言われたわけではない。しかし、エウラリカがどのような方向に話を進めたいのかは分かる。カナンはいつになく雄弁に語っていた。


 ウォルテールは苛立たしげにカナンを軽く睨んだ。

「だからこそ、今すぐに引き返すべきだと言っているだろう」

「領内での動きを察した俺たちが中央に今訪れれば、向こうは慌てて馬脚を現すはずだと言っているんですよ。逆に言いましょうか。……この機を逃せば、敵は帝都に企てを看破されないように対策を行うはずです。事態は困難を極める」

 強い口調で反駁すれば、ウォルテールの表情には臆するような躊躇が浮かんだ。疑心がその目にちらつくのを見て取って、カナンは咄嗟に口を噤む。引き際を見誤ってはいけない。


 カナンは取り繕うように声音を柔らかくして、有無を言わせぬ口調で断言する。

「それに、ハルジェル領内でエウラリカ様に危害を加えようものなら、帝都からどんな報復があるか分かったものではないでしょう? そんなことくらい誰でも分かっていると思いますし、中央まで行ってしまえばハルジェル側が用意してくれた護衛も加わるはずです。少し怖いのは道中のことですが、それも心配はしていません」

 にこ、と口元を綻ばせ、目を和らげ、カナンはウォルテールに微笑みかけた。


「だって、ウォルテール将軍がいるんですから」

 ――エウラリカを付け狙うお前の兄も、弟がいれば容易く手出しはできまい。


 ウォルテールが、これ以上の反駁を諦めたように嘆息して口を閉じる。それを見て、カナンは小さく息を吐いて肩の力を抜いた。ちらりと視線を横に向ければ、エウラリカは足を組んで薄らと微笑んでいる。

 どうやら自分はエウラリカの期待を過不足なく満たしたらしい。満足そうな表情で、エウラリカは静かに嗤ったようだった。

 唇が囁く、――『良い子ね』。




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