外殻1
宿の部屋に入り、ウォルテールが背嚢を膝に置いて中身を検めているのを尻目に、カナンは旅装を解こうと襟元の金具を外した。そのときに首輪の鈴に指先が触れ、微かな音が響く。もう慣れた音だった。カナンの一挙手一投足、わずかな身じろぎさえ見逃さぬ鈴の音である。それを耳にする度、カナンはエウラリカの存在を思い知らされた。
上着を脱ぎ、初夏の気候のせいで薄ら汗をかき、蒸れる首元を緩める。その流れで腕をまくろうとして、カナンはふと動きを止めた。たくし上げた袖の下にちらと包帯が覗いたのである。背中の傷が大きいので気が取られがちだが、腕にもそれなりの傷が残っていた。こちらはおおよそ傷も塞がっていたが、念のため、未だに包帯は巻いたままだ。
(ウォルテールに包帯を見咎められたら面倒だよなぁ)
そそくさと袖を戻しかけた矢先に、「カナン、」とウォルテールの重い声がかかった。ぎくりと背を強ばらせながら、カナンはおずおずと振り返る。
「……何でしょう」
慎重に答えた。表情を取り繕うのはもう慣れたもので、飄々とした態度で微笑んでまでみせる。背中の傷がウォルテールに露呈するのは面倒だ。何せ、この傷を付けたのはルージェン――目の前にいる将軍の実兄である。ウォルテールにこのことを正直に語るつもりはなかったし、この男がそれを解せるとも思えなかった。
正面に回り込んできたウォルテールが、カナンと目を合わせて「脱げ」と指を指す。ぎくりと肩が強ばるのが分かった。
「いきなり何ですか? ごめんなさい、俺、露出趣味は」
「良いから脱げ。上だけで良い」
誤魔化すように曖昧な笑顔で濁すが、ウォルテールはにこりともしない。これはよくない。カナンは態度を反転させて視線を強めた。
「どうしてあなたにそんなことを指図されなければならないんですか」
ウォルテールは何も知らない。自らのことも、ただエウラリカのご趣味に巻き込まれていやいや外遊に巻き込まれただけだと思っているだろうし、周囲もそう考えているはずだ。それで良い。ウォルテールは自分も知らぬ間に、自分たちに操られているだけで十分だ。……それ以上は求めない。求めてはいけない。
カナンは唇を噛んでウォルテールを見据えた。分かるわけない。だってこれは馬鹿みたいに鈍い男だ。……実の兄が人殺しに加担していたって気づけない。
「じゃあ訊くが、――お前のその包帯は何だ?」
そう問われた瞬間、カナンは思わず瞠目した。あの一瞬のうちにウォルテールに包帯を見咎められていたのか。その目敏さに舌を巻く。カナンは表情を引き締めた。
「ウォルテール将軍には関係ありませんし、人に見せるようなものでもありません」
「良いから見せろ。誰にも言わないから」
それでも悪あがきのように反駁するが、ウォルテールはどっしりとその場に足をついたまま決して退こうとしない。これは駄目だと悟って、カナンはため息をつく。……ウォルテールはこんなに語気を強くするような男だっただろうか?
渋々服を脱いで寝台の上に落とすと、ウォルテールは面白いほどに動揺した。包帯に包まれたカナンの上体を、大きく目を見開いたままじっと見据えている。分かっていたものの、そこまで痛々しそうな顔をされると愉快ではない。
「カナン、お前、これは……」
「……人に見せるものじゃないって言いました。大層な怪我に見えるかもしれませんが、前面は無事です。臓腑も無傷ですから」
背を丸めて呟けば、ウォルテールは恐る恐ると言わんばかりの手つきで手を伸ばしてきた。……わざわざ避けることはしないけれども。
「背中か」
「少しだけ」
「取るぞ」
聞こえよがしにため息をつく。ウォルテールの背がそっと包帯の端に触れ、傷に張り付いていた当て布が浮いた。思わず声を漏らしたカナンとは対照的に、ウォルテールは身じろぎ一つせず、一言も語らないままである。
「……剣で切られたな?」
ややあって、ウォルテールが躊躇いがちに問う。「ええ」と端的に応じれば、矢継ぎ早に「誰にやられた」と次の詰問が飛んでくる。カナンは目を伏せた。
(あんたの兄さんが放った暗殺者だよ)
言えるわけがない。こんなところで考えもなしに口にすることはできない。口を閉ざしたカナンに何を思ったのか、「おいそれと口に出せないような人間なのか」とウォルテールは低い声で吐き捨てる。珍しいご名答である。
「……どうでしょうね」
ウォルテールとて、まさか名前も出ていないルージェンが関与しているなど、ゆめゆめ思わないだろうが。
ウォルテールは真剣な声で呟く。
「なあ、カナン。……一体誰にやられたんだ。教えてくれ」
ウォルテールの手で包帯を巻き直され、その声を背中で受け止めながら、カナンは黙って目線を落としていた。
(……どうして、この人の兄なんだろう)
今までに抱いたことのない悔しさがこみ上げる。誰にも関係ない人間なら良かったのに。そうすれば素直にウォルテールに助けを求めることもできたかもしれなかった。
ウォルテールは真摯な口調で語る。
「俺のことを信用してくれよ。俺はこれでも一応それなりの地位には就いているし、お前の力になってやりたいんだ」
「それは罪悪感や同情からですか? ご自身の利己的な罪滅ぼしのために俺を利用しないで下さいよ」
突き放すように言うが、それがまるでふて腐れた幼児の言葉のように響いたのが納得いかない。カナンは眉間に皺を寄せる。ウォルテールは少し息を漏らして笑ったようだった。
「……俺が、目の前でこんなに大怪我を負っているような人間を見逃せるような奴だと思うのか」
その言葉の裏に、隠しきれない苦みが混ざっているのを感じ取って、カナンは思わずぎりと音がするほど奥歯を噛みしめた。分かっている。ウォルテールがそういう人間であることを自分はよく知っている。
(どうして、あんな男が、この人の……)
やりきれない思いを握りつぶしながら、カナンは控えめな笑みを浮かべた。
「――できないんでしょうね。あなたはそういう人ですから」
そう言いながら、カナンは、自身が知らず知らずのうちにウォルテールを見くびっていたことに気がついた。ばつが悪く頭を掻くと、隠れて嘆息する。
寝台に丸めていた服を取り上げ、袖を通しながら、カナンは「先程、『信用してくれ』と仰いましたが」と呟いた。
「……あなたが思っている以上に、俺はあなたを信用していますよ」
あるいは、カナン自身が思っていた以上に。カナンは思わず苦笑した。
「信用していなかったらあなたにこの旅を任せることなんてできるものか」
エウラリカがウォルテールを巻き込んだのも、きっとその信頼があってのことである。ロウダン・ウォルテールは、ルージェンに対抗できる唯一の有効な手札であると同時に、この陰謀渦巻く帝国にあって、恐ろしいほどに真っ直ぐな男であった。
だが、ウォルテールの最大の美徳は、最大の急所でもある。
「ごめんなさい、全てを語ることはできません。けれど、」
カナンはウォルテールの目を真っ直ぐに見据え、深く息を吸って囁いた。
「エウラリカ様を守り抜いてください。たとえ何が敵として立ちはだかろうとも――」
たとえ、血の繋がった実兄に剣を向けることになろうとも、
「――絶対に」
言いようのない哀しさだった。既に情の湧いた真っ直ぐな人間を、こちらの薄汚れた世界へ引きずり落とそうとする、取り返しのつかないやるせなさだった。
「ウォルテール!」
ばん、と扉を開け放って飛び込んできたのはエウラリカだった。跳ねるように入ってきて、随分とご機嫌そうな表情で胸を張る。その姿を認めて、カナンは思わず肩の力を抜いた。
エウラリカは隣にある食堂に行きたいと主張し、カナンとウォルテールは眉根を寄せて顔を見合わせる。エウラリカだって外に出る危険性を理解しているだろうに、わざわざこんなことを言ってくるとは……。
「……わたし、ちゃんとお行儀良くできるわよ?」
作ったような不満顔でエウラリカは頬を膨らませる。今まで一度だってエウラリカのお行儀が良かったことなんてあっただろうか? 当て擦るように視線を向ければ、彼女はつーんと顔を逸らした。
***
「一、潜入して様子を見る。二、直接聞いてみる。……どっちが良いと思う?」
「真面目に注文考えてくれません?」
「あーら、私はいたって真面目ですけれど」
机に置いてあった手書きのメニューに隠れながら、カナンとエウラリカは顔を突き合わせていた。食堂はさして広くはなく、そして他の客たちはほとんど口を利かずに、周囲はしんと静まりかえっている。自然と声は低くなり、顔を突き合わせる距離も近くなっていた。
「この街、どうもきな臭いのよね。住民たちの目もいやらしいし、聞き耳を立てられている感じよ」
「だからって潜入やら直接って、わざわざ危険を冒さなくたって……」
天板の上に身を低く伏せ、二人は小声でやいやいと言い合う。
「じゃあ、それとなくこちらの素性を明かしておびき出す。これは?」
「何だか危なそうじゃないですか? そうだな……だったらこっちの方が」と、カナンはさもメニューを選んでいるかのような素振りで指を立てた。
「ウォルテールの名前を出しておびき出す。もしもルージェンと繋がりがある人間がいるとすれば、ウォルテールの名に反応するはずです」
「確かにそれも良さそうね……。少し思い当たる節もあるし、私の名前よりはウォルテールの方が安全だわ。その方が都合も良い」
と、向かいの席ではアニナがウォルテールの名を平然と呼び、ウォルテールがそれを窘めている会話が繰り広げられている。ウォルテールの名前が聞かれたら、住民の間で素早く共有されることは予測できているらしい。この流れでウォルテールの名を呼ぶとして、適任なのは……。
カナンとエウラリカは思わず顔を見合わせた。エウラリカが頷く。カナンが親指を立てて応じると、彼女はすいとメニューから顔を上げ、楽しげな表情で「ねえ、ウォルテールはどう思う?」と高らかに声をかけた。ウォルテールが衝撃を受けたように目を剥き、それからがくりと項垂れる。どうやら深々とため息をついたらしい。
ちなみにメニューはエウラリカがウォルテールに適当に選ばせたが、やたらに香辛料の利いた炒め物で、それから終始エウラリカは不機嫌な顔で水を呷っていた。




