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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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草原の風



 風が薙ぐ。青臭く爽やかな空気がゆっくりと動いていた。――ここはハルジェル領付近の草原地帯。カナンにもこうした広大な草地は初めてのことであった。


 馬車の扉を押し開け、カナンは一足先に外へと降り立った。目の当たりにした光景に小さく口笛を吹く。馬車の窓から見えていたとおり、見渡す限りの草原地帯である。白々とした雲が晴天に散らばっている平原だ。

 カナンに次いで馬車を降りようとして、エウラリカはそこではたと動きを止めたようだった。怪訝に見上げるカナンに反応を示すこともなく、彼女は明るい昼間の光を受けて、馬車の入り口に足を向けたまま、座席に浅く腰掛けている。

 扉から入り込む風に、エウラリカの髪が僅かにそよいでいた。エウラリカは目をいっぱいに見開いて、胸を上下させてゆっくりと息をする。



 ややあって、その顔に、ゆっくりと花開くがごとく喜色が浮かんだ。唇を綻ばせ、エウラリカは腰を浮かせ、馬車から飛び降りようとするみたいに床を蹴る。その手が泳ぐように前方に伸ばされ、指先が空を切った。

「エウラリカ様、」

 あんまり無鉄砲な降り方をしようとするので、カナンは咄嗟に一歩出てエウラリカを片腕と胸で受け止めた。エウラリカはそれを当然としたように何か言うことはなく、地面に下ろされても平然と周囲を見回している。


「どうしましたか、エウラリカ様」

「ううん、別に」

 エウラリカはその目を丸く見開いて、隅から隅までこの光景を目に焼き付けようとするみたいに真っ直ぐな眼差しをしていた。その横顔を眺めながら、カナンは、生まれてこの方ずっと帝都に閉じ込められていることの意味を内心で慮った。


 胸元で両手をぎゅっと握り締めたまま、エウラリカは息混じりの声で呟いた。

「……私ね、こんなに広い地面に立つのは、初めて」

「立つだけで良いんですか?」

「いいえ」

 カナンが腰に手を当て、ちらと視線を向けて悪戯っぽく問えば、腕を組んだエウラリカも目だけを寄越してにやりと頬を吊り上げる。

「せっかくですから、歩き――」

「――走るわよ!」

「ちょっ、」


 前触れもなくいきなり走り出したエウラリカを追って、カナンは泡を食って駆け出した。先をゆくエウラリカから、弾けるような笑い声が飛んでくる。高くとも腰の高さは超えない草本を蹴り分けて、少女が風のように舞い踊った。すらりと伸びた四肢が空を切り、透けるような金髪はまるで扇のように広がって弧を描く。

 感情を全身で表しながら、エウラリカが高らかに笑っていた。まるで子犬か子猫かのごとく転げるように走ってゆく彼女を追いつつ、カナンはえもいわれぬ切なさが喉に突き上げてくるのを感じていた。


 帝都から出ただけ。草の上に立っただけ。それだけのことが、エウラリカにとっての一大事なのである。帝都の端々にまで目を光らせて糸を繰る少女が、本当は驚くほど狭い世界に生きてきたことを悟って、カナンは歩調を緩めて俯いた。


(エウラリカは、この世の全てを手に収めているかのように見えて、その実何も与えられてはいないのだ)

 そう思うと、何故だか、エウラリカの境遇が酷く哀れなものに思えて仕方なかった。彼女はそのような憐憫を向けられることを決して望まないだろう。分かってはいても、カナンにはエウラリカが労しくてならなかった。


(……エウラリカは、いつからどうして、今のような在り方を選んだのだろう)

 それは踏み入ることのできないエウラリカの深層であった。カナンは草原の風に髪を揺らしながら、前をゆくエウラリカを大股で追う。



 こほん、と咳払いひとつ。顔を上げれば、エウラリカはこちらに向かって不遜な態度で手招きしている。思いのほか距離を離されていたことに気づいて、カナンは慌てて歩みを早める。近づいたエウラリカの目線が妙に高いと思って足下を見ると、彼女は何やら大きく平面的な石の上に立っていた。

「離れて行っちゃ駄目よ」

 明るい光を受けてエウラリカが快活に笑う。カナンはつと言葉を失ってエウラリカを見上げた。

(……俺は、この人を、殺せるだろうか?)

 足下がすっぽりと抜けたような不安に襲われて、彼はしばし忘我して立ち尽くした。言葉にならない感情が胸の内で膨れ上がる。気づけば、エウラリカに向かって手を伸ばしていた。少女はその手を取らなかった。そんな選択肢など想定の内にすら入っていないようだった。


(仇と呼ぶべきか、……何と呼ぶべきか)

 祖国を滅ぼされた。床にひれ伏し、度々足蹴にされ、誇りを傷つけられた。祖国の兵の前で恭順を誓わされた。

 侵攻に燃える第一王子の魔手から護られた。命を救われた。宝である英知は元のまま残されていた。

 突きつけた剣の先にエウラリカが待ち受ける光景を、何度も夢想した。細い首に両手をかけたときの手触りを思い描いてきた。……いつの間にかそれらの夢は精彩を失い、遠ざかっている。そのことを自覚して、カナンは思わず息を止めた。


 エウラリカが笑う。細められた目に光が浮かぶ。伸ばした指先が空を切る。触れられる距離にいるはずなのに、あまりにも遠い。この感覚は今までにも何度も味わったそれだった。茫洋とした恐ろしさだった。

 ……けれど今は、それでも良いとは思えない。


 あの手を掴んで、どこか高みで踊っているエウラリカを引きずり下ろしてやったら、どんな思いがするだろう。同じ目の高さまで落としてきてやったら、あれは泣くだろうか。


 どうすれば、この生き物を救えるのだろうか。



 ***


「それにしても、ハルジェル領に行けるとは思わなかったわ」

「そんなに行きたかったんですか? 昔からの憧れとか?」

「昔からって言うよりは、この間の薬物云々の話を受けてからね」

 エウラリカが跳ねるように石と石との間を渡ってゆく。踏み外さないようにとその背を慎重に見守りながら、カナンはゆっくりとエウラリカを追った。

「ハルジェール領が何か関係ありましたっけ」

「まあね」

 エウラリカはくるりとその場で回転する。着慣れた衣装の裾が広がり、革靴を履いたエウラリカの足下が覗いた。足首にて装身具が揺れる。

「あの話はまだ終わっていないわよ。……まだ繋がっている」

「『傾国の乙女』に関して、ですか?」

 首を傾げたカナンに対して「追々分かるわよ」とエウラリカは機嫌よさげに微笑み、次の石の上へと飛び移った。その様子を眺めながら、カナンは何の気なしに呟く。



「この石、何なんでしょうね。ずっと遠くまで続いている……」

 平原とは言えど、僅かな起伏を伴って広がっている大地を見回せば、まるで道のようにその石は続いている。まるで街道に並行するみたいだ。石はいずれもおおよそ同じ大きさに切り出されており、空を向く面は平らに削られている。どれも風化しており、最近置かれたものではなさそうだが。

「ああ、これ?」

 エウラリカはとんとんと足下を爪先で蹴りながら目線を落とした。


「墓」

「何てもんの上で飛び跳ねているんですか!」

「やだ、大きな声出さないでよ」


 目を剥いたカナンにエウラリカはひょいと肩を竦めて唇を尖らせる。それから腕を組み、首を巡らせて居並ぶ墓の数々を見回した。

「二百年前、ハルジェル王国は新ドルト帝国に組み込まれた。けれどそれ以前は、あの山脈を挟んだこちらとあちら、二つの地方は常に対立し続けていた。それこそ二百年なんてちゃちな時間でなく、千年単位で昔の話よ」

「へえ……。じゃあ、山脈のお膝元であるここは、かつて戦場だったってことですか」

 忠実な領地であると聞いていたから、てっきり平和的に併合したものだとばかり思っていた。カナンが目を丸くすると、エウラリカはしたり顔で頷く。

「そうね、ちょうどこの辺りが古戦場だと言われているわ。とはいえ昔のことなんて絶対に分かる訳がないから言い切ることはできないけれど、この石の下から人骨やら馬の骨が出てくるのは確かだとか。この辺りに街がないのも頷けるわよね」

「なおさら降りてくださいって」

「四六時中お前に見下ろされるのも腹が立つのよね」

 墓の上で飛び跳ねながらエウラリカが鼻を鳴らす。そんなことを言われたって今更縮められるものではない。カナンは両手を掲げる姿勢でお手上げを示して首を竦めた。


「まあ、要するに、帝都圏とハルジェル領は本来、仲良しこよしな間柄ではないのよ。……たかが二百年でその悪感情が拭い去れるものかしら?」

「二百年も経てば大丈夫なんじゃないですか?」

「じゃあお前、ジェスタが二百年後、完全に帝国と同化するとでも思う? どうやったって育まれてきた文化は違うし、その違いは互いによほど理性的な自律がない限り、必ず軋轢を生むわ」

「…………。」

 祖国の名を出されてしまえば黙るしかなかった。二百年でジェスタが帝都に組み込まれるだろうか? 可否は別として、そうなって欲しくはないというのが本心だった。



「あと、念のために言っておくけれど、『ハルジェール』の発音は現地風に矯正しておくことをおすすめするわよ」

 高圧的な態度で腕を組んで、エウラリカはカナンを指さす。カナンはきょとんとして目を瞬いた。

「帝国語の特徴としてよく挙げられるのはアクセントの置かれる音節の移動と長母音化ね。名字なんかによく見られるけれど、単語の最後の母音を長く伸ばして発音する例が多く見られるわ。私の名前なんかも、由緒正しく発音すれば『エウラリィカ』とかになるのかしら?」

「『ラダーム』、とかもそれですか? いくつかの名字でも見られる傾向ですね」

「三音節以下の単語は特にね。と言ってもあくまでそういう傾向があるだけで、全てに適応される訳ではないわよ。特に新ドルト帝国の治世に入ってからは他国への侵攻の影響で異国語の影響を強く受けているから、今となってはそんなに見られないかしら。古くさくてださい印象を受ける人もいるでしょうね」


 思わず自分の名前を思い浮かべて眉をひそめる。……最後の母音が、長くなる?

「……カナーン…………?」

「響きがださいでしょ。まあ、それに関しては元々東方の言葉だし、当てはまらないのは当然よ。伸ばさなくて結構」

「ええと、じゃあつまり、帝国ではハルジェール領と呼ばれているのは、」

「完全に帝国語訛り。現地では『ハルジェル』だし、長母音はむしろ癇に障るでしょうね。相手によっては喧嘩を売っているようなものよ。……私たちが征服者と被征服者の関係である以上、そうした些細な発言のひとつひとつが軋轢になるし、大きな意味を持つ」

「……そうですね」

 思うところがありつつも素直に頷くと、エウラリカも同様に目を伏せ、深々と息を吐く。それから切り替えるように頭を振り、腕組みを解いて腰に手を当てた。彼女の目は満足げに輝いており、カナンもエウラリカがこんなに饒舌に語るのを久々に見たところだった。エウラリカが大きく息を吸って胸を膨らませる。


 こほん、とエウラリカが咳払いをした。裾をはためかせながらエウラリカが軽やかに墓から飛び降りる。目線の高さは常と同じものになり、視線が重なった瞬間、同じことを考えていたらしいエウラリカが目を細めた。

「……お前、最初は私より小さなお子様だったのにね」

「いつの話をしているんですか」

「お前が可愛かった頃の話よ」

「そんな頃ありました?」

「ん、一瞬だけね」

 からかうような笑みとともにエウラリカはくるりと踵を返し、馬車の停めてある街道の方へと足を向けた。


 カナンは数呼吸の間、その場に縫い止められたように立ち尽くし、風を受けていた。結び目から零れた髪が煽られて、視界の隅ではためいている。エウラリカの後ろ姿が離れてゆく。その背が不意に心細いほど小さなものに見えて、カナンは思わず息を留めた。



 ***


 ハルジェル領に入って一つ目の街である。周囲を見回し、カナンは眉をひそめた。山間に位置する街だが、どうにもきな臭い。原因はいまいち判然としないが……。

 同じような感想をエウラリカも抱いたらしい。馬車から降りる前に彼女は手振りで『見て回ってこい』と言わんばかりに合図をしてきた。思わず嫌な顔をすると爪先を軽く踏まれる。わざとらしく眉間に皺を寄せて頷くと、エウラリカは満足げに胸を反らして足を組んだ。


 エウラリカが先に馬車から飛び出て、ウォルテールの注意を引いているのを確認してから、カナンは足音を忍ばせて馬車から出、人目につかないようにさりげなく歩きながら広場の隅に寄った。幅広の目抜き通りから脇の路地へと滑り込んだカナンを見咎めるものは誰もいなかった。


(……幅員が狭く、見通しも悪い。まるでわざと道を屈曲させているみたいだ)

 眉をひそめ、しんと静まりかえった路地をゆく。こんなにたくさんの家々が立ち並んでいるというのに、そこに人の気配はない。それも妙だった。

(どの家も新しい……)

 それでいて、中で誰かが生活している様子はないのである。いくつかの家を見ていくうちに、それらの形がいくつの種類から無作為に並べられていることに気づく。それぞれの家主が偶然こんなに限られた形の家を建てるだろうか?建て売りにしては無秩序で見栄えしない。


(窓が開いているところも、カーテンがかかっていない窓もない。……さすがに庭にまで立ち入って覗き込むのはまずいか)

 カナンは少し思案してから、諦めて嘆息する。気がついたら街の外れまで来てしまったようだった。街を取り囲む森が見え、カナンは踵を返そうと体を反転させかける。

 その間際、森の中に動くものを見つけ、カナンは咄嗟に石塀の陰に身を寄せてかがみ込んだ。そっと様子を窺うと、はたして森の中から出てきたのは二頭立ての幌馬車である。御者台には男が一人、幌の隙間からは荷台に積まれた木箱が覗いていた。

(……正規の道ではなく森の中を通って、何かの荷物を運び込んでいる)

 カナンは目を眇め、そして踵を返す。あまりにも場を離れていてはウォルテールたちに怪しまれるだろう。


 馬車が来たのはハルジェル領からの方向だった。別の領地から、帝都圏――ひいては帝都に向かう方向に運ばれる、謎の積み荷。

「…………。」

 それが穏便な荷物であると思うほど、カナンは呑気ではなかった。――まだ終わっていない。まだ繋がっている。エウラリカの言葉がふと脳裏に蘇る。カナンは厳しく眉をひそめると、足早にその場を立ち去った。




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