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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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外遊-前3



 数台の馬車と馬たち、身支度を整えた一個隊が城門前に待機していた。その中に見慣れた将軍の姿を見かけて、カナンは眉を上げる。

「よろしくお願いします、ウォルテール将軍」

 小走りに駆け寄って声をかけると、ウォルテールは「ああ、」と振り返った。

「エウラリカ様の身の回りのことは頼んだぞ」

 先手を打ってくるウォルテールに、カナンは苦笑しながら「何か不都合がありましたら何でも仰ってください」と頷く。


 これから向かうハルジェール領への外遊においては、エウラリカの世話係はカナンしか用意されていない。できるだけ頭数を減らして身軽に、かつ人目を避けて移動するためであった。

 いかにネティヤがエウラリカと懇意にしていようと、彼女には官僚という立場がある。外遊に同行するには不釣り合いであり、ネティヤ自身も無理に同行を申し出ることはなかった。

 無論、随身の兵の中にルージェンの手の者がいる可能性は大いにある。しかし、たとえそうだとしても、エウラリカの身を守るのはウォルテールである。エウラリカの身が危険に晒されればウォルテール、ひいてはルージェン自身にまで累が及ぶとなれば、強硬な手段を取ることはないだろう。



 そのとき、ウォルテールが「あ、」と声を漏らして遠くに視線を投げたので、カナンはそれを追って体ごと振り向いた。

 いたくご機嫌な様子のエウラリカが軽やかな歩調で馬車に近づき、繋がれた馬の首筋に触れようとするように手を伸ばす。エウラリカが狙いを定めた馬というのが、これまた体格の大きな馬で、カナンは思わずそちらに向かおうと踏み出しかけた。


 と、馬を刺激しないような穏やかな足取りで、黒髪の女が歩み出る。すらりとした長身は見慣れたそれで、珍しい髪色もあって特徴的な姿である。

 しかし、ウォルテールが眉をひそめて「あれは……」と呟いたのには驚いた。カナンは目を丸くする。……ウォルテールが、ネティヤを知っている? 一体どこで、と思案を巡らせる間もなく、ウォルテールは些か自信がなさそうな表情で問う。

「官僚の一人ではなかったか?」

「ネティヤさんですか?」

 念のため確認すれば、今度はよく分からないような顔をする。名前は知らないらしい。ネティヤの顔を通路かどこかで見かけた程度だろうか、とカナンが首を傾げた直後、ウォルテールは慎重な口調で告げた。


「エウラリカ様の、……婚約について取り計らっていた官僚だろう?」

「面識がおありでしたか」

 酷く言いづらそうなその態度に、カナンは面食らって目を丸くする。やはりウォルテールはネティヤを知っているらしい。それも、先の婚約騒動に関与していたことを確信している。

 それでは、エウラリカに近づくネティヤに関心を持つのは当然の帰結である。カナンは視線を浮かせて、どう説明したものかと頬を掻いた。



 カナンは少し言い淀んでから、「その通りですね」と頷く。

「確かに当時はそのように動いていたようですが、……状況を鑑みて、今はしばらく様子見に回るということらしいです」

「それにしたって、どうしてその官僚がここに?」

「エウラリカ様が彼女を気に入ってしまわれたようで。どういう訳かお側に置きたがるんですよ」

 怪しまれているのは明らかだ。眉をひそめたまま、なかなか表情の晴れないウォルテールをいなしていると、不意に彼は閃いたように目を見開く。ウォルテールは大真面目な表情でカナンとネティヤとを見比べた。

「……エウラリカ様は黒髪が趣味なのか?」

(んなわけあるかよ)

 と、内心で突っ込んでから、カナンは不意に自信をなくす。それを否定する根拠は手元になく、ひょっとしたら本当にエウラリカが黒髪趣味を持っている可能性もなくはない……のか?

「そ……そういう訳ではない、と思うのですけど」

 絶対の自信をもって頷けず、カナンは曖昧な返事でその場を濁した。……少なくとも、エウラリカに髪色に言及されたことはないのは事実だし。



 ネティヤに注意でもされたのか、エウラリカはこちらに目を留めてとことこと歩いてくる。人の目があるからか、殊更に幼げな立ち居振る舞いである。

「怒られてしまったわ」とエウラリカは小鼻を膨らませ、ふんすと荒く鼻息をついてみせた。

「二人のところにいなさい、ですって。わたし、もう子どもじゃないのよ!」

 わざとらしいぶりっこにカナンは苦笑しつつ、「存じていますよ」とエウラリカを宥める。


「でも、ネティヤさんもエウラリカ様を案じてのことですから」

 もちろん、その『案じている』とは、決して真心からのものではない。エウラリカを監視し、耳に入る情報や振る舞いを管理しようとする目的に基づくものである。その監視体制は厳しく、今日に至るまでカナンはエウラリカとろくに会話をしていない。

 ネティヤに対する揶揄を込めて丁寧に告げれば、エウラリカは目を眇め、久々に性格の悪そうな表情で鼻を鳴らしてみせた。



 ウォルテールが人に呼ばれて立ち去ったのち、ネティヤが近づいてくるより先にカナンは身を屈めてエウラリカと目線を合わせた。何かを言おうとして、どういう訳か喉が詰まる。

 エウラリカは見慣れた小生意気な表情で腰に手を当てていた。口を開きかけたカナンを促すようにエウラリカが眉を持ち上げる。

「エウラリカ様、」

「……何よ、もったいぶるような話題もないくせに」

 優に一月ぶりとなるエウラリカの憎まれ口であった。えもいわれぬ感傷に駆られて、カナンは言葉を失う。


「何か……ちょっと顔が丸くなりました? 痛っ」

 咄嗟に口走った直後、爪先を強く踏まれてカナンは飛び上がった。エウラリカはじとりとカナンを睨みつけ、低い声で脅すように囁いてくる。

「お前、久しぶりに元気そうにしている主人に対して開口一番にそれなの? 態度には気をつけた方が良いわよ」

「いてて……暴力反対なんですけど」

「躾よ、しつけ」

「やめてくださいってば」

 執拗に爪先を狙ってくるエウラリカから逃げながら、カナンは肩を竦めた。

「文句は馬車の中ででも聞きますから。ほら、向こうでみんな集まってますよ」

 宥めるようにそう言うと、エウラリカは勢いよく鼻を鳴らして踵を返す。これ見よがしに不機嫌を表した後ろ姿を眺めながら、カナンは小さく息をついた。別にそれほど腹は立たなかった。

 不満であろうとご機嫌であろうと、感情をあからさまにぶつけてくるエウラリカは久しぶりだった。危惧していたほどは塞ぎ込んでいないらしい。カナンは密かに笑みを零して、エウラリカの後ろ姿を追った。



 ***


 エウラリカは傍目にも分かるほど浮かれていた。普段ならなかなか見せぬであろう笑顔の大盤振る舞いで、これから一月ほど旅程を共にする兵たちに愛想良く挨拶をしている。

「わたし、みんなと仲良くしたいわ!」

(駄目に決まってるだろ)

 自身の危険も顧みずにそんなことを言うので、カナンは思わずじろりとエウラリカを睥睨した。それから兵たちに牽制をかけつつ、カナンは腕を組む。

 ほいほいと兵士をおびき寄せて素性を探る算段だろう。カナンは腕を組む。

(そりゃもちろん、兵の中にルージェンの手の者がいるかどうか確かめるには手っ取り早いだろうけども)

 しかし、エウラリカが自らを危険に晒してまで確かめるような情報ではない。そんなものはいずれ露呈する機を窺えば良いだけのことである。それなのに、わざわざそんな、自分を囮にするような……。


 カナンは眉間に皺を寄せたまま唇を引き結んだ。見れば、ウォルテールも似たような顔で部下を見回している。この旅程を指揮する長がウォルテールなのが、せめてもの救いだ。エウラリカが何をするか分からない危険人物であることをわりと正しく認識している。ウォルテールならエウラリカを諫めることもできるだろう。……本人が従うかは別として。



(本当に手に負えない)

 嘆息しながら馬車の方へ向かおうとしたカナンは、ふとウォルテールの声を聞き咎めてそちらに顔を向けた。

「もしもエウラリカ様に気安く話しかけてご機嫌を損ねてみろ。お先真っ暗だぞ」

「でも、カナンくんはあの態度で何年もいるんだし、大丈夫じゃないですか?」

「いや、」

 真剣な口調でウォルテールが賢明に部下を諭している、その背中に妙な哀愁が漂っていた。思わず同情しながらカナンはウォルテールに背後から歩み寄る。


「あのな、カナンは」

「だってそりゃ、俺はエウラリカ様と特別な仲ですから」

 くつくつと肩を揺らしながら、カナンは口を挟む。振り返ったウォルテールは想像通りの苦り顔で、「……だ、そうだ」と雑に話をまとめて息を吐いた。カナンも苦笑しながら補足する。

「お立場を考えずに誰にでも可愛い顔をするのがあの人の悪い癖で。本人はそれほどのつもりはなくても、ついつい入れ込む人が多くて困ってしまいます」


 カナンがエウラリカに仕え始めてからこちら、エウラリカとの仲立ちやら紹介、果てには覗き見までもを持ちかける声が絶えない。エウラリカがどんなに愚鈍で厄介な姿を見せていても、その欠点すら霞むほど彼女は――その容姿や地位という観点において――非常に魅力的であるらしい。

(大体、覗き見って何だよ。それを俺が許可するとでも思うのか)

 以前に声をかけてきた不躾な令息の顔を思い返して、ふと不愉快な気分になる。記憶を頭の隅にさっさと追いやりながら、カナンは肩を竦めた。


「俺も、出先で内輪揉めの大喧嘩の仲裁なんて避けたいですから……。エウラリカ様の相手は、俺か将軍に任せてください」

「その通り……俺もか!?」

「ウォルテール将軍はエウラリカ様の相手に慣れていますから」

 カッと目を見開いて頬を引きつらせたウォルテールを笑顔で黙殺し、カナンはじっと将軍を見据えた。嫌々頷いたウォルテールを確認して、カナンは「いつもご迷惑をおかけしています」と悪びれもせずにそう言った。



 ***


「じゃあ、行ってくるわね」

「はい。行ってらっしゃいませ、エウラリカ様」

 馬車の窓枠から顔を出すエウラリカと、同じ目の高さになったネティヤが出立の挨拶を交わしている。カナンは腰を浮かせ、窓枠に片手を置いてエウラリカの頭上からネティヤを見下ろした。

「……留守中、よろしくお願いします、ネティヤさん」

「ああ、任せてくれ」

 含みのある笑みでネティヤが応じる。エウラリカのいない間に暗殺者を見つけ出しておく、とルージェンたちはそう言っているが、考えるまでもなく嘘である。どうやって出先でエウラリカを暗殺するかと手ぐすね引いているに違いない。しかしカナンはそれをさせる気はないし、ウォルテールとて十分に警戒しているに違いない。留守番でもしていろ、とカナンは嘲笑を込めて口角を上げた。


「エウラリカ様を頼んだぞ、カナン」「ええ」と実のない言葉を交わし、カナンは心のこもっていない笑みとともに頷いてみせる。同じ髪色をした女を見下ろした。故郷からはるばる帝都まで出てきて、官僚にまでのし上がった女である。その野心の程は計り知れず、彼女が並々ならぬ決意を持ってここにいることを窺わせた。地方の出だというだけで奇異の目を向けられ続けたことだろう。それに対する反骨心も隠し切れていない。

 何にせよ、ネティヤという女が信頼できる人間ではないことは確かだった。しかし、卸せない相手では決してない。カナンは好戦的に頬を吊り上げた。



「カナン!」

 呼ばれて振り返れば、ウォルテールが手振りで出立を伝えてくる。別れを惜しむ素振りもなく、ネティヤはあっさりと離れてゆく。その後ろ姿を見送りながら、カナンはウォルテールに「はい」と頷き返した。ふと、ウォルテールが蒼白な顔をしているのが気にかかったが、カナンはすぐにエウラリカを振り返る。


 エウラリカは窓際に顔を寄せつつ、物思いに耽るように瞼を心持ち下ろしていた。

「――行きましょう、エウラリカ様」

 そう言うと、エウラリカは「ええ」と微笑んで応じる。その表情が驚くほどに柔らかかったので、カナンはつと魅入られたように息を止めた。



 緩やかに弧を描く唇が開き、彼女は花開くように破顔した。

「今の私はご機嫌だから教えてあげる。……私ね、今とってもわくわくしているのよ」

 口元に手を添え、身を乗り出したエウラリカがそっと囁く。その青い双眸が見たことがないほどに輝いているのを見て取って、カナンはつられて目を細めた。

「だって私、この都から出ることも、――正式に宮殿を出ることすら、初めてなんだもの」

 ごくごく小さな声であった。一瞬の痛みを堪えるように目を伏せ、エウラリカはそっと唇の前に人差し指を立てる。……まるで、これは口にしてはいけないことなのだと言わんばかりに。


 しゃん、とエウラリカの腕輪が音を立てた。それはさしずめ、彼女に絡みついた手枷のような。



 ***


 帝都の目抜き通りを馬車がゆく。整えられた石畳に馬車の蹄鉄の音が小気味よい。馬車の窓には幕が下ろされており、中にいるエウラリカの姿が見えないようになっている。エウラリカとてそれを開け放って外を窺うつもりはないようだが、明らかに落ち着かない様子で窓の方をちらちらと見ていた。

「帝都を出たらすぐに街道に入るそうですから、そしたら開けますか」

「ええ」

 素っ気ない言葉で返したエウラリカが、自身の高揚を恥じたように椅子に座り直す。カナンが揶揄するように目を細めると、彼女は耳を赤くしてそっぽを向いた。



 しばしの沈黙が落ちる。カナンは姿勢を正し、改めてエウラリカに向き直る。

「……お久しぶりです」

 カナンはエウラリカの向かいに腰掛けたまま、膝に緩く組んだ両手を乗せて慎重に告げた。エウラリカは窓枠に肘を乗せて片眉を上げ、「毎日顔を合わせていたじゃない」と鼻を鳴らしたが、殊更に悪態をつくこともなくカナンの視線を受け止めている。話題をどこから切り出したものかと互いに探るような、気詰まりな空白が生まれた。


 咳払いと共にエウラリカの一瞥が飛ぶ。それを契機に、カナンは膝に手をついて頭を下げた。

「……暗殺者の侵入を受けて、ルージェンから『しばらく帝都を離れてはどうか』と持ちかけられました。断ることはできず、連絡もできないように監視もついていて……。報告が遅れて申し訳ありません」

「ああ、そういうのは要らないわよ。取り立てて儀式めいたことは、この間の地下でお腹いっぱい」

 きっちりと筋を通して説明しようとしたカナンに、エウラリカは素っ気なく片手を振ることで応じた。


「大体お前、私がそんなことでいちいち怒らないって、もう分かっているでしょうが」

 あっさり応じて足を組んだエウラリカに、カナンは思わず相好を崩す。エウラリカにはどうもこういう、本人は意図していないであろう妙な殊勝さがあった。



 がたん、と馬車が一度揺れ、車輪の下の感触が変わる。木のくぐもった音が聞こえ、カナンは片手で幕をすいと上げて外を覗き見た。

「あ、跳ね橋を渡り始めましたね」

「……そう」

 エウラリカは呟き、そっと窓際の壁に肩を寄せ、こめかみをつけて寄りかかる。外が見えやすいようにとカナンが幕を持ち上げると、その頬にぱっと光が射した。目元にまで光が伸びると、彼女は眩しそうに眦を引く。

 エウラリカは何も言わなかった。カナンも声をかけることはせず、静かに瞬きを繰り返す彼女の眼差しをひたすらに見つめていた。馬車の狭い箱の中には、喜びとも切なさともつかない感傷が溢れていた。



 エウラリカが呟いたのは、ほんの独り言のように脈絡がなかった。

「……母は、帝都を出たから殺されたんだわ。馬鹿な女……」

 幼い顔をして、少女はそっと胸元に指先を触れた。

「……この孤島の中が一番安全で、守ってもらえる土地ってことくらい、私だって分かっている」

「僕に言わせてもらえば、この街は檻か鳥籠か箱庭のように見えますがね」

「箱庭を覗き込む人間は、得てして自分が見られていることに気づかないものだわ」

 エウラリカは片手を持ち上げてうなじに差し入れると、肩にかかっていた髪を背に流した。

「まあ、鳥籠の扉が開けられたのなら、精一杯翼を動かして高く舞ってみせるしかないわね」

「外は広いですよ」

「ああ、お前は檻の外出身だものね。久しぶりにお外へお散歩に行けて良かったわね」

「自分は鳥に喩えるくせに、僕のことは当然のように犬にするのやめてもらえません?」

 カナンが言うと、エウラリカは声を上げて笑った。馬車がまた大きく揺れる。石畳に乗った両輪が、南に向かって下ってゆこうとしていた。


「お前、傷の状態は?」

「まだそんなに塞がっていませんね。やっぱり動くと皮膚が引っ張られてしまって」

「そう。なら、この外遊で精一杯療養しなさいな」

 エウラリカは微笑み、片手で幕をたくし上げた。窓の外を見つめながら、彼女は目元を和らげて微笑んだようだった。




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