外遊-前2
翌朝、日が高く昇ってから部屋を訪れると、エウラリカは長椅子の上に崩れるようにして眠っていた。扉に鍵はかかっておらず、先に部屋に入ったネティヤは驚いたようにその場に立ち尽くす。
ネティヤの肩越しに部屋を覗き込んで、カナンは無言で目を見開いた。
(エウ、)
靴を脱ぎ捨て、長椅子の縁から両足を揃えて垂らしながら、己の片手を枕に横たわっている。その体はぴくりともせず、カナンは全身がざぁっと冷えるのを感じた。
「――エウラリカ様っ!」
咄嗟にネティヤの肩を片手で押しのけ、カナンは足をもつれさせながらエウラリカのもとへ駆け寄った。覗き込んだその顔はやけに白く、肩と頬に触れればひんやりとしている。
(まさか、俺がいない間に、)
カナンが総毛立った直後、エウラリカはうるさそうに眉をしかめて、薄らと瞼を開けた。
「……何よ、」
「あ、生きてた」
思わず呟いて、カナンは胸を撫で下ろす。エウラリカが緩慢な動きで体を起こし、その肩から金糸が滑り落ちた。
未だに夢の残滓が残っているのか、エウラリカは眠たげに瞬きをしながらカナンを見上げる。「お前が来ると思って、」と言いかけたので、慌ててその口を片手で塞いだ。
「おはようございます、エウラリカ様」
ネティヤが遅れて歩いてきて、エウラリカに一礼する。それからカナンを横目で振り返り、呆れたように肩を竦めた。
「随分と過保護なことだな」
十中八九、泡を食ってエウラリカに駆け寄ったことを言っているのだろう。エウラリカがこの通り無事であると分かると、何だか大騒ぎしたのが恥ずかしくなる。カナンは「申し訳ございません」とぶっきらぼうに呟いて目を逸らした。
「おはよう、ネティヤ」
エウラリカは欠伸を噛み殺しながらネティヤに応じ、脱ぎ散らした靴を片足で探しながら長椅子に座り直した。乱れた髪を直そうとネティヤが手を伸ばすと、「やめて」と鋭く拒否する。
「申し訳ございません」
ネティヤはあっさりと手を引き、エウラリカに優しい声で語りかけた。
「どうしてこのような場所でお休みになっていたのですか?」
「特に理由なんてないわ。わたしがどこで寝ていたってわたしの勝手でしょ」
高慢そうな口調でふんと鼻を鳴らし、エウラリカは突っぱねるようにそっぽを向いた。ネティヤは『参った』と言わんばかりに両手を挙げ、カナンに目配せしてくる。
「……エウラリカ様は普段から長椅子で寝ているのか?」
「そんなことはないと思いますが……」
囁き声に小声で返し、カナンはちらとエウラリカを見下ろした。
不機嫌そうに眉根を寄せ、手櫛で自身の髪を梳いている。とてもではないが丁寧な手つきとは言えず、苛々と床を叩く爪先が彼女の不興を如実に表していた。自らの機嫌を周囲に知らしめるのがお得意の女である。堂に入った態度で、エウラリカは足を組んだ。
どういう訳か決して目が合わないエウラリカを眺めながら、カナンは首を傾げる。
(……俺のことを待っていたのか?)
『お前が来ると思って』とは先程のエウラリカの言葉である。続く言葉は分からないが、エウラリカが寝ていた位置は、カナンがいるときの彼女の定位置だった。
「…………。」
上手く言葉にできぬ感情を持て余して、カナンはエウラリカをじっと見つめた。
一晩中、このだだっ広い部屋の中で、ただ一人長椅子に腰掛けているエウラリカの姿を思い描く。その背がどれだけ小さく見えることかとカナンは声を失った。……そしてついにその場で寝入ったのだとしたら?
喉にせり上がってきたのは息苦しさだった。カナンは悄然と肩を落とした。
エウラリカに囚われた直後ならいざ知らず、今になって彼女がただの傲岸な少女であるとは思えなかった。時折遠くを見やり、深い憂いに沈んでいるような横顔を傍で目の当たりにしてきたカナンには、とてもではないが……。
肘掛けに頬杖をついて、エウラリカは目を伏せていた。
「……昨晩は、よく眠れた?」
ゆっくりと目を閉じながら、エウラリカは静かに呟く。カナンは一言、「はい」と頷いた。
「とても良い寝台と布団と枕でしたよ」
付言すると、一瞬、エウラリカの唇がにぃっと弧を描く。カナンが帝国に来てからずっと、彼をそこらの長椅子で寝かせていることを思い返したのだろう。当てこすりが正しく通じたので、カナンも思わず鼻の先で息を漏らして目線を持ち上げる。
――そうして、ただ無為に時間を過ごす日々が始まった。
ネティヤやその他護衛としてつけられた兵の監視の下、実のない会話を交わすことで沈黙を埋め、面白みのない手慰みを次から次へと放り捨てる。本を手にして文字を追うことも、紙を持って言葉を綴ることもない。エウラリカの表情が次第に色あせてゆくのをカナンは目の当たりにすることしかできなかった。
元来エウラリカは何もせずに暇を持て余すことのない生き物である。身動きもせず何もしていないように見えても、その実、脳内の思考は素早く回っている様子だ。しかし愚鈍なエウラリカ王女が深慮を目に浮かべて物思いに耽っているというのは、あまり自然な姿ではない。
ルージェンに命が狙われているのを分かっていて、カナンがエウラリカから離れることができようはずもない。城内の状勢を量る機会もなく、二人はまんじりともせずに顔を突き合わせ、中身のない会話を交わすしかなかった。
傍目から見ても憔悴した様子のエウラリカが、何かを言おうとして諦めたように口を噤むのを何度も見た。一言一句がルージェンのところへ報告がいくとなれば、彼女は暗愚な少女としての言葉しか舌に乗せられない。楽しげに謀略を語る声も、高慢な嘲笑も、不敵な立ち居振る舞いも、理知的な光を浮かべる双眸も奪われた。
策略の渦巻く外遊が迫る中、カナンとエウラリカは同じ空間に存在しながら、何一つとして情報をやりとりすることなく残りの日数を食い潰していた。時折交わる視線ばかりが互いの焦燥感を糸のように繋ぎ、言葉はどこまでいっても上滑りする愚鈍のそれである。
このままではルージェンの思いのままに帝都から連れ出され、身を守る算段も立てられずに危険に晒されるのを待つばかりである。エウラリカはどう考えているのかも分からない。歯痒くやきもきするばかりの日々の中、ある日ついに彼女の思惑は知れた。
***
ある日エウラリカは不意に散歩へ行きたいと強固に言い出した。今外出するのは危険だ、と周囲が止めても聞く耳を持たず、ずんずんと突き進んでゆく。カナンも形だけはエウラリカを止めるような素振りを見せたが、別に本気で静止するつもりは全くない。
ここに来てエウラリカが行動を起こし始めたことに、カナンは安堵と一抹の不安を覚える。傍若無人な態度で廊下を闊歩するエウラリカの横顔はいつになく好戦的で、カナンは何も分からぬままに胸を高鳴らせる。
彼女が迷いのない足取りで向かったのは軍部のある棟である。軍に何の用があるのか、とカナンは首を傾げるも、エウラリカは当然のような顔をして中庭に入り、中央の噴水の縁にどっかりと腰を下ろしてしまう。
「……エウラリカ様?」
ネティヤが怪訝に声をかけるが、エウラリカは「噴水が見たかったの」とつれない態度で顔を背ける。警護の兵やネティヤは妙な顔をしつつも頷いたが、カナンはなおさら疑問を深めるばかりだ。まさか本気でエウラリカが噴水を見るためだけに壮絶な駄々をこねるとは思えない。
(一体何が目的だ)
カナンが眉をひそめたそのとき、廊下を通りがかった人影をエウラリカが目ざとく見咎めた。周囲が動くより先に素早く立ち上がり、その人に向かって勢いよく手を振りながら声をかけた。
「こんにちは、ウォルテール!」
「うわっ!?」
よく響く大声で呼びかけられ、不意を突かれたように仰け反ったのは、ウォルテールはウォルテールでも、弟の方のウォルテール――ロウダン・ウォルテールであった。
その姿を認めた瞬間、カナンは鋭く息を飲み、エウラリカの意図を理解する。思わず頬がつり上がった。
「こんにちは、ウォルテール将軍」
カナンはネティヤが口を挟むよりも早く言葉を継ぎ、ウォルテールが逃げられないように笑顔で近づいた。エウラリカは噴水の側で大きく手を振ってウォルテールを呼んでいる。
「エウラリカ様がここ最近、将軍にお会いできずに寂しがっておられたんですよ」
「そ、そうなのか……」
引きつった表情で頷いて、ウォルテールは素直すぎるほどに面倒くさがりながら渋々とエウラリカのもとへ歩いてきた。
ネティヤと他の護衛――エウラリカの監視役が、波が引くように下がった。ウォルテールに追究されることを警戒したらしい。後ろ暗いことがある人間の仕草である。
「ご機嫌よう、エウラリカ様」
「ご機嫌ですよ!」
エウラリカはご満悦でにこにこと目を細め、そしてウォルテールにずいと近寄る。首を反らすようにしてウォルテールの顔を仰ぎ、胸の前で指を組み合わせた。
「そうだわ! ねえウォルテール、――わたしと一緒にハルジェール領まで行かない?」
エウラリカが明瞭な声でそう告げた瞬間、ネティヤが鋭く息を飲み、目を見張る。エウラリカの言わんとしていることを察したらしい。
「いや、それは……」
「わたし、ウォルテールと一緒が良いわ! 決めた、おとうさまにお願いするっ! 誰か、おとうさまを呼んできて!」
エウラリカがはっきりと言い切る。ウォルテールの顔が歪んだ。明らかに面倒がっている様子である。
カナンは困り顔を作り、白々しくエウラリカを諫めた。
「エウラリカ様、いきなりそのようなことを仰っても、将軍にだって予定がございます」
「いやっ! わたしはウォルテールを連れていくの! ぜったいの、絶対よ!」
エウラリカはすかさず駄々をこねる姿勢に入る。握った両拳をぶんぶんと振り、頬を膨らませた。
カナンは声を上げて笑い出すのを必死で堪えていた。
――もしもウォルテールの護衛のもとエウラリカが殺害でもされれば、ウォルテール家は一族郎党揃って速やかに処罰されるだろう。この将軍を随行すれば、ルージェンは迂闊に手出しできまい。
「やだー! ウォルテールと一緒じゃなきゃやだぁ!」
エウラリカの芝居は更に盛り上がり、ついにはその場で地団駄を踏み始める。カナンは眉を下げて首を振ってみせた。
「我が儘を言ってはいけませんよ、エウラリカ様」
そんな茶番を繰り広げる最中、一瞬だけ、エウラリカと視線が重なる。ちらりと笑みかければ、彼女は口角を上げ、ふふん、とでも言いたげな目で得意げに笑ってみせた。
***
国王に命じられてしまえば、ウォルテールも拒み切れようはずがない。傍目にも嫌々エウラリカの随行を引き受けたウォルテールは、覚束ない足取りで姿を消した。その後ろ姿を見送って、カナンはエウラリカを振り返る。
「エウラリカ様。先程はウォルテール将軍が快く引き受けてくださったからよろしいものの、あのような我が儘をあまり仰ってはいけませんよ」
「はぁい」
白々しくエウラリカを諫め、エウラリカは白々しい返事を寄越してくる。苦々しい表情でネティヤは歯噛みしている。
「カナン、少し来い」
ネティヤに手招きされ、カナンは穏やかな足取りで歩み寄った。エウラリカはきょとんとしたように目を丸くしている。ネティヤはカナンが近づくと腕を掴んで強く引き寄せ、口元を隠すように手を立てると声を潜めた。
「……一体、何のつもりだ」
「何のつもり、とは?」
カナンがしらばっくれて首を傾けると、ネティヤはこめかみを引きつらせる。カナンは慇懃に頭を下げた。
「申し訳ありません。僕もエウラリカ様とずっとろくに話をしてこなかったので、まさかいきなりあのような行動に出るとは予想だにしなくて……」
意図的にエウラリカと引き離されたことを軽く当て擦ると、ネティヤは喉の奥で唸るような音を出しながら黙った。苦虫を噛みつぶしたような顔で睨みつけてくるネティヤに、カナンはくすりと笑みを零す。
「言っておきます――どれだけ、あなたたちがさも彼女を支配したかのように見えたとしても、彼女は決してあなたたちの手に落ちることはない。……もちろん、俺の手の中にも」
カナンはネティヤの肩を軽く掴みながら低く囁く。
「これは忠告です。……よもや、エウラリカを思うがままに制御できるなどと思うな。あれは何よりも奔放で予測不能な、――ひとりの生きた人間なんだ」
「ねえ、なんの話をしてるのっ?」
「うわーッ!」
それまで大人しく待機していると思っていたエウラリカが不意に割り込んできて、カナンは弾かれたように飛び退いた。きまり悪く黙り込み、顔を背けて後頭を掻く。カナンがネティヤや、その他の敵勢に牽制を仕掛けていることなどエウラリカは百も承知だろうが、実際の現場を見られると妙な気恥ずかしさがあった。しかも何というか……本人に聞かれたくない類の脅し文句だった気がする。カナンは口の中でもごもごと言い訳しながら、耳朶を赤くした。
どうせ全部お見通しである。エウラリカは面白がるように目を細めつつ、首を傾げてとぼけてみせた。
「あら、どうしたの、そんなに驚いた顔をして」
「いきなり顔を出すのはやめてくださいってば。もう、心臓に悪いな……」
「あはは」
エウラリカが声を上げて笑う。カナンは目を怒らせてエウラリカを睨みつけた。
その様子を、ネティヤが静かな目で眺めている。
「……君たちの間に特別な絆があるというのは、本当のようだな」
彼女の唇から零れた言葉に、カナンは曖昧な微笑だけでゆらりと振り返った。エウラリカはネティヤをちらりとも見なかったが、その唇は確かに弧を描いた。
(特別な、絆?)
――そのような耳触りの良い響きで表されるようなものなど何一つとしてない。カナンはエウラリカを一瞥した。彼女はカナンを真っ直ぐに見上げていた。馬鹿馬鹿しい、と一笑に付すような笑みと、やり場のないやるせなさの滲んだ目をしていた。カナンは息を漏らして微笑み返した。
ここにあるのは、絶対的な力関係、そして薄暗い罪の共有だけである。そのことを、ここにいる二人は、よく理解している。
それでも、一瞬だけ交わした視線には、他の人間との間にはない、一種特殊な紐帯があるように思えた。……たとえそれがカナンの思い上がりだとしても。




