何度世界を繰り返しても
夢に見るのはいつも同じ光景だ。
「ニアグ。私、ずっと待ってるから」
「ありがとう。必ず生きて帰るよ」
「うん」
あの日、彼女と交わした約束。白い可憐な花で満ちた花畑で結んだ。果たされぬ、約束。
暗転
「どうして…どうしてぇ!!」
俺に目の前にあるのは目を閉じた彼女。両手を胸の前で組み、けれどその胸はわずかにも動いていない。そして俺は知っていた。取り繕われた彼女の腹は、本当は醜く裂かれていることを。俺は知っていた。彼女が死ぬ時、その顔は苦痛で歪んでいたことを。
「私たちはお前を恨むことはない」
語る彼女の両親。その言葉に反して口ぶりには深い悲しみと憎しみがあった。
彼らは声無き声で語っていた。俺がいれば守れたのにと。俺がいれば彼女を助けることができたのにと。俺がいなかったから…。
彼女は死んだのだと。
だからこそ…。
暗転
「待て!いくなニアグ!」
「すみません」
「お前がいなくなれば我々は…」
軍に入った頃からお世話になっている隊長が叫ぶように言う。ここは戦場。彼女を殺した敵が近くにいる。
復讐を果たすチャンスだ。そして俺にはその復讐を果たす力がある。
「我々を、殺す気なのか」
「…」
その言葉に、俺は答えなかった。黙ったまま戦場に飛び出す。そして…。
暗転
「はぁ、はぁ」
返り血で濡れた俺が見たのは壊滅した部隊。世話になった隊長も、一緒に酒を酌み交わした同僚も、愚痴をこぼせた上司も教え子のような部下も。
皆死んでいた。
遠くから聞こえる歓声。俺たちの勝利だ。英雄ニアグが敵軍を討った。これで戦争は終わりだ。
高らかに聞こえるラッパの音。軍歌。悲鳴のような歓声。沸き立つ気配。その中で俺は一人立ちつくす。そうしていつも思うのだ。
「あぁ、俺は間違えた」
暗転―――
*** ***
*** ***
「…。ニアグさん」
「うぅ…」
かすれた女の声と一緒に体を揺すられる。俺はゆっくりと目を覚ました。
「うなされていたようですが、その…いつもの?」
「あぁ。悪い夢を見たんだ」
俺を起こしたのは顔に大きな傷のある黒髪の女。目に澱みを宿し、荒んだ雰囲気を持つ、メイド服の下が空っぽなのかと勘違いするほど痩せこけたメイドだ。
「起こしてくれてありがとう」
「いえ、そう言っていただけたのなら、私としても光栄です」
メイドは典雅な動きで頭を下げる。彼女を雇ったのは3年前。あの戦争が終わり、祖国へ帰って来てからすぐのことだ。
英雄となってしまった俺に褒美を取らせようという王。ただ町の片隅にあるボロ屋が欲しいと言った俺に、王はこの家を与えてくれた。王都の片隅の、部屋数も少ない平屋建ての家だ。
それでも家は小奇麗で、一人で暮らすには大変そうだったからメイドを雇った。できるだけ大人しい、年老いたメイドが欲しいと頼んだら来たのがメリィだった。
『初めまして。今日からここに勤めさせていただくことになりました、メリィと申します』
『…俺は老婆のメイドを頼んだんだけど』
『申し訳ありません。ただいまその年齢のメイドは皆出払っておりまして。3か月ほどで空きが出るようなので、私はそれまでの代理です』
『なら、いいけど』
『はい。それに私も老婆のようなものですし』
時々おかしなことを言うメイドだったが結局、俺はメイドを雇い直すことはなかった。俺が大人しい人をと頼んだのは静かに生きていたかったから。老婆を雇いたかったのは女の匂いをかぎたくなかったからだ。
その点メリィは女らしさを感じさせず、俺にあれこれ言ってくることもない。その割に細かいところまで気が回る。
まさしく理想のメイドだった。
綺麗に洗濯されたシャツに袖を通しながら、メリィが何者なのかを考える。あくまで主人とメイドの関係だから、俺はメリィに彼女自身のことを尋ねたことがなかった。齢がいくつかとか、ここに来る前は何をしていたのだとか。謎は尽きない。
(齢は20代前半くらいだろうか。でもその割には妙に老成しているし…それに少なくとも武術もズブの素人というわけもないだろう。動きを見れば分かる。ただ…)
いや、深く考える必要はないだろう。俺にとってメリィは家のことを安心して任せられるメイドだ。必要になれば聞けばいいのだし。それだけでいいじゃないか。
ベルトまでつけ終えて、俺は居間に向かう。そこにはメリィが用意した朝食があった。茶色いパンと野菜のわずかに入ったスープ。そしてコーヒー。俺がメリィに頼んで作ってもらたメニューだ。
「ありがとう」
「いえ」
一言メリィにお礼を言って朝食を口に運ぶ。戦争が終わってめっきり食が細くなってしまった。黙々と食事を口に運び、皿の中身を空っぽにするとキンコーンと玄関のベルが鳴った。
流れるような動きで玄関に向かおうとしたメリィを、俺は手で制する。
「俺が出るよ。メリィは片づけをしていて」
「…かしこまりました」
メリィが朝食の片づけを始めたのを横目に、俺は玄関に行って扉を開ける。
「久しぶりだな」
「お義父様」
扉向こうにいたのは彼女の父。俺の義父に当たる人物だった。
*
「ものさびしい家だな」
「俺にはこれで十分です」
義父は家の客間をグルリと見渡して言った。最低限の調度に飾る品もないのだから、ものさびしくも見えるのだろう。入れた調度も暗い色彩のものが多いのも、その印象を際立たせるのかもしれない。
「どうぞ」
「ああ」
客間のテーブルに向かい合って座る俺たちに、メリィがコーヒーを出した。メリィの気配は薄すぎず、強すぎず。メイドとして存在感を示しつつも、過度な存在感を示すことはない。
義父はメリィの顔を見て、顔をしかめた。
「醜いメイドだな」
「俺にとっては優秀なメイドですよ」
メリィが聞いているにも関わらず、義父はそんなことを言ってみせる。こんなことを言う人だっただろうか。夢に見る光景以外の過去は、俺には全て色褪せて見える。義父に会うのも久しぶりで、どんな人だったかも曖昧だ。
ただ当のメリィは義父の言葉に堪えた様子もなく、いつものように茫洋と気配を漂わせつつ部屋の隅に立った。
「このような醜いメイドを雇わずとも、もっと美しく若いメイドを雇えるだろうに。君は国の英雄なんだから」
違う。思わず口をついて出そうになる言葉を押し殺した。俺は英雄なんかじゃない。ただの間違えた復讐者だ。
「そんなことはありませんよ。あの時は、そうですね。運が良かっただけです。運が良かったから偶然敵将を見つけることができて、討つことができました」
嘘だ。偶然などではない。敵将の場所が分かったのは捕まえた敵から非人道的な魔法で情報を抜き取ったからだ。彼女が死んでから俺は拷問用や外法の魔法をいくつも習得した。
「ははっ。英雄は皆そういうのだよ。たまたま、偶然だとね…ところでニアグくん」
カラカラと笑う義父から嫌なものを感じる。薄汚い、欲の臭い。義父の目が汚らしい光を帯び、腹の下ではでっぷりと肥えた獣が舌なめずりしているかのようだった。
「何でしょう」
「私にはあの子の他にももう一人娘がいてね。姉妹仲が良かったから、あの子が死んでからずっとふさぎ込んでいる。…そして君もそうなんだろう?娘のことが忘れられないから、こうして王都の外れに暮らしているんだろう?」
獲物を罠へ誘い込むような厭らしい話し方だ。俺はしかめそうになるのを必死に抑える。
「何が、言いたいんでしょうか」
「いやなに、あの子がいなくなってもうしばらく経つ。心の傷も癒えた頃だろう。どうだね?私の娘と再婚して、英雄として国政に携わる気は…」
ドゴン、と激しい音がした。目の前にいる義父が呆然としている。一体何が…。
「いきなり何を…」
義父は俺に向かって言っていた。意味が分からない。手に熱した火掻き棒を当てたような痛みが走る。見れば俺の手が、テーブルを叩き割っていた。
ガシャンとテーブルの上に乗っていたコーヒーカップが割れる。砕けたテーブルの上に黒いコーヒーが覆いかぶさり、俺の手からこぼれた血がポタポタと滴り落ちる。
こげ茶と黒と赤の入り混じった汚らしい色に目線を向けて、俺の口は自然と動いた。
「帰ってください」
「何を」
「早く」
とにかく今は義父の顔を見たくなかった。不穏な空気を漂わせる俺に恐れをなしたように、義父は椅子から立ち上がった。
「お帰りはこちらです」
すかさずメリィが客間の扉を開けて出口の方まで案内する。義父は俺とメリィの顔を交互に見、恐怖を浮かべて帰っていった。
*
「お怪我が」
「大丈夫だよ」
俺の手からこぼれる血を見て、一言。メリィが来るのを見て俺は首を振る。
「このくらい。かすり傷だ。すぐに治る」
「ですが」
「ほら」
俺はメリィに手を出して見せる。テーブルを割った反動で切れた手の傷は、すでに塞がり始めていた。血は止まり、かさぶたになり始めている。
「魔法、ですか?」
「そんなところかな」
魔族じみた治癒能力を手に入れる外法の一つだ。魂を消耗することを対価に手に入れたもの。
制御できず、どんなかすり傷でも魂を消費してしまうために禁忌とされていた魔法だが、俺はそれを魂を喰らう魔法と併用することで克服していた。
怖がられるかな。俺は思った。だってそうだろう。こんな治癒能力、どう考えても人間のそれじゃない。疎まれ、恐れられて当然だ。
しかしメリィは恐れるどころか、何の感情も映さない目で俺を見ていた。
「…ニアグさん。どうして貴方はそこまでしたのですか?」
「え?」
メリィは壊れたテーブルのそばに歩み寄る。壊れたテーブルの残骸に手を触れた。
「異常治癒。魂の捕食。記憶の読み取り。他にも色々。人の身である貴方がそれほどの数の禁忌の魔法を身につけることは並大抵のことではなかったでしょう。なぜそこまで魔法を集めたのですか?」
「なんでそのことを…」
メリィには俺の外法のことは教えていないはず。メリィはおろか、親しかった者の誰にも教えていないのだ。メリィは知っているはずのないことを知っている。
殺さないといけないのか?俺が収集した外法の数々は王国では習得することを禁止されている。このことが国に知られれば俺は殺される。
…どうしてメリィを殺す必要がある?今の俺に生きる価値などあるのだろうか。国に密告されて死ぬなら、それでも構わないのではないか?
「なぜです?」
再度、メリィが問いかける。その目は黒々としたものに満ちており、底はおろか、表層すら見通すことができない。
「…どうしても果たしたい願いがあったからだ」
「願い、ですか」
漆黒の瞳が揺らいだ。メリィはわずかに首を傾げる。
「殺したい奴がいた。憎くて、憎くてしょうがない奴が。だから俺は力を手に入れて、復讐をしたんだ」
「その結果、貴方は満足したのですか?」
「するはずがないさ。今も昔も、後悔ばかりだよ」
ガクリと俺は肩を落とした。本当、今も昔も後悔ばかりだ。俺は選択肢を間違え続け、今を過ごしている。
「なら、もし過去をやり直せるとしたら、貴方はどうしますか?」
後悔の渦に呑まれそうになっていた俺に、メリィはスルリと忍びこむように語りかけた。俺は顔を上げる。
「それはどういう…」
「やり直す。貴方は今の記憶と力を持ったまま過去へ飛び、そして過去を変えるためにやり直すんです」
メリィは傷一つないテーブルを優しく撫でた。テーブルの上には湯気を立てるコーヒーが置いてある。
「馬鹿な…」
テーブルは壊れ、コーヒーはこぼれたはずだ。なのにテーブルには傷1つなく、コーヒーは注がれた状態のまま。
まるで時を巻き戻したかのような光景がそこにはあった。
「ニアグさん。貴方はどうしますか?」
「君は…いやあなたは一体何者なんだ」
メリィに投げかける初めての質問。俺の答えはすでに決まっていた。メリィは大きな傷のある顔に微笑みを浮かべて言った。
「私は『嫉妬』に狂い、醜い罪を背負った一人の女。ただの魔王です」
「ま、おう」
罪の魔王。その言葉が頭をよぎり、俺の意識は遠い過去へと遡った。
*** ***
*** ***
ドロドロ、ドロドロと俺の中から何かがこぼれていく。これはきっと時間。世界を遡り、俺の中から時間が消えていく。
しかし俺の記憶も、外法も消えない。目は何も映さない。けれど世界はただ灰色。空と同じ灰色だ。
「貴方はこれから過去に行く。ですが覚えていてください」
どこからともなく聞こえるメリィの声。何を、という問いは言わずとも届く。
「世界はあらゆることを許します。ですが一つだけ許さないものがある」
それは?
「何度時間を巻き戻そうと、あ…がさだ…た…わ…は決して…ない」
何だ。メリィは今何と言った。問い返そうにもメリィは遠い。
俺はまばゆい光に包まれて目を覚ました。
暗転
*** ***
*** ***
「…ニアグ?どうしたのニアグ」
「俺は…」
目を開ける。その先には生まれた時から変わらない灰色の空。頭には暖かな温もりがある。
「あぁ」
「ちょ、どうしたの?なんで泣いてるの!?えぇ!」
目線を上に向ければ、そこにいたのは柔らかく微笑むあの子の姿があった。
*
しばらく泣いた。そんな俺を彼女は困り顔ではあったが、泣き止むまで抱きしめ続けてくれた。
「もう。いくら明日から戦争に行くからって怖がりすぎだよ。ニアグは強いんだから、そんなに心配しなくても大丈夫」
彼女の心配は的外れで、しかしその俺を心配する心が嬉しかった。ようやく泣き止んだ俺は、今を理解しようとする。
(つまり俺は本当に時間を遡った?ならこれは過去ではなく、今でなら俺はこの子を助けられる?)
今は俺が戦争に行く前日。この後、俺とこの子は約束をして離れ離れになったのだ。
決して果たされぬ約束を。
ならば俺のやるべきことは。
「ねぇ」
俺は意を決して彼女に話しかける。
「なぁに?」
「俺と一緒に、戦場まで来てくれないか?」
俺と一緒にいれば彼女は死なない。そう信じて俺は手を彼女へ差し出した。
*
「初めまして。今日からここに赴任したニアグと申します」
「おう!俺がこの部隊の隊長だ!お前さんのことはよく知ってるぞ!」
よく知る、初めて会った隊長は、俺の肩をバンバンと叩く。そして俺を見てニッと笑った。
俺はこの人好きのする隊長のことが大好きだった。人として尊敬していた。俺はこんな人を見殺しにして復讐に走ったのか。
「俺のことを知ってるって…どういうことです?」
さっきの言葉は一回目では言われなかった言葉だ。不思議に思って俺は問いかける。
「あぁ、お前さんは自分の嫁をこっちまで連れてきたんだろ?大層な愛妻家だって評判なんだよ」
「そういうことですか」
俺の手を彼女はためらいを見せた後に取ってくれた。不安定な俺を心配してくれたのかもしれない。彼女は心配性だから。
「大事な人をいつでも守れるように、近くにいてほしい。それって変なことですかね」
「お前さん…」
俺の言葉に隊長は呆気にとられたようだ。だがまたすぐに気を取り直して顔に笑みを浮かべる。
「中々いい事言うな!気に入ったぞ!」
「はは。ありがとうございます」
俺よりも倍は生きているだろう隊長は、俺の頭をぐりぐりと乱暴に撫で回した。
その仕草は一回目の時もよくされたことで、父が早逝した俺は、嫌がりながらもそうされることが嬉しかった。
痛みと懐かしさで、少しだけ涙が出た。
*
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
その日から、俺は毎日彼女に見送られて戦場に行った。俺はいわゆる魔法戦士というもので、魔法も近接戦闘もできる戦闘のスペシャリストだった。俺の生家もその家系なのだが、元は魔法使いの家系だったらしく、俺が身につけた外法の数々も、家の禁書庫から見つけたものだ。
隣国との戦争は長年続いており、一進一退の攻防が繰り広げられている。人が作り上げた王国がニアグ達の国で、魔族が人間を支配しているのが隣国だ。
戦争は気分のいいものではない。脅されて無理矢理戦わされている相手を殺し、怨嗟と悲嘆の声をその度浴びることになる。それに耐えきれずに心を病んでしまった同僚もたくさんいる。
その中で彼女の「いってらっしゃい」ほど心温まるものはない。どんなに苦しい戦いでも、その一言さえあれば、俺は生きていける。
「いってらっしゃい」
戦地に赴いて一月。俺は今日も彼女の言葉をもらって戦地へ行った。
…行かなければ、良かった。
戦地で敵兵と戦うことしばらく、耳をつんざくような轟音が戦場に響いた。俺は思わず音のした方を振り返る。
「…嘘だ」
「待てニグル!」
そう呟いた時にはもう走り出していた。
燃えている。俺たちの営舎が燃えている。これは夢だ。悪い夢だ。だって。
「あそこには…」
彼女がいる。夢だ。夢だ。これは悪い夢だ。…あぁ。
夢じゃなかった。
俺の目の前には首を斬り落とされて殺された彼女。その顔は苦痛で歪み、首から下は衣服を身につけていなかった。
「グヒヒヒヒ。人の肉は美味いナ」
声のした方を向く。そこにいるのは醜い姿をした魔族だ。ぶくぶくに肥え太った黄土色の魔族。汚らしい笑みを浮かべて魔族は彼女を足蹴にする。
「だが死んでしまえばただの腐肉。汚らわしイ」
汚らわしいのはお前だ。俺の中から人としてはありえない量の呪詛がこぼれ出てくる。
「またか…」
「んォ?」
魔族は脂肪のつき過ぎでろくに見えない首を動かして俺を見る。俺はその魔族に向かって呪詛を集約した。
「なんだキサマ」
「またお前かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
その魔族は一回目の時も彼女を殺していた。憎しみが膨れ上がる。呪詛が放たれる。灰色の空に黄色の体液が舞った。
*
どうして。どうしてこうなった。どうしてまた彼女が死んでしまわなければならなかった。
「また俺は間違えたのか…」
一面に広がる荒野。俺の放った呪詛は戦場を飲みこみ、そこにいた生命という生命を滅ぼした。立っているのは俺一人。彼女の亡骸は呪詛に呑まれて死体すら残らなかった。
「く、うぅ、うぁぁぁぁぁ!あぁぁぁぁぁぁっ」
俺は灰色の空の下、黒ずんだ大地の上で泣いた。俺の瞳から透明な雫が一粒落ちる。けれどその透き通った涙は黒ずんだ大地に吸いこまれて消えた。
「また、やり直しますか?」
泣き崩れる俺に、頭の上から声がかかった。
「…メリィ」
「はい」
涙でぐしゃぐしゃの顔を見上げれば、そこにいたのは闇を体現したかのような女。
「罪の魔王…」
「はい」
メリィはコクリと頷く。罪の魔王。世界に破滅をもたらし、空を灰色で覆い尽くしたという伝説の存在。
俺も禁書庫に入らなければ、その存在を知ることはなかっただろう。そのくらい古く、力を持った存在だ。
「定められた結果は覆る。しかし定められた終わりは覆りません。それでもやり直しますか?」
「やり直す。そして俺は必ず彼女を救ってみせる」
メリィの顔がわずかに曇った。灰色の空が渦巻く。体が引っ張られるような感覚。メリィの姿が遠のいていく。
定められた終わりは覆らない。その意味を、俺は掴みかけていた。
暗転
*** ***
*** ***
「…ニアグ?どうしたのニアグ」
再び目を開ける。俺の目に彼女の顔が映る。
「あぁ…」
また戻ってきた。
*
「彼女を守りたいんです。だから宿舎付きにしてください。お願いします」
俺は隊長に向かって深々と頭を下げた。今彼の顔は見えないが、きっと困った顔をしているだろう。俺は魔法戦士として高い実力を持っている。戦場で敵を殺させるために俺は呼ばれたのだ。
間違っても非戦闘員の護衛をさせるためではない。
「お前さん…そこまで彼女のことが大事なのかい?」
「大事です」
俺の答えに嘘もためらいもなかった。隊長はぐぐっとうめき声を上げて、額をトントンと指で叩く。
一回目の時は彼女を故郷へ置いてきてしまったがために殺された。二回目の時は彼女を宿舎に置いてきてしまったから殺された。
二回とも彼女と離れたのがいけなかった。なら俺が離れなければ彼女は殺されないはず。
「分かった。ならニアグ。お前は宿舎付きだ。その代わりきちんと彼女を守れよ」
「…ありがとう、ございます」
これで彼女が守れる。俺は喜びで涙がこぼれそうだった。
それからまたしばしの平穏が戻ってきた。治癒の魔法が使えたのが良かったのだろう。戦地に出ていかない俺のことを臆病者と罵る奴もいたが、それ以上に治癒を施されて喜ぶ人の方が多かった。
「やるねニアグ」
「はは」
彼女は俺の助手だ。俺の活躍を間近で見ていた彼女は笑みを含ませた声で俺の手を握る。彼女がここにいる。それだけで俺は幸せだった。
俺は幸せで、だからこそ、油断…していた。
彼女が死んだ。殺されていた。少し目を離した隙にあいつに殺された。またあいつだ醜い体をしたあいつにころされた。なんでなんでだ、なんでかのじょがなんどもころされなければならないどうして…
「どうして」
俺の目が映しているのは衣服を剥かれ、苦悶の表情を浮かべて絶命した彼女。一月。そう一月だ。二回目の時あいつが襲撃してきたのは一月経ってからだったはないか。なぜ油断した。どうして目を離した。俺が目を離したのはほんの数時間。些細な用事で宿舎から離れていただけ。なのになぜ。
まるで二回目の焼き直しだ。違うのは彼女の首が斬り落とされていないことくらい。
「死ね…」
呪詛をまき散らす。魔族が消える。彼女の亡骸も消える。黒ずんだ大地の上、灰色の空に包まれた閉塞した世界の中で、俺は一人たたずむ。
「またやり直しますか?」
「…やり直す」
「はい」
メリィの言葉に俺は頷く。次はもっと上手くやる。今度は彼女から目を離さない。そんな誓いを胸に秘めて、俺は時を遡った。
暗転
*** ***
*** ***
「…ニアグ?どうしたのニアグ」
*
「ニアグ最近私のそばから離れないね」
「そうかな」
三回目のやり直し、四回目の世界。俺はまた宿舎付きとなり、彼女から離れないようにした。風呂やトイレにいくわずかな時間は外法を使ってでも彼女を監視し、常にそばを離れない。
三回。三回だ。俺は三回も彼女から目を離したがために殺してしまった。今度はもう目を離さない。
そうすれば…
*
なんで?
彼女は死んだ。俺は大地の上に倒れていた。不意打ちを食らった。魔族の襲撃だ。それがあることは知っていた。警戒だってしていた。なのになぜ。
彼女の苦しみの声が聞こえる。泣き叫び、やめてほしいという声が聞こえる。そして…
もう嫌だ。どうして彼女が何度もこんな目に合わないといけない。どうして何度も彼女がころされないといけない。どうして、なんで…どうしてどうしてどうして。
「また、やり直しますか?」
黒と灰色に挟まれた先のない世界で、罪の魔王が問いかける。答えなんて、とうの昔に決まっていた。
「やり直す」
「はい」
暗転 暗転 暗転
*** ***
*** ***
…戦場に行くのが間違いだったんだ。
「え?逃げる?」
「そう。戦場に行ったらダメなんだ。後悔する。だから」
彼女は困惑を浮かべている。そして頭痛でもするのか、時折頭を押さえている。
「いいよ」
断られるかと思った。だが彼女は俺の手を取ってくれた。
「これでも駄目なのか?」
彼女が死んだ。徴兵から逃げた俺には追手がかかり、逃亡生活が始まった。それでも良かった。彼女がいてくれるなら、彼女が生きてくれるなら、俺はどんなに辛く、苦しい生活でも良かったのに。
ほんの小さなためらいが、彼女を殺した。
「あぁ…」
俺に笑いかけてきてくれた隊長たちが死んでいる。俺が殺した。追手は隊長たちだった。だから俺はためらった。隊長たちが彼女を殺した。だから殺した。
「やり直しますか?」
「やり直す」
暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転
*** ***
*** ***
最初に彼女を殺したのは魔族だった。なら俺から魔族を攻撃して、滅ぼせばいいじゃないか。
*
俺のいないうちに、彼女は隊長たちに殺された。徴兵から逃げた俺への罰だった。
暗転
*** ***
*** ***
ならば彼女と二人で魔族を殺しに行こう。
…彼女は他愛もないことで死んだ。
暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転
*** ***
*** ***
「お願い。もうやめて」
彼女が死んだ。
暗転
*** ***
*** ***
「まだ、続けるのですね」
「彼女が救えるまで、何度でも」
死んだ。
暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転
*** ***
*** ***
やり方が間違っていたのだろうか。戦場に行けば魔族に殺される。魔族を殺しに行けば隊長たちに殺される。隊長を殺しに行けば国に殺される。
どうあがいても、どの選択をしても彼女は殺される。
「どうして?」
暗転
「もういいよ」
暗転
「なんで彼女を救えない?」
暗転 暗転
「もう、いいから」
暗転 暗転 暗転
「何か、何か方法はあるはずだ」
暗転 暗転
「お願い。もう苦しまないで」
暗転 暗転 暗転 暗転
「この袋小路の世界にも一縷の望みが」
暗転 暗転 暗転 暗転 暗転
「私は、あなたが生きていてくれればそれでいいから!」
暗転
彼女が死んだ。
…暗転
「やり直しますか?」
「あぁ」
暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転 暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転暗転あんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてんあんてん―――
*** ***
*** ***
灰色の空に、冷え切った温もり。始まりの白い花畑に、終わりの定められた世界。
自ら命を絶った彼女を、俺は胸に抱いていた。
温もりはすでに失せ、はるか昔に結んだ約束は果たされない。
必ず生きて帰ってくるという俺の約束は果たされても、ずっと待ってるという彼女の約束は果たされない。何度約束を結んでも、彼女は殺されて約束が果たされることはない。
ただ二人で過ごしたい。そんな些細な幸福さえも、果たされることはない。
「どうして」
何度目の問いだろう。何回目の世界だろう。俺の心は軋み、欠け落ち、まともに物を考えることもできない。
「やり直しますか?」
メリィが問う。罪の魔王が問う。そんなもの、決まっている。
「俺は…」
その先は続かなかった。冷えた彼女が止めた気がした。ゆっくりと視線を下に落とす。ずっと、何度も。何度も、何度も何度もなんども。苦しみの表情を浮かべて殺されていた彼女は、今は安らぎの表情を浮かべて死んでいた。
「どうして」
「私にも分かりません。でも一つだけ分かることがあります」
「なんだよ」
「あなたが彼女との約束を果たそうとしたように、彼女もまた貴方との約束を果たそうとしたことです」
「なんだよそれ」
「貴方に、生きてほしかったのですよ」
俺の心はもう死にかけている。壊れかけている。俺は彼女に生きてほしい。けれど彼女も俺に生きてほしいというのか。
「定められた終わりは覆りません。何度時間を巻き戻そうと、何度世界を繰り返しても、貴方が『そこ』を終わりとしてしまった以上、死んだ人間は必ず死ぬんです。やり直しなんて、できません」
「始めから、知っていたのか?」
「はい」
「どうして」
「私は知りたいんです」
「何を」
「人の心を」
「俺は」
「どうしますか?」
俺は―――
暗転
*** ***
*** ***
*** ***
*** ***
「終わりを受け入れることで、ようやく貴方は幸せになることができたんですね」
始まりの花畑。シロツメクサの咲く花畑で二人は抱きしめ合って息を止めていました。彼らを見つめて私は呟きます。
「貴方の行為はきっと愚かなものなのでしょう。ニアグさん。貴方は分かっていた。何度やり直しをしても彼女が生き返らないことを知っていました。それを分かって、しかし目を逸らしてやり直す。あまりに愚かで、無為なことです。しかし」
死んだ妻を生き返らせたい。その願いはとても純粋で、愚かです。ですがその愚かさがこそ私には美しく見えました。人の心を忘れてしまった私にとって、彼の行為は目が焼けるほどに美しい。
「私は知りたいのです。誰かを想う心を。焼け焦げるほどの願いを抱く理由を。唯一を愛する心を」
私は長い時を歩み、過ちを犯したことで「心」が分からなくなりました。だから知りたい。人の願いを通して、私は「心」を知りたいのです。
やり直せないと知って、それでも私は…。
「メリィ。ようやく帰ってきたですか?」
私に声をかける者が一人。長い時間を共に歩んだ、私の従者です。
「あぁ、マリィ…はい。ですがまたすぐに出ます」
「どこへ?」
たった一人の従者に、私は言いました。
「さぁ?それはまだ分かりません。まずは噂をまくことから始めましょう」
「手伝います」
「ありがとうございます」
「ところでどんな噂を?」
「そうですね。例えば…」
どんな願いも叶える『悪魔様』、なんてものはどうでしょうか。ニアグさんは愛する人の命を救おうとして、何度も世界を繰り返しました。
彼に見合うほどの願いを持つものがいるかは分かりませんが、人を知り、人の願いを知れば、私もまた、私の願いが、私の「心」が分かるのかもしれません。
「おやすみなさい。ニアグさん。どうか、永遠に続く幸福な夢を」
ほんの一時共に暮らした男の頭を撫でて、私はふっとその姿を消したのでした。
何度世界を繰り返しても 終わり
ここまで読んでいただきありがとうございました。一応と申しますか、このお話はシロツメクサの花言葉から連想して書きました。興味がある方は調べてみてください(書いている途中で内容が変わってきたので、必ずしも合致するわけではありませんが)。
なお今更な話ではありますが、このお話は続きもの(?)です。作中に登場してきたメリィが何者か興味のあられる方は『雪の雫を貴方にあげる』(https://ncode.syosetu.com/n2516eq/)をご覧ください。そこからシリーズに飛んでいただくと、なお嬉しいです。
感想、評価、ブクマなどお待ちしております。目から溢れるほどの涙を流して喜びます。