02
「私の実家は我国誕生時から続く名家でした」
クゥルドは沼の縁に座り、昔話を始めた。紅螢は縁に肘をつきクゥルドを見上げる。
「西に広がる一帯を取りまとめ、我国でも五本の指に入るほどの名家に、私は次男として生れました。両親や兄弟とも特に気にするような軋轢もなく、器用さを活かして跡取りのプレッシャーもなくのらりくらりと過ごしていました」
『貴族だったのか。だから服装が立派だったのだな』
「父が早逝し、兄が跡を継いで私は兄の部下として働いていました。ある日、王都の夜会に兄と私、そして母を連れて赴きました。
──目が見えなくなったのはその時です」
クゥルドは目を覆った包帯に震える手で触れる。
紅螢は思わずクゥルドの空いた手を握りしめると、クゥルドは大丈夫と言うように包帯を触れていた手を優しく重ねる。
「道中で馬車を賊に襲われたのです。手練が多く、護衛の抵抗も虚しく金品をほとんど盗まれました。そして運悪く…いや運良く私だけへの被害で済みました。…代償は大きかったですがね」
クゥルドは賊に襲われた際に目を傷つけられ、一生光を感じられなくなった。
世間はクゥルドを哀れみ、家族は甲斐甲斐しく世話を焼いたが、そんな日々は長くは続かなかった。
盲目のせいで書類仕事はできない、力仕事も役に立たない、移動や食事ですら人の助けがいるクゥルドを次第に家族は疎ましく思っていった。
世間もお貴族様は働かずとも生きていけるとはいいご身分だと後ろ指を指すようになった。
クゥルドが自分の意思で人目を避け西の果ての沼まで来た理由は容易に想像できた。
いくら名家だろうとタダ飯食らいで介助が不可欠な男を快く世話することは難しい。
幼い頃から他人の機微に聡いクゥルドは、世間と家族からの負の感情を向けられることに耐えられず、最低限の荷物を持ち西の果てへと流れ着いた。
「見えなくなった当初は荒れましたけど、死ななかっただけマシだと前向きだったのです…でも、家族や世間からの視線にはさすがに耐えられませんでした」
そちらの方がつらかったらですね…と悲しそうに笑う。
「人目を避け街を転々とし、俗世から離れこの西の沼で生涯静かに暮らそうと思っていました。……まさかこんな楽しい日々が送れるとは思っていませんでしたがね」
魚介類が食べられないこともびっくりしました、と肩を竦める。
穏やかに風が吹き、草花を優しく撫でる。輝く太陽は真上を通り、地平線に近付き始めた。
「さて、私の話はこれでおしまいです。家族には代筆を頼んで置き手紙をしてきたので大丈夫だと思います。…でもやはり寂しかったですね、一人での生活は」
草花が生える地面に背中から倒れ込み、クゥルドは晴れた空を見上げる。
「私は幸運な男なのです。裕福な家に生まれ、命の危機は目だけで済み、終の住処では孤独を感じず毎日が楽しい」
『私も、千年で今が一番楽しい』
「主様のお陰です」
『クゥルドのお陰だ』
紅螢はクゥルドの隣に寝転がり、優しく頬を撫でる。クゥルドは少し驚きながらも受け入れ、逆に手に擦り寄り、紅螢を真っ赤にさせた。
恥ずかしさに退避しようとする紅螢の手をクゥルドは掴まえ、引き寄せる。
『あっ、く、クゥルド…ッ』
「主様…もっと私の傍に…目の見えない私が、声の聞けない主様を感じるのは物音や感覚だけなのです。どうか触れさせてください」
クゥルドの骨張った手が徐々に肩の方へ滑り出し、もう一方の右手は宙をさまよう。
「主様…お顔を、どうか」
『クゥルド…私は…』
「我慢の限界なのです。いつもそよ風のように主様に柔らかく浅く触れられ、焦らされているのかと理性が揺らいでいました」
クゥルドのさまよう右手が紅螢の顎に触れる。
身体を離そうにも左手に掴まれ、顎に触れた右手は素早く首裏に回り頭を固定させられ動けない。
『あ、な、なんなのだこの早技は…ッ待て…!これ以上引き寄せるな!』
「火照っていらっしゃいますね。ああ、薄く汗も…主様…私にお情けを…」
『あ、う、クゥル──ンッ』
クゥルドの薄い唇が紅螢のそれと重なる。
軽く啄む口づけが徐々に深くなり、いつの間にかクゥルドは紅螢に覆いかぶさり、紅螢はクゥルドを見上げる。
息も絶え絶えになった紅螢に余裕のないような声でクゥルドは願う。
『も、無理だ…ううう…クゥルドぉ…ッ』
「主様…」
『こわい…クゥルド…なに、なに…』
「抱きしめてください。貴女の全ての腕で」
快感なのか恐怖なのか分からない紅螢は意識朦朧とするなか、四本の腕でクゥルドに強く抱きつき泣き縋る。
『クゥルド、クゥルド…ッ』
「主様…主様…ッ主様がどのようなお姿であろうと私は…」
『うっ、ううっ…』
「泣かないでください主様…少々刺激が強すぎましたかね」
『クゥルドのばか…ばか…』
「主様から抱きしめられる幸運を噛み締めているので申し訳ありませんが今しばらく…」
風がそよぎ、空を翔る鳥達の鳴き声が響き渡る。
地面に茂る草花に包まれながら、二人はしばらくの間無言で互いを強く抱きしめ合った。
今まで最低限の接触で済ませていた紅螢にはレベルが高すぎたのか、落ち着くにつれて次第に意識が遠のいてゆく。
主様?と呟く声を最後に聞いて紅螢は意識を手放した。
*
気を失うほどの恥ずかしさに見舞われたあの日から数日経ち、クゥルドの紅螢に対する態度は大きく変化していた。
主な変化として、まずスキンシップが増えた。
以前は紅螢から触れない限り接触することはなかったが、今では触れない時間がある方が珍しいほどクゥルドから触れられる。
髪だったり手だったり頬だったり唇だったりとことある事に触れてくるせいで紅螢は嬉しさよりも恥ずかしさが優り、顔を真っ赤にさせ日々クゥルドの手から逃げていた。
あまりにも豪快な紅螢の逃げっぷりに少しイタズラ心が湧き起こったクゥルドは、紅螢が耐えきれず自ら触れてくるまでスキンシップを一切やめ、困惑する可愛らしい姿を楽しんでいた。
少し手加減されたスキンシップに紅螢が逃げ出さなくなった頃、突然来訪者が二人の許へ現れる。
『やっほ〜』
『レドル!?何しに来た!』
『え〜酷いなぁ…紅螢ちゃんに恋人ができたって聞いてお祝いに来たのに〜』
「主様…ッ突然抱きしめられるのは嬉しいですが一体なにが…」
『…ッ』
『ヒュ〜♪紅螢ちゃんベタ惚れ〜手なんか出さないから離してあげなよ〜彼苦しそ〜』
軽口を叩き紅螢をからかうレドルと呼ばれたものは北の主であり、白銀の体毛を持つ虎のような見た目をしていた。
虎と違い全身を隠すほどの長い体毛と共に三本の尻尾がゆらゆらと揺らぎ、身体から冷気が発生している。
「えーと、他の主様ですか?」
『そ〜だよクゥルド君。よろしく〜って聞こえないかぁ』
『何の用だレドル…ッ』
「主様、私は少し席を外しますね。お二人でゆっくりお話ください」
そう言ってクゥルドは紅螢の腕から抜け出し、小屋の方に移動する。
残された二人は沈黙し、互いに意味ありげにクゥルド見つめる。
『紅螢ちゃん』
先ほどの軽さは影を潜め、レドルは優しくしかし強い口調で紅螢に言葉をかける。
『人間と恋人ごっこなんてやめときなよ』