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蛍は水面を照らす  作者: 七月梅
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01

前作よりも短めに完結するつもりです。


 生を受けて千年の間に初めて欲しいと思ったのは、たった一人の人間の男だった。



 西の沼の(あるじ)である紅螢(べにほたる)は紅の髪と瞳を持つ人魚のような見た目をしている。

 一般的に想像される人魚とは少し異なり、腕は四本で下半身の魚体は五十mを超える長さで全身が真っ黒だった。

 まるで沼に炎が灯っているかのように紅螢は沼で静かに暮らしていた。


 この世界に国は一つしかなく、国名はない。

 国民はそんな国を我が国と呼び、次第に我国(がこく)と称した。

 我国は王族がいる王都を中心にして、東西南北にそれぞれ場を守護し世界を見守る主が存在している。

 主達の住む領域は守護領域と呼ばれ、果てのない広大な空間を有していた。



 東の谷の主、朝霧(あさぎり)


 西の沼の主、紅螢


 南の森の主、(さざなみ)


 北の氷雪原の主、レドル

 


 主達と人間は互いに不可侵であり、主が暮らす守護領域の最深部を訪れる人間はほとんどいない。


 西の守護領域は沼地であり、地平線の果てまで平地が続きところどころに沼や木々が存在している。

 水は透き通り汚れ一つない美しさにも関わらず、川の魚や海の魚、貝や海藻などが沼ごと豊富に漂っていた。


 守護領域の入口付近には魚介類を求めに人間はやって来るが、紅螢の暮らす最深部の沼にやって来る人間はいない。


 他の主達と同様に紅螢も静かに暮らしていたが、最近一人の人間が西の沼に現れてから生活が一変した。



『また来たのかクゥルド』

「こんにちは主様。今日もいい天気ですね」



 人間に主の声は聞こえないにも関わらず、明るく挨拶をする男は持っている杖で足元を探りながら歩いて来る。

 紅螢が暮らす沼地の最深部に、人間が辿り着くにはなかなか骨が折れる道のりである。

 ましてや()()()()()()人間が訪れるのは暴挙としか言いようがない。


 沼で泳いでいた紅螢は沼の縁に手をかけ、傍に座った男──クゥルドを見上げる。


 クゥルドと呼ばれた男は三十代の容貌で麻色の長い髪を一括りにまとめ、両目は包帯で隠されている。服装は立派なのにあちこち泥で汚れて台無しにしているがクゥルドは気にした様子はなく、長い木の棒を杖として持っていた。



「この前いただいた果実、美味しかったです。もしかしてカンデラの実でしょうか?酸味が程よくてついつい手が進んでしまいました」

『違う。ハゼの実だ。カンデラの実と違って種がなかっただろう』

「おや?なんでしょう主様…ああ、違うのですね。では、ヨラの実でしょうか。それともハゼの実…」

『それだ』

「ああ、ハゼの実でしたか。確かに種がありませんでした」

『全く…話が通じないのは面倒だ』

「ありがとうございます主様。ハゼの実は確か南の森でしか収穫できないのに私のために…」

『…ッ』



 バレていた。

 ハゼの実は南の森でしか採れないため紅螢がわざわざクゥルドのために収穫してきたのだった。

 クゥルドの博識ぶりを舐めていた紅螢は顔を真っ赤にさせ沼の水をクゥルドに浴びせた。



「わわっ!主様!?」

『うるさい。悪いか。私がたかが人間のために南の森に果実を採りに行くのが…ッ』



 水陸どちらの移動も問題ない紅螢はわざわざ果実が豊富に実る南の森へ赴いた。

 果実を採るため南の森に訪れた紅螢を南の森の主である漣は心底不思議そうにしていたことを思い出す。

 紅螢は元々気まぐれな女王様のような性格で、甲斐甲斐しく人間のために果実を採りに来る姿は誰も想像できないだろう。


 感情のままに水を浴びせられ、気付いた時にはクゥルドの全身はびしょ濡れになっていた。

 それでも紅螢の水かけ攻撃は止まなかった。



『お前が魚介を食べて死にかけたから私がわざわざ食べられるものを…!』

「あははははっ」

『何を笑うクゥルド!』

「主様は本当に可愛らしいですね」

『な…ッ』



 顔をさらに真っ赤にさせ、魚のようにパクパクと口を開閉させるも言葉が出てこなかった。

 生まれて千年、自分の容姿が人間にとって恐ろしいものだと紅螢は理解していたため、可愛らしいというクゥルドの言葉に思考が停止する。



「主様がこんなに可愛らしい方だったとは、魚介を食べ死にかけた甲斐がありました」



 クゥルドは朗らかに笑う。


 数ヶ月前に西の沼に現れたクゥルドは目の見えぬ身体で器用に魚や貝類を採り、器用に火をおこし調理していた。

 そして口に含んで飲み込んだ後、死にかけた。


 たまたま暇だった紅螢が盲目のクゥルドが珍しくたまたまクゥルドの様子を見守っていたため、命を繋ぐことができた。


 この出来事がきっかけで紅螢とクゥルドは主と人間という立場でよく会うようになった。


 主の言葉は人間には聞こえないため紅螢は身振り手振りで会話した。

 目が見えないのにクゥルドは器用に紅螢の言いたいことを理解し、自身の持つ知識で紅螢を大いに楽しませた。


 紅螢は千年の生涯で一番楽しい時を過ごしていた。

 なによりも盲目のクゥルドは恐ろしい見た目の紅螢を怖がらない。紅螢はそれが嬉しくて堪らなかった。

 態度では我儘娘のような紅螢だが千年の永い時を過ごしているせいか、やはり寂しさを感じる時はある。しかし、人間が自分の姿を怖がることは充分知っていた。

 だから盲目のクゥルドが怖がりもせず、むしろ好意的に接してくれることが奇跡のようで失いたくないと感じた。



「ふふふ、びしょ濡れです。この天気ならばすぐ乾きますかね」

『えっ!』



 少し失礼します、と離れようとするクゥルドの服を慌てて掴み阻止する。



「?…あの主様、服を乾かしに行くのでお手を離していただきたいのですが」

『ここで乾かせばいいじゃないか。どうして離れる?火なら私がおこすぞ』

「あの、主様、脱がせようとしないでください…おやめください…ッ」

『何故拒む。さっさと脱げ』



 人間が人前で脱ぐ恥ずかしさを紅螢は理解できていなかったのか腰紐を解き始める。

 いや、知識では理解していただろうが紅螢が水をかけたせいでクゥルドが離れ、そのまま戻ってこないのではと恐怖が頭を占めていた。


 紅螢の大胆な行動に、いつも見せていた余裕が影を潜めてクゥルドは顔を赤らめ慌てる。



「あ…ある、ああああ主様…ッもしかして私の服を乾かそうとしているのでしょうか…ッ?」

『そうだ』



 紅螢は肯定のジェスチャーで応えると、クゥルドは徐々に本来の落ち着きを取り戻していった。



「はぁ…主様のお気持ちは嬉しいですが、その、女性に肌を見せるのは男として節度を欠くかと…」

『え、』

「小屋の方に着替えがありますので少し失礼しますね」



 立ち上がりクゥルド自ら建てた小屋の方にゆっくりと歩いていくクゥルドの背中を見つめ、紅螢は先ほどの言葉を反芻していた。



 女性、か…果たして私は女なのだろうか



 紅螢の容貌は確かに女性的であり、腕の細さや仕草でクゥルドは紅螢を女性だと判断したのだろう。

 しかしクゥルドは紅螢に腕が四本あることや黒い肌で魚の下肢であることは知らない。知らせないように紅螢が接触を最低限に抑えていた成果だった。

 普通に接してほしくて異形の姿を悟らせなかったのに、今は知って受け入れてほしいと思うようになっていた。



 なんて都合の良いことを…



 着替えてこちらに歩いてくるクゥルドをじっと見つめる。

 クゥルドが紅螢の容姿を知らないように、紅螢もクゥルドの素性は知らなかった。

 短い人間の生を知りたいとすら思わなかった。


 しかし、今は知りたくてしかたなかった。



「主様?いらっしゃいますか…?」



 物音一つさせずにクゥルドを見つめる紅螢を不審に思ったのか、沼の縁に寄り、杖を持つ手とは反対の手で紅螢を探す。


 紅螢はその手に応えることはしなかった。


 四本の手で掴んでしまいそうだったから。



『…好きなのだろうか…私は、クゥルドを』

「主様?何かありましたか?もしかしてまた蜂でも出ましたか?それか蛇でしょうか?私が追い払いますよ」

『…結ばれる訳がない。守護者とただの人間だ。寿命が違う。それに、私のこの姿がクゥルドに受け入れてもらえるはずが、ない』

「主様、お願いです。お応えください。主様のお好きな花冠を作りましょうか?髪結いでも致しましょうか?」



 紅螢からの反応がないことにクゥルドは焦りを見せる。そんな姿をさせていることに罪悪感を感じつつもクゥルドの心を乱せる存在であると浅ましくも嬉しさを滲ませた。


 いつもならすぐに機嫌を直す紅螢の沈黙にクゥルドの焦りはいつもの冷静さを失うほどで、沼の縁に立つクゥルドは思わず足を進めてしまった。



「ッあ」

『!?クゥルド!』



 今思えば、浅い沼に落ちても成人男性の体躯ならば全身が濡れる程度で済むだけだったが、紅螢は四本の腕でクゥルドをしっかりと受け止めていた。


 しまった、と思ったがもう遅い。聡いクゥルドはすぐに違和感に気付き言葉をなくした。


 ゆっくり沼の縁にクゥルドを戻すがクゥルドの手が離れない。



 怖い



 腕が四本もある異形をクゥルドはどう思ったのか知るのが怖い。紅螢の手は震え、伝染するように沼の水面に波紋が広がる。


 クゥルドは杖から手を離し、両手で震える紅螢の手を包み込む。



「……主様、私は目が見えません。主様がどのような姿なのか、どのような髪色、瞳の色なのか全く分かりません。主様の声すら分からない」



 クゥルドからしたら沼の最深部で謎の女性が接触を最小限に世話を焼いてくるのだ。

 紅螢が西の沼の主だと知らなかった初めの頃は、顔には出さなかったが得体の知れない者への恐怖があった。


 今では主の優しさや愛らしさでクゥルドは恐怖よりも好意に溢れた。


 西の沼の主が人間ではないことはクゥルドは知っている。さらに異形であることも実家の古書を通じて知っていた。

 実際に主を見たら気味悪く思うかもしれない。しかし、クゥルドは盲目であった。


 クゥルドが紅螢を気味悪く思うことは一生できないし、しないだろう。



「知りたい、と思ってはいけませんか?貴女のことを」

『私は、お前に嫌われたくない』

「知って私が主様のことを嫌ったり離れて行ったりすることはありませんよ?」

『──…何故…何故クゥルドは私のほしい言葉をいつもくれるんだ…』

「…これでも自惚れているんです。私のために果実を採りに南の森へ赴いたり、私が沼に行かなかった次の日は触れる回数が多かったり、趣味で作った手芸品を毎回欲しがったり…」

『私はそんな分かりやすく…』



 紅螢は顔を真っ赤にさせ俯く。水面には恥ずかしくも嬉しそうに顔を赤らめる自分が映っていた。


 欲を出していいのだろうか、クゥルドが好きだと伝えてずっと傍にいてほしいと願っていいのだろうか。



「私は好いてます。主様、貴女を」

『私は、私も…』



 言葉が通じなくてもクゥルドからその言葉を聞けただけで紅螢は満足だった。

 四本の腕でクゥルドを抱きしめる勇気はまだ紅螢にはなく、包み込まれた手で少し握り返すのが精一杯だった。



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