「秘密を、君に・・・」 (1)
森宮さんと美術館で会ってから、気づけばひと月が過ぎようとしていた。
もちろん、あれ以来会うことはなかったけれど、私の中の森宮さんは一向に消えてくれなくて……
私は、日常のふとした一瞬に宿る彼の思い出に胸が張り裂けそうになったりしていた。
思えば、こんなに好きになった人ははじめてかもしれない。
子供の頃の幼い恋心とか、学生時代に経験した恋人との付き合いとか、
そういうものとは全然違う感覚だったのだ。
男の人に扇情的なものを感じたのもはじめてだったし、
好きになってはいけない人だと、自分の気持ちに蓋をしようとしたのもはじめてだった。
けれど、好きになってはいけないと思えば思うほど、彼のことを考える時間が増していくばかりで、それはまったくの逆効果だった。
彼のことを考える時間が増えれば、彼への気持ちが濃くなっていくのは自然の摂理だろう。
”もう会わない”
そう決めたのは私自身だったけど、
その決意を思い返す度に、自分の中に居座る森宮さんの存在を思い知らされる。
そして、まだ森宮さんのことが好きなんだなと、再確認してしまう……
新入社員研修も終盤に差し掛かり、いろいろな提出書類なんかも落ち着いてきたせいもあってか、私は、一日のうち ”諦めたはずの片想い” を思い出す割合が大きくなっていった。
でも、たぶんもう、会うことはない人。
例え仕事関係で姿を見かけたとしても、声をかけたりはしない。
あの人と私が接触するなんて、もう二度とないと思っていた。
なのに、ある夜、その彼から、一通のメールが届いたのだった。
金曜日、夜遅く。仕事用の携帯が鳴った。
登録していないアドレスからのメールに、訝しんだのは一瞬だった。
アドレス表示のところに ”t-morimiya” とあったからだ。
そのとき私は、森宮さんと最後に会った日、お互いの名刺を交換していたのを思い出した。
まだ配属先の部署も決まっていないけれど、エフ・レストの一員として自覚を持つようにと新入社員にも名刺が支給されるのだが、名刺と一緒に渡されるのが、仕事用の携帯電話だった。
そして名刺には、その仕事用の携帯の番号とアドレスが記載されていたのだ。
森宮さんが私の名刺を手掛かりにメールを送ってきたのは間違いないと思う。
でもなぜ、今頃メールなんかしてきたのだろう………
私は逸る気持ちを宥めつつ、メールを開いた。
野田さんへ
いきなりメールなんて送って、驚かせたと思う。
申し訳ない。
オレが秘密を強要したせいで、
きみの信頼を踏みにじってしまった自覚はあるけど、
今、どうしてもきみに打ち明けたいことがあるんだ。
もし、話を聞いてもらえるなら、来週の月曜、21時に、
あの屋上に来てほしい。
扉のロックは解除しておくから。
役員フロアについても心配しなくていい。
誰にも会うことはないと思うから。
きみの仕事終わりに合わせられたらよかったんだけど、
どうしても21時までは都合がつかないんだ。
こんなときまでオレの我儘で申し訳ない。
でもどうしてもきみにもう一度会いたいんだ。
それは分かってほしい。
それから、月曜、
もしかしたら騒がしいことが起こるかもしれないけど、
どうかオレを信じてほしい。
散々きみに秘密だと言っておきながら
今更信じてほしいなんて無茶な頼みだと思うけど、
どうかオレに、
もう一度だけチャンスをくれないだろうか。
月曜の夜にきみが話を聞いてくれて、
そのうえでもうオレと会いたくないと言うなら、
もうきみに連絡したりしないと約束するよ。
だからどうか、最後にあの屋上で会ってほしい。
森宮 健
そのメールを、私は何度も、何度も何度も読み返した。
読み返していると、あの日、チケットと一緒にゴミ箱に捨てたはずの気持ちがチリチリ焼けるように熱くなってきて、胸が、苦しくなった。
それでも、私は何度も読み返していた。
けれど、このメールの向こうにある森宮さんの意図が、ちっとも見当たらないのだ。
今更私に真実を告げたところで、何も変わらないだろうに……
もう会わない。
そう決めたのだから、このメールは無視すべき。
頭の中では、そう思った。
だけど……
森宮さんへ
考えさせてください。
野田 幸
悩みに悩んだ末、私は森宮さんにそう返信したのだった。
メールを打ち終えたとき、夜は、白々と明けていた。
※※※※※
今年は空梅雨になりそう、なんてニュースで言ってたくせに、最近は結構しっかりした雨が続いていた。
時々は、パッと降ってパッとはんでしまうにわか雨だったりもしたけれど、とにかく傘を手放せない毎日だった。
そんな月曜日。
森宮さんとの約束の朝を迎えた。
森宮さんが話したいことがあると言うなら、素直にそれを聞きたい思いはあった。
でも、どうしても迷ってしまうのだ。
だって、もう諦めようと蓋をしたはずの気持ちが、あのメールを読んで以降、おかしな期待を持って動き出していたから。
やっぱり、森宮さんにはなにか特別な事情があったんだよ……
でも、その ”森宮” という名前も嘘だったのに……?
まだ森宮さんに対する想いを消しきれていない私は、都合よく彼寄りの意見に傾いてしまいそうになる。
だって、今まで森宮さんが秘密にしていたものが何だったのか、それを知りたい気持ちはじゅうぶんあったから。
けれど、そんな期待して、それが叶わなかったら?
結局、また森宮さんの秘密が増えるだけだったら?
そんな疑心暗鬼はみるみる不安を呼び寄せていった。
朝、目を開いた途端からそんな不安がこぼれそうになった私は、勢いよくベッドから抜け出し、顔を洗って目を覚まさせた。
そのとき―――――
『もし叶わなかったら?』
頭の奥で、森宮さんの声が響いた。
はじめて会った夜、あの屋上で私に尋ねてきた森宮さんのセリフだ。
今から思えば、あの夜から私の心は森宮さんに捕らわれていたのだろう。
水で冷やされた顔を上げて、鏡に映った自分を見つめた。
自分でもあまり見たことがないほど、不安に揺れている私と、目が合った。
けれどその不安に支配されたくなくて、反射的に視線をずらす。
すると、まだ寝ぐせが付いている髪に目が行った。
森宮さんと出会ったあの夜より、ずいぶん伸びている。
つまり、髪が伸びた時間の分だけ、私の心は森宮さんに捕らわれたままということだ……
タオルに顔を押し当てた私は、いい加減、本当にこの気持ちを吹っ切らなくてはと思った。
そして、今日は、気持ちを吹っ切るためにも森宮さんに会うべきかもしれないと、そんなことを思いはじめていた。
出社すると、エントランスが少し賑やかだった。
うるさいというわけじゃないけど、いつもより人が多い気がしたのだ。
それも、ダーク系のスーツ姿の男の人が多いように見える。
けれど、女性社員の先輩方も用もないのにエントランスで立ち話をしていたりして、その様子はどことなくソワソワしているようだった。
私がその光景を不思議に思っていると、背後から明るい声が届いた。
「野田さん、おはよう。ボーッとして、どうしたの?寝不足?」
その聞き慣れた声に、私は振り向かなくても誰だか分かった。
「おはようございます。私、ボーッとしてました?」
歩く速度をゆるめた私に、先輩も歩幅を合わせてくれた。
この先輩は、以前、森宮さんと一緒にいるところに鉢合わせした人だったけど、そんなことがあったからか、なにかと私を心配してくれていたのだ。
もともと年上年下関係なく人懐っこいタイプだったけれど、特に私にはよく話しかけてくれていた。
「なにか考えてるようにも見えたけど、どうかしたの?」
「いえ、なんだかエントランスに人が多いかなと思いまして……」
「ああ…」
この光景の理由に心当たりがあるのか、先輩は視線だけで見回した。
「今日は役員の全体会議があるから、それでいつもと雰囲気が違うのよ」
「役員会議があるんですか?」
「違う違う。役員の全体会議。普通の会議じゃなくて、普段は出てこない創業一族も出席するのよ。それのお迎えで人が多いわけ」
「なるほど…。でも関係なさそうな女性の方も多くないですか?」
私が尋ねると、先輩は苦い顔をした。
「それはね、その創業一族の中に何人か独身の若い男がいるせいよ。なかなかのイケメンで、全体会議の日はいつも女子社員が浮き足立つの。まるでアイドルよ。ま、アイドルと呼ぶには若干歳がいってるけど」
先輩の苦々しそうな口振りに、思わず私は「先輩は浮き足立たないんですか?」と訊いていた。
すると先輩はハッと吐息だけで全否定して返してきたのだ。
「立たないわよ。あの人達が来る日は社内が浮わついて仕事がはかどらないんだもの。いい迷惑よ。それに私、イケメンて大嫌いなのよね」
「どうしてですか?」
先輩が人を見かけで判断するようには思えなかったので、私は意外に感じたまま尋ねた。
「だって、モテるじゃない」
「……それだけですか?」
また尋ね返した私に、先輩はさっきとは違う溜め息を吐いた。
「ただモテるだけならいいんだけどね……。それを武器にしていろいろする人がいるでしょう?女の子を利用して情報を聞き出すとか。結構悪どいことやってるの見聞きしてきたから、どうも外見のいい男は好きになれないのよ。ああ、もちろん、うちの創業一族の御曹司達がそうだとは言わないけどね。でもそういうわけで、あのとき野田さんにもあんな態度になっちゃったわけ。もしかしたら野田さんがいいように使われてるのかも……てね。ほら、あの人めちゃくちゃイケメンでしょ?」
横目でちらっと私を見ながら先輩は肩を竦めた。
先輩のその仕草も言い方も冗談の色を含んでいたけれど、私にとっては、森宮さんの素性を知ることになった苦い記憶だった。
その森宮さんと今夜このエフ・レスト本社で会う約束をしていると知ったら、先輩はどんな顔をするだろう。
私がエレベーターのボタンを押しながら先輩を伺うと、
「ま、あなた達はそういう関係ではなかったみたいだから、変に勘繰っちゃってごめんなさいね。最近は会ってないの?」
朗らかに言いながらも、決して相手の名前を口に出さない先輩は、やっぱり気遣いの人だと感じた。
「いえ、まあ……」
美術館で会ったのは本当に偶然だったし、昨日メールが来て今日会う約束をしているとはいえ、先輩にそのことを説明していいものか迷ってしまう。
言葉を濁した私に、先輩は「そうよねー」と、なぜか納得しきりな顔をした。
「あんな噂が流れた後じゃ、いくらプライベートでも会いにくいわよね」
まるで、あの噂がなければプライベートで会っているような言われ方をして、私はそうじゃないんです、と答えようと先輩に顔を向けた。
だが、そのセリフを口にすることはなかった。
なぜなら、先輩の肩越しに目に入った人の群れの中に、今話題にあがっていた彼の姿を見つけてしまったから―――――――