「それは・・・・秘密」 (1)
ゴールデンウィークが明けてしばらくすると、妙な噂が社内に流れだした。
新入社員の中に白華堂のスパイがいる――――――――――
その噂を聞いた私は、すぐに自分のことだと思った。
あの日カフェで会った先輩は言いふらすような真似はしないと思うけど、きっと、他にも私と森宮さんが二人でいるのを見かけた人がいたのだろう。
その新入社員が私だということが知られるまでには、そんなに時間がかからなかった。
だけど、基本的に優しい人が多い社内では、面と向かってあれこれ言う人はいなかった。
もちろん、陰で何を言われているのかまでは把握していないけれど・・・・・
でもやっぱり、どことなくぎこちない空気は漂っていて、まだ研修期間中だったこともあり、特に新入社員の間では腫れ物に触るような扱いをされていた。
一応、噂の新入社員が私だと言われはじめた頃に一度だけちゃんとスパイ疑惑を否定したのだが、それで納得できない同期もいるようだった。
あの日カフェで会った先輩は、わざわざ終業後に食事に誘ってくれたうえで、おかしな噂の原因は自分ではないが、それでも、噂を抑えられずに申し訳なかったと詫びてくれた。
どうやら先輩は、噂の出もとに心当たりがあるようだった。
私はその出もとについては尋ねるつもりもないし、先輩が責任を感じる必要もないと返したけれど、あの日以来森宮さんとは会ってないにもかかわらず、こんな噂になって戸惑っているということは伝えた。
だいたい、あの日まで森宮さんの立場を知らなかったのだから、まったく不本意だと、腹を立てる権利だってあるはずだ。
けれど実際は、森宮さんとはじめて会った夜、いくつか違和感を持ったのにそれを無視した私は、その権利を主張するべきではないのかもしれない・・・・・
ぎくしゃくした雰囲気はなかなか霧散してはくれなかったけれど、そんなことに関係なく研修は毎日続いた。
十数名の新入社員のうち、四月の段階で数人とは親しくなっていて、彼女らは噂のこともそんなに気にしてないようだった。
私が居心地の悪さに押しつぶされなかったのは、きっと彼女達のおかげだろう。
そんな中でも、ふとした瞬間・・・例えば、あのタオルハンカチを洗濯して干すときとか、朝出社して、エントランスの吹き抜けを見上げたときとか、あの夜の警備担当の男の人を見かけたときとか、
どうしても森宮さんを思い出してしまった。
そして、会いたいな・・と思ってしまうのだ。
森宮さんの整った顔とか、背の高い後ろ姿とか、柔らかい表情、かすかに香ったフレグランス、あの夜唇に当てた長い人差し指・・・・
そのどれもが、私をたまらない想いにさせるから。
たった二回、しかもごく短い時間しか会っていない人なのに、こんなにも、私の中に入り込んでいるなんて・・・・
私は時間が経てば経つほどに、彼への気持ちを誤魔化すことが難しくなっていった。
こんな想いを持て余すくらいなら、あの夜、忘れたタオルハンカチを探しに来たりしなければよかった。
そうしたら、彼と出会うこともなかったのに・・・・
南の方のどこかで梅雨入りしたとニュースで聞くようになった頃、私は休日を利用して美術館に来ていた。
世界のテーブルウエアという特別展が催されていたのだ。
展示されているのはアンティークが多いみたいだけど、今海外で話題になってるブランドの限定デザインの展示も評判だった。
けれど期間が一カ月弱と短かったので、私は梅雨に入りそうで入らなさそうな時季の晴れた日を狙って、一人で勉強しに来ていたのだ。
地下鉄の駅を上がってすぐに目立つ建物が見えてくる。
私は学生の頃からこうやって一人で美術館や博物館で時間を過ごすのが好きで、友達には『淋しくない?』と訊かれることもあったけど、行ってみると、意外と一人で来ている人が多いのだ。
ジリジリと日射しがうなじを狙ってくるのを感じて、私は日焼け止めを塗り忘れてきたことに気が付いた。
・・・・両腕には塗ってきたのに。
いつもはおろしている髪を今日はアップにしてきたので、つい忘れてしまったのだ。
夏の入り口に毎回同じミスをしてしまう自分が、ちょっと情けない。
私は空を見上げると、遠慮なく照りつけてくる太陽に小さくため息をこぼした。
そして何気なく視線を美術館の入り口付近に移すと、そこに、会いたかった姿を見つけたのだった。
「・・・・森宮さん・・・・」
私は無意識に、その人の名前を呼んでいた。
彼は一人で、美術館入り口から少し離れたところで電話をしていた。
黒の細いパンツに半袖のポロシャツを合わせていて、近付いていくと、ポロシャツもベルトも斜めに掛けたボディバッグも、有名なブランドのものだと分かった。
久しぶりに見た姿に、勝手に脈が跳ねあがっていく。
会いたいと願っていた人を前にして、私は、嬉しいという感情よりも戸惑いの方が大きくて、その場で足が止まってしまった。
すると、全然違う方を見ていた彼が顔を振り向かせた瞬間、目が合った。
会いたかった人と視線が絡んだことで、私の心臓はいとも簡単に暴れ出してしまう。
けれど彼の方もこの偶然に相当驚いたようで、まだ通話を終わらせていないにもかかわらず、「あ・・・」と声を漏らしたのだ。
私は電話の邪魔にならないよう、黙ったまま軽く会釈をしたけれど、それから先はどうしたらいいのか迷ってしまった。
素通りするのもどうかと思うけど、電話中の森宮さんの前で立ち止まったままというのも変だろうから。
けれど、そんな私の迷いはまったくの杞憂だった。
森宮さんがすぐに通話を終わらせたのだ。
「・・・おじさん、申し訳ありません、また後で掛け直してよろしいですか?・・・・はい、では・・・・」
その別れ文句から、仕事の電話ではなかったようなので、そのことにはホッとした。
だって、私と偶然会ったせいで仕事の邪魔をしてしまったのではと、そんな心配が頭を過っていたから。
そして森宮さんは、微笑みながら私に向き直った。
「こんにちは」
第一声が、それだった。
私は慌ただしい心臓を鎮めるように、キュッと胸元を握りしめた。
「こんにちは・・・」
なんの変哲もない挨拶なのに、胸にこみ上げてくるものがあった。
だって、森宮さんとはもう会えないと思っていたから・・・・
たとえ仕事関係で見かけることがあったとしても、以前のように笑って、親しく言葉を交わすなんて無理だと思っていたから。
ましてや、二人きりでなんて絶対にあり得ないはずだった。
二度と会うべきではない、そうまで思っていたのに・・・・
こんな偶然をよこしてくるなんて、神様はいったい私に何をさせたいのだろう。
「野田さんも、テーブルウエア展へ?」
ああ、森宮さんだ・・・・
心が見惚れてしまいそうになるのをギリギリ堪え、私は出来る限りの平生を装った。
「そうなんです。森宮さん・・・もですか?」
正確には森宮さん本人から名前を聞いてなかった私は、名前を呼ぶ瞬間、躊躇いが過った。
そしてそれを感じ取った森宮さんは、申し訳なさそうに笑う。
「そうか、オレ、まだ自分からはちゃんと名乗ってなかったんだね」
「いえ、でも・・・」
噂で聞いて知ってますから大丈夫です。
そう言いかけたけど、それはなんだか失礼な気がした。
私が言い籠っていると、森宮さんはボディバッグをくるりと前に持ってきてネイビーの名刺入れを取り出した。
そして中から一枚の紙片を抜いた。
「森宮 健です。・・・もう知ってるとは思うけど」
そう言って森宮さんが私に差し出したのは、名刺だった。
そこには、“白華堂 デザイン部 森宮 健” と記されている。
私は、それまではあくまでも人伝いにしか聞いてなかった森宮さんの素性が、突然現実のものとして晒されたように感じて、名刺を受け取る際、チクリと胸を刺すものがあった。
「ありがとうございます・・・・」
そう告げてから、私も念のため持ち歩いていた名刺入れを取り出した。
まだ研修期間だったけど、エフ・レストの一員としての自覚を持つ意味で名刺を支給されていたのだ。
仕事外でも交換して構わないという許可とともに。
「野田 幸です。・・・・もうご存知だと思いますけど・・・・」
「なんだか今更だよね、お互いに」
森宮さんは苦笑しながら私の名刺を眺めた。
まだ正式に配属される前なので、そこには名前や連絡先など簡単な情報しか書かれていないけれど、私は、まるで履歴書を見られているような、なんだか気恥ずかしい気分になった。
「でも・・・やっぱり、森宮さんご本人から伺えた方が嬉しいです」
私は名刺入れをしまいながら、なんとなくそう言ったのだけど、ふと顔を上げると森宮さんが名刺を持ったままこちらを凝視していた。
「あの、・・・どうかしましたか?」
私は、何かおかしなことを言っただろうかと、小首を傾げながら訊いた。
すると、森宮さんは「いや・・・」と首を振ってみせたけれど、続けて
「やっぱり、きみは素直でまっすぐなんだなと思って」
またそんなことを言う。
私は森宮さんにそう言われる度に歯がゆい思いになるのを避けられなかった。
「・・・私、そんなにストレートでしょうか・・・?」
「ああ、もし気にさわったならごめん。でも悪い意味じゃないんだ。本当に、そういうところはきみのいいところだと思うよ。オレがきみくらいの歳のとき、きみみたいに素直にまっすぐいられたら良かったのになって、本気で思ってるからね」
「・・・・そうですか?」
森宮さんのフォローのような説明に一応は頷いたけれど、歯がゆさを消滅させるまでには至らなかった。
だって今のセリフで、やっぱり、私は森宮さんから随分年下の ”幼い女の子” として見られているんだな・・・と分かってしまったから。
でもここでへこんだ顔なんかしたら、また ”素直だ” とか ”嘘が吐けない” とか言われそうなので、私は頑張って平気なフリをしてみせたのだった。
私の平気なフリに騙されてくれたのかどうか分からないけど、森宮さんはその後何かを言うことはしなかった。
それよりも、まだチケットを購入する前だった私に「よかったら使って?」と、テーブルウエア展のチケットを差し出してきたのだ。
それは、一般向けに販売されているものではなく、招待券だった。
「ペアでいただいたんだけど、ご覧の通り、今日はひとりで来たからね。きみが使ってくれると嬉しい」
「あ・・・じゃあ、お代金を・・・」
バッグから財布を出そうとした私を、森宮さんが素早く制する。
「いただいたものなんだから、野田さんから代金を貰うなんておかしいでしょ?」
「あ・・・」
「それに、野田さんが貰ってくれないなら、これはただの紙切れになるだけだし。ゴミの削減に協力してよ」
優しく強引な森宮さんは、私の手にチケットを握らせると、ね?と笑った。
そんな顔で、そんな態度で接されると、私の中の奥に追いやった気持ちに刺激が加わってしまう・・・・
私はそれ以上森宮さんの目を見ていられなくて、パッと逸らしてからコクコクコクと頷いたのだった。
「ありがとうございます・・・・。遠慮なく、使わせていただきます・・・・」
金額にしたらそう高価なものでもないけれど、自分の好きな人から貰ったものはどんな高価な贈り物よりも特別になるのだ。
私はしっかり礼を告げた後、すぐにその場を去ろうとした。
けれど、なんとなく雰囲気で森宮さんがそれを引き止めてきて、その結果、なぜか私達は一緒にテーブルウエア展を鑑賞することになったのだった。