「秘密を、君に・・・」 (3)
午後8時半をまわってから、私はエフ・レスト本社に戻った。
こんな時間に本社に戻って来るなんて怪しまれそうで、なるべく人目につかないように、俯いたまま真っ白なエントランスに足を踏み入れた。
さすがに警備員には呼び止められるかと思いきや、
「お忘れものですか?」
と普通に声を掛けられて、ちょっと拍子抜けしてしまう。
けれど顔をあげた私の前に立っていたのは、あの、私と森宮さんがはじめて会った夜にもいた男の人だった。
「あの……」
「森宮さまからお話を伺ってます。今なら人の波もひいてますから、ご安心ください」
あの夜と同じで、愛想よく言ってくれた。
あの夜と同じ、”森宮” という名前で彼を呼びながら。
「あの、」
「さきほどエレベーターがエントランスに戻って来ましたから、すぐに上がられるとどなたにも会わずに済むと思いますよ」
森宮さんのことを尋ねようとした私に、男の人は急かすような仕草を見せた。
たぶん、彼の親切心がそうさせたのだと思う。
でもどんな些細なことでも森宮さんの情報を得たかった私は、気持ちを削がれたようになり、「……ありがとうございます」と告げた笑顔はぎこちないものだった。
教えられた通り、エレベーターはエントランスにとまっていて、私は誰も来ないうちに乗り込んで扉を閉じた。
そしてあの夜、森宮さんがしていたように最上階のボタンを押した。
途中で誰も乗ってきませんように……
心の中でずっと願っていた。
あの夜と違い、もう私は立派にエフ・レストの一員なのだけど、これから向かう先は私なんかが気軽に入れるわけない役員フロアだ。
誰かに目撃されたら、なんて言い訳したらいいのか……
とにかく私は、ただただ、誰にも会いませんようにと、そう願い続けていたのだった。
どうにかその願いは聞き届けられ、エレベーターは途中で止まることなく最上階まで私を運んでくれた。
スーっと静かに開いた先には、見覚えのある上品なバーガンディのカーペットが広がっていた。
トクン…と、鼓動が、テンポを上げた。
私はありったけの緊張を集めたような気分で、無意識に、コクリと唾を飲み込んでいた。
そして一歩、廊下に進んだ。
やはり他のフロアと違って、高級な感触がある。
もう一歩前に行くと、背後でエレベーターの扉が閉まった。
とたんに、静けさが増したような気がした。
このフロアには静寂が溢れていて、私以外の気配は感じられない。
その静かな空間に些かの怖さを感じながら、私は意を決し、あの夜の記憶を辿って階段室に向かった。
クリーム色の扉も、明るい階段室も、あの時のままだった。
ただあの時と違っているのは、今夜は私ひとりきりだということ。
私は一段一段ゆっくりと上がったつもりだけど、すぐに電子ロックが付いた扉が見えてくる。
森宮さんは、もう、あの扉の向こうにいるのだろうか。
腕時計で確認すると、まだ9時には10分ほど足りない。
でも私は、なんだか、そこに森宮さんが待っていそうな予感がしていた。
階段を上がり終えた私は、と扉の前で立ち止まった。
電子ロックは解除されていて、扉が完全に閉まらないように簡単な細工がされていた。
……きっと、森宮さんはそこにいる。
そう確信した私は、不思議と躊躇うことなく取っ手を握っていた。
……だって、森宮さんに会えるのだから。
森宮さんが何者だって、
どんなに不信感が募ったって、
結局は、私は森宮さんに会いたいのだから。
扉を抜けて外に出ると、湿気を含んだ風が出迎えてくれた。
天気予報では今日は降らないと言っていたけれど、どうやら細い細い、蜘蛛の糸よりも繊細な雨が降り出したらしい。
けれど傘が必要なほどではなく、私は折り畳み傘を持っていたものの、出番を見送ることにした。
あの夜とは季節も違うし、気温も、天気も違う。
なのに、なぜだか私はあの時と一緒だと錯覚した。
目の前に、手摺に体を預けた森宮さんが立っていたからだ……
まだ私に気付いていないようで、こちらに背を向けたまま、夜景を眺めているけれど、その背中すらかっこよくて、容易く私の気持ちを騒がせる。
森宮さんは左腕をパッと伸ばし、腕時計を見た。
そしてなにも言わずに短い溜め息を吐いた。
けれど次の瞬間、何とはなしにこちらに振り返ると、私を見つけて、小さく、驚いた顔をした。
目が合うとすぐに、それは破顔に変わった。
「来てくれたんだ」
その顔が本当に嬉しそうで、”かっこいい” よりも ”可愛らしく” 思えてしまう。年上の男性に対して失礼な表現なのは承知してるけれど、でもどうしても可愛らしく見えたのだ。
私は、その森宮さんの表情ひとつで、さっきまでの緊張が嘘のようにどこかに飛んでいってしまったように感じた。
「……お疲れさまです」
なんて返事したらいいのか分からなくて、無難な挨拶を口にした。
すると森宮さんはふっと笑った。
「野田さんもお疲れ。ごめんね、新入社員さんは定時あがりだったんだろう?」
待たせて悪かったねと、森宮さんは済まなさそうに続けた。
「いえ、軽めに食事したりしていましたから……」
「なに食べたの?」
「近くのカフェで、ミックスサンドを……」
「もしかして、2ブロック先の緑の屋根のところ?」
「そうですけど……」
「あそこのサンドイッチは美味しいよね。オレも子供の頃から好きで、今もたまに行くよ」
どこか得意気に言う森宮さん。
けれど、
「子供の頃から、ですか?」
私がそう問うと、それまでの表情が、ほんの少しだけ歪んだのだった。
「……うん、子供の頃から。なにから話せばいいかな……。まず、今朝はエントランスで無視するようなことして、申し訳なかった」
探り探りといった森宮さんの話し方は、慎重そのものだった。
それだけ私を気にしてくれているのだろうけど、私はその慎重さに、逃げ出したくなる思いがしていた。
「いえ……大丈夫です」
なにが大丈夫なのか分からないけど、口を突いて出たのはそんな言葉だった。
「もしかして、あれからオレのこと、何か聞いたのかな?」
「……少しだけ」
「そっか……」
森宮さんは小さく呟くと、私から視線を外した。
「野田さんが何を聞いたのかは知らないけど、全部、はじめから説明させてほしい。聞いてくれるかな?」
「そのつもりで、ここに来ましたから」
はっきり告げると、森宮さんは「ありがとう」と微笑んだ。
「まず、オレの名前なんだけど、森宮というのは祖母の旧姓なんだ。本名は、野田さんが見た免許証に書いてあった通り、今里 健。実家はエフ・レスト創業一族の今里家だよ」
潔く言い切った森宮さんは、今度は逸らすことなく、まっすぐ私を見つめてきた。
私は、森宮さんの迷いない瞳にたじろぎそうになりつつも、頭は意外と冷静だった。
ああ、やっぱり………
免許証の名前と、今朝耳にした噂話。
組み合わせたら、導き出される答えはひとつしかなかったから。
「あまり驚かないね。この辺りはもう知ってたわけだ」
「……そうですね」
「じゃあ、ここから先は新しい情報かな。白華堂の社長は、オレの父の親友なんだ」
「え……?」
「エフ・レストの現取締役社長はオレの伯父で、オレの父親はエフ・レストの関連会社で社長に就いてるんだけど、白華堂の社長とは小学校から大学までずっと同窓の幼馴染みなんだよ。世間的にはライバルメーカーだとか言われてるけど、実際は経営者同士は昔なじみの間柄だったわけ。……つまりオレは、白華堂に完全な縁故採用で入ったんだよ」
森宮さん……彼の告白が、思ってもいない角度から差し込んできたものだから、私は即座に反応することができなかった。
すると、無言で見つめ返す私に、彼は苦そうに表情を歪めた。
「軽蔑した?」
向かい合い、こんなにも近い距離にいるにもかかわらず、私の戸惑いが彼にはそんな風に届いてしまったのだろうか。
「そんなこと……」
私はようやく掠れるような声で返事することができた。
けれど、彼は言葉通りには受け取ってくれなかった。
「気を遣わなくていいよ。野田さんがエフ・レストに入るためにどんなに頑張ったか聞いたからね。それを知ったら、縁故採用なんて恥ずかしくて口にもできないくらいだよ」
それが彼の本心なのかもしれないけど、なんだか私は、ちょっと突き放されたように感じてしまい、
「軽蔑なんてしてません!」
気が付いたらそう叫んでいた。
「……そりゃ、必死で就活してた私から言わせてもらえば、ちょっとズルいな、とかは思いますけど。でも、もし私がエフ・レストにコネを持ってたとしたら、絶対にそのコネを使ってたと思いますから。だから、ズルいけど、別に軽蔑したりなんかしません」
思わず、バッグを持たない右手に拳を握り、まるで選挙演説のように前のめりになりながら言っていた。
目の前の彼に、きちんと私の思いが違わず伝わるように。
彼は私の勢いに喫驚したようだったけど、やがて、フッと息をこぼした。
「やっぱりきみは、まっすぐな人だね……」
また出た。 ”まっすぐな人”
私はそのお決まりのフレーズに、イラッとしてしまった。
いつもならそこまで強く思うこともないだろうし、例えあったとしても、そんなイラつきは堪えるところだけど、今披露した演説のせいか、どこか気が高まっていて、理性のネジがゆるんでいたのかもしれない。
「あの!……その ”まっすぐな人” って、どういう意味なんですか?!私、その言われ方はあんまり好きじゃありません」
私は、目の前のこの人のことを好きなはずで、ここで会うことも、迷いつつも心の奥では待ち望んでいたはずなのに、どうしてこんな突っ掛かった態度になっているのだろう。
ほら、彼もさっきより驚いたように固まってるじゃない。
その彼の様子は、今私が吐き出したばかりの突っ掛かった発言を、急速に後悔色に染めていった。
けれど、彼はゆっくりと、驚き顔を穏やかに解いていったのだ。
「気を悪くさせたなら、ごめん。でも……”好きじゃありません” って、二度目だね」
「え?」
穏やかを越えて、見ようによってはリラックスしたような表情で言った彼。
私はその意味が分からず反射的に問い返していた。
すると彼は夜空に視線を泳がせながら、記憶を手繰り寄せるように呟いた。
「『私、秘密は好きじゃありません』……だったかな?」
「あ……」
それは、彼と最後に会ったとき、決別の意を含ませて私が告げたセリフだった。
彼は私と目を合わさないまま、続けた。
「きみが好きじゃないその秘密を増やしてばかりだったし、知らなかったとはいえ、今も、『まっすぐな人だ』なんて、きみの嫌がる言葉を投げかけたりして……ほんと、野田さんにとったらオレは、迷惑にしかならないのかもしれないね」
そう言うと、彼はパッと顔を私に向けた。
とても、真剣味を帯びた眼差しだ。
「でも、これだけは知っておいてほしいんだ。きみに嫌な思いをさせたいわけじゃないし、”まっすぐ” っていうのも、決して揶揄する意味じゃない。本当に、まっすぐなのは野田さんのいいところだと思うし、そんな野田さんを羨ましいとさえ思ってるんだ。オレにはその ”まっすぐさ” がなかったからね……」
理性のネジを取り戻したわたしは、頭の片隅で、そんなことはないと思っていた。
だって私は、彼のあまりにまっすぐな面差しに、相槌も打たずに話を聞いていたのだから。
細い雨は、いつの間にかきれいに止んでいた。
けれど、間近で見ると彼の前髪が少し湿っているのがはっきり分かって、それが、はじめて会った夜と同じように、扇情的に感じられた。
全身を駆け上がるような、甘やかな刺激を起こすのだ。
私は、やっぱり、彼のことがまだ好きなのだと深く深く実感した。
そしてドキドキしながら、彼の言葉を待った。
「だから……野田さんのまっすぐな人柄に触れたから、オレは、今になって決心することができたんだ」
「……決心、ですか?」
何の決心かと尋ねる前に、彼が続ける。
「そう。エフ・レストに戻ってくる決心をね」
彼は淡々と、そう告げたのだった。




