「秘密だよ?」(1)
子供の頃、ずっと不思議に思っていたことがあった。
それは、母の手作りご飯のこと。
料理上手な母は、毎日毎日、私達家族のためにいろいろな料理を作ってテーブルに並べてくれた。
そのどれもが美味しかったけれど、ときどき、違う味になることがあったのだ。
同じメニューなのに、いつもと違う・・・・?
たまに訪れるその違和感は、私が小学校の高学年になるまで謎のままだった。
けれどある日、父が母にある贈り物をしたのを見て、私はその謎が解けたのだ。
父が母に贈ったのは、真っ白な、大きなお皿だった。
デリバリーのピザをテイクアウト用の箱のまま食べるのは味気ないと言った母に、父が会社帰りにデパートに寄って買って帰ったのだ。
そしてその次の日、早速ピザを頼んでそのお皿に乗せたら、なんだか、いつもより美味しくなった気がした。
お皿に移し替える、
たったそれだけなのに、こんなに味が変わって感じるのかと、まだ子供だった私は、まるで魔法を目の当たりにしたような気分になったのを覚えている。
そしてそのときから、
私も大人になったらこんな風に誰かのご飯をもっと美味しくさせるお皿を作りたい。
そう思うようになったのだった・・・・・・・
やばい、忘れてきたかも―――――――
私がそれに気が付いたのは、もう夜の9時になる頃だった。
今日の昼間、就職試験の最終面接があったのだが、そこに、ハンカチタオルを忘れてきてしまったのだ。
第一希望の会社で緊張しまくってしまい、休憩時間に気分が悪くなって化粧室に駆け込んだ時には・・・確かに手に持っていたはず。
ということは、そのまま化粧室に忘れてきたのかもしれない・・・
あれはどこにでも売ってるタオルではなくて、メーカーの購入金額の条件を満たした場合にのみ入手できるノベルティなのに・・・
そしてそのメーカーこそが、今日最終面接を受けてきた会社だった。
私は慌てて今日の会社の人事問い合わせ番号を探したけれど、こんな時間に繋がるわけないと思い直した。
それに、もし忘れ物なんかしてきたことが人事担当に知られてしまえば、最終面接の結果に影響が出てくるかも・・・・
そう考えたとたん、私はブルブルと首を振った。
冗談じゃない。ここまでくるのにどれだけ苦労してきたか。
地方出身でコネも何も持たない私が希望の職に就くためには、ただのほほんと大学生活を謳歌するだけなんてあり得なかった。
丸腰で就職活動に挑むほど無謀ではなかったから。
希望の職種の催しに積極的に参加して知識を深めたり、関連会社でバイトしたり、とにかくアピールできそうなことは時間を惜しまずに取り入れて、そのおかげで、今日の最終面接だって好感触だった。
なのに、最後にこんなミスをするなんて・・・・
・・・いや、ちょっと忘れ物をしたくらいで面接をアウト判定なんてする?
いくらなんでもそれはないんじゃない?
楽観的な思考が芽生えてくるも、
いやいやいや、どんな小さなことでも油断してはいけない。
面接の帰りに駆け込み乗車しただけで不採用になった先輩だっているくらいなのだから。
私はその話を思い出して、またブルブルと頭を振った。
・・・・仕方ない。こうなったら、自分で探すしかない。
私はそう決心して、ルームウェアを脱いだ。
自分が持ってる中でも一番大人っぽくて、きれい目のワンピースに着替えて、なかなか馴れないストッキングも履いた。
そしてOLさんが持っていそうなA4が入るサイズのバッグを手に、一人暮らしの部屋を後にしたのだった。
なにも、面接してきた会社に侵入するつもりではない。
この時間だとまだ残っている社員も多いだろうから、そのうちの一人をなんとかつかまえて、事情を説明して頼むつもりだった。
今日の面接会場のフロアも、どこの化粧室を使ったかも覚えているから、もしタオルがそのまま置かれていたら簡単に見つけてもらえるはずだ。
だけど・・・・、もし清掃が入っていたなら、それも望み薄かもしれない・・・・
マンションのエレベーターを降りながらそんな気弱なことが過った私は、一刻もはやく向かいたくて、タクシーを拾った。
学生の身では手痛い出費だけど、仕方ない。
でもそのおかげで、予想よりもずいぶんはやくに会社に到着したのだった。
タクシーを降りて、本社ビルの正面玄関の前に立つと、ゾクリとしてしまった。
だってここは、私がずっと働きたいと願っていた憧れの場所でもあるのだから。
面接で昼間も訪れたはずなのに、夜の雰囲気は全然違って見えて、どんどん緊張感が増してくるようだった。
ビルを見上げれば、ガラス窓から放たれる灯りが夜の空に光っていて、都会の夜景の一部となって輝いている。
それはもちろん綺麗だけど、きらきらした景色はどこか気後れを誘い出した。
私は急に気持ち悪くなって、反射的に口を両手で覆ってしまった。
そのときだ、
「どうかされましたか?」
男の人の声が図上から降ってきたのだった。
俯いていた顔を上げると、スーツ姿の若い男の人が心配そうに私を見ていた。
背の高い人だ。
私は「あ、いえ・・・」と遠慮がちに答えたところで、目的を思い出した。
この人が目の前のビルから出てきたのかは見ていなかったけど、立ち位置から考えて、おそらくそうだろう。
「大丈夫ですか?顔色がよくありませんけど・・・」
男の人はなおも尋ねてくれた。なのに、
ちゃんと見たら、この人、すごく整った顔をしてる・・・・
無意識にそんなことを思ってしまい、私はパッと視線を逸らしてしまった。
「・・・すみません、大丈夫です」
ただでさえあまり男慣れしていないのに、こんなイケメン、話すだけでも緊張してしまいそうだ。
なにげに着ているスーツも高級そうだし、胸ポケットにはネクタイと同じブルー系のチーフなんか入ってて、いかにもイケてるビジネスマンだもの。
・・・・でも、他に人が出てくる気配もないし、今私が頼れるのはこの人しかいない。
私は思いきってこの男の人に尋ねてみることにした。
「あの、こちらにお勤めの方ですか?」
声が、震えてなかっただろうか。
私は自分を奮い立たせてそう尋ねたのに、男の人は微妙な表情で少し考えるように黙ってしまった。
訊き方を間違えてしまっただろうかと、そのわずかな沈黙が恐くなりかけたとき、思案を終わらせた男の人が優しく微笑んでくれたのだった。
「もしそうなら、何かご用でしたか?」
紳士的な態度にホッとした私は、ゆるんだ緊張のままもう一度尋ねた。
「人事担当の方では、ありませんか・・・・?」
「人事ではありませんが・・・ああ、もしかしたら今日面接を受けていた学生さん?」
いとも簡単にこちらの素性がばれてしまった。
私は逃げ帰りたい気持ちでいっぱいになったけれど、どうしてもあのハンカチを取り戻したくて、事情を説明したのだった。
「そんなに気にすることないと思うけど?」
私の説明を聞き終えたイケメンさんは、そう言って笑った。
「いくらなんでも忘れ物くらいで不採用になるなんてあり得ないよ」
「でも!・・・・私、どうしてもここで働きたいんです。だから、些細なことでもマイナスになるようなことは避けたいんです。・・・・それなら、そんな大切なものを忘れるなって話なんですけど」
「きみは素直なんだね。・・・じゃあ、オレが忘れ物を探してあげようか?とりあえず心当たりに訊いてみるよ」
私の必死感が伝わったのか、男の人がスマホを取り出し、どこかに電話してくれるようだった。
「あ、お疲れさまです。森宮です。・・・・いえ、こちらこそ。・・・そうですね、ぜひ・・・いえ、それでですね、少し伺いたいことがありまして・・・・」
相手の声は聞こえてこなかったけど、男の人が、大丈夫、というように目配せしてくれたので、不思議と落ち着いて待てていた。
「今日なんですけど、落とし物でタオル地のハンカチが届けられてませんか?・・・・・はい、お願いします。・・・・・いえ、僕じゃないんですよ。落としたのは・・・」
男の人がちらっと私を見たので、思わず彼の腕を掴んでいた。
”私のことは言わないで”
目でそう訴えると、イケメンさんは苦笑いしながら頷いてくれた。
「僕の知り合いでして・・・・あ、そうですか?ありました?」
男の人はスマホを耳に当てたまま、こちらを見てにっこり微笑んだ。
私は声には出さず、口の動きだけで ”ありがとうございます” と告げ、胸を撫で下ろした。
「はい、・・・・はい、そうですか、ありがとうございます。それではすぐに伺いますのでよろしくお願いします」
通話を終えたイケメンさんは、スマホをジャケットのポケットにしまいながら、
「落とし物で届けられてるみたい。よかったね。ちょっと取ってくるから、待っててくれる?・・・あ、もし素性が知られたくなかったら、出入口からは離れてた方がいいかもしれないよ」
ぽんぽん、と私の肩を優しく叩いて言った。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
ハンカチが見つかったことでテンションが上がってしまう私に、イケメンさんは「二度も言わなくていいよ」とおかしそうに返してから、目の前のビルに入っていったのだった。
本当によかった・・・・・
ホッとして張りつめていたものが解けると、急に視界が開けたように周りの景色が目に入ってくる。
オフィス街のメイン通りから少し奥に入った道沿いに建つ、新しい、瀟洒なビル。
決して大きなものではないけれど、どこにでもあるようなオフィスビルではなくて、丁寧に造られた印象を受ける。と言っても、費用ばかりを積み上げた派手なものではなく、部分部分でこだわりを感じる、そういう意味での ”丁寧” だ。
けれど主張したりせず、気付く人にだけ気付いてもらえればいい、そんな密やかな丁寧さ。
それは、ただおしゃれなだけでなく、”ぬくもり” とか ”人の想い” が注がれている建物だと思った。
ふと建物を見遣った私の目が、ライトで照らされたアプローチの白い石畳に釘付けになる。
昼間は面接のことで頭がいっぱいであまりよく見ることができなかったけれど、エントランスへ続くアプローチも、注意して見なければ分からないほどのさりげなさで濃淡を変えていて、そんなところにもこの会社こだわりを見た気がした。
いいなあ・・・・
ここで働きたいという思いが、さらに深まる。
憧れを強めた私は、歩道に等間隔で植えられている樹に半分だけ体を隠して、男の人を待つことにしたのだった。
しばらくすると、ビルからあのイケメンさんが出てきた。
遠目でも、颯爽と歩く姿が絵になる大人の男の人だなと思った。
そうしたら、またちょっと緊張してきてしまう・・・
私は気合を入れるように小さく唾を飲み込んでみた。
「お待たせ。これで間違いないかな?」
そう言って見せてくれたのは、私が忘れてきたタオルハンカチだった。
「そうです。間違いありません。ありがとうございました!」
無事に戻ってきたハンカチに、緊張も吹き飛んでいく。
私はそれを両手で受け取るなり、勢いよく彼に頭を下げていた。
薄いブルーの正方形のハンカチは、ホワイトと濃いブルーの2色でトリミングされていて、隅にはメーカー名が小さく刺繍されていた。
ノベルティなんてほとんど名刺代わりのようなものなのに、あえて社名を目立たせないところが、とても好印象だ。
すると、なぜか男の人は私の前に突っ立ったまま、こちらをじっと見てきたのだ。
「・・・・あの、本当にありがとうございました」
私はもう一度深々と頭を下げたのだが、男の人は私の礼はどうでもよかったのか、「あのさ・・・」と話しかけてきた。
「はい?」
「そのハンカチ、オレの記憶が正しければ、ここの会社のオマケじゃない?しかも、もう10年以上前の」
私が握り締めているハンカチを指差して尋ねられた。
「そうですけど・・・・」
確かに、このノベルティは私が小学生の頃に親に頼んで貰ったものだった。
子供の好みにしてはシンプル過ぎると親達に笑われたけれど、このメーカーがすっかり気に入ってしまった私にとっては、流行のアニメやキャラクター以上に手に入れたいアイテムだったのだ。
だが、目の前のイケメンさんもそんなに年配には見えない。
せいぜい、二十代後半くらいだろう。
ということは、このハンカチがノベルティで配られていた頃は、まだ高校生くらいだったはず・・・・・
男子高校生がこういうノベルティのことを気にしたりするのだろうか?
・・・・・いや、もしかしたら入社してから知ったのかな?
自分が働く会社なんだから、過去のキャンペーンなんかも勉強するだろうし・・・・
ハンカチとイケメンさんのことを交互に考えた私は、芽生えかけた疑問を自分で勝手に丸め込んだのだった。
するとイケメンさんは持っていたビジネスバッグを反対の手に持ち替えながら訊いてきた。
「・・・・そんなに、ここの会社に入りたいの?」
ダークブラウンのビジネスバッグは、素人にでも上質な革っぽく見えた。
この人、ルックスだけじゃなくて持ち物も本当にスタイリッシュだな・・・・
そう感じたら、自分の即席なファッションが急に恥ずかしくなってしまう。
私はイケメンさんの顔が見られず、ハンカチに視線を当てたまま、
「・・・・もちろん、です・・・」
と細く答えた。
・・・・ハンカチは戻ってきたのだから、もうこれ以上ここにいる必要はない。
こんな素敵な人の傍にいたら、どんどん自分が不釣り合いで、惨めになっていきそうな気分だし、礼だけ言ってはやく帰ろう・・・・
そう思ったのに、
「どうしてそんなにこの会社がいいのか、訊いてもいい?」
彼はまた私に尋ねてきたのだ。
口ぶりは優しい紳士だけど、どこか硬い雰囲気も感じて、私はこの人に正直に答えていいものか少し迷った。
けれど、どう見ても悪い人には思えなかったし、何よりハンカチを届けてくれた、 ”恩人” だし・・・・
それに、もし私が最終面接に受かれば、ここで一緒に働くことになるのだからと、私は今日の面接でも答えたことと同じ内容を話したのだった。
「・・・・子供の頃、母の料理がこちらの会社のお皿に乗っていると、いつもよりさらに美味しく感じたんです。ただの白いお皿なのに、どうしてだろうって不思議でした。でも、子供の私にはそれがまるで魔法みたいに思えたんです。だから私も、誰かの食事をそんな風に変えるお手伝いができたらな・・・って。それから、ずっとここで働きたいと思っていました」
面接に備えて、何度も何度も練習してきたセリフだった。
本番はもっと畏まった言葉遣いだったけれど。
私の答えを聞いたイケメンさんは、「そっか・・・」と、どこか嬉しそう目を細めた。
そして、何を思ったのかいきなり私の手を掴んだのだ。
「え?わ・・・」
反動でハンカチを落としそうになった私は反対の手で握ったけれど、イケメンさんはそんなことお構いなしに私の手をぐいっと引っ張って歩き出した。
その先にあるは、私の憧れの本社のエントランスだった―――――――――




