スコール・ロロワ1
午後の授業を終えて、万里子は一人自室で伸びをする。今日は特に予定がない。この世界に来る前であれば、学校が終わった後は水泳部の練習に出たり、それをサボって友達と街をぶらついたり、テストが近ければそれなりに熱心に勉強していたし、なんだかんだ忙しく過ごしていた。
部活だってサボり摩だったけれど全く無いとなると妙に恋しい。
この世界の学校には部活のような活動があるのだろうか。水泳部なんて、あるかな。
伸びをした格好から水を掻くように腕を回す。その動きをしばらく続けてみたが、すぐに息が上がってしまった。自分自身に苦笑して、地道に散歩を続けようと万里子は席を立った。
特に目的もなく屋外に出たところで、今日は「塔」へ行ってみようと決めた。以前アルフリードが、喋る獣に対して「塔へ帰れ」とぼやいていたのを思い出したのだ。つまり、塔を棲家にしているのだろう。
万里子はあの黒い獣に興味津々で、密かに探していたのだが、あれ以来城内では見かけていなかった。
塔は王城の敷地内にある。中庭とは反対側の、裏門から城郭に沿って東に向かった所にある。途中に林があり、緑道を抜けるとたどり着く。敷地内とはいえそれなりに距離があるので、体力を戻すための散歩にはちょうどいい。
豪奢な玄関を出て、門衛の人に散歩に出る旨を伝える。あとはひたすら城の外壁に沿って、ぐるりと裏手側へ歩いていくだけだ。しばらく城壁の影を踏んで歩き続け、はたと厨房の勝手口から出た方が早かったかと足を止める。
塔の天辺を見上げる。一度城内へ戻るか、このまま進むか。逡巡はほんの一瞬で、すぐに目的はただの散歩だと思い出す。そもそも塔に用があるわけでもないので、時間がかかっても構わないのだ。うんうん、と自ら頷いて、歩き出そうとしたところで、城壁の角を曲がってきたであろう人とぶつかってしまった。
「わ、ごめんなさい!」
つんのめる万里子を、背の高い人影が軽く抱き留める。
人がいたことに驚きもしたが、相手が抱えていた紙の束から数枚が地面に舞ってしまったことに慌ててしまう。
「いや、俺が前を全く見ていなかった。すまない」
急いで拾おうとする万里子を手ぶりで制して、相手が自ら身を屈める。それでも万里子は二枚ほど拾い集め、身を起こしてはじめて相手の姿を目に入れた。
いつかヘッダと噂話をした、全身真っ黒ローブ男だった。たった今、話ぶりから良い人そうだと思った手前決まり悪く、罪悪感からもう一度すみませんと小声で告げ、紙を手渡する。
「いいんだ。人がいるとは思わなかったから、書類を読みながら歩いていたのが悪い。おや、君か」
男は万里子を知っているのか、そう言って薄い唇で微笑ながらフードを外した。
フードの下からは、元は短髪だったのを伸びたままにしているというような不揃いながらもさらさらと揺れる黒髪と、目にかかる前髪の間からは綺麗な黄金色の瞳が覗いている。そのサラサラの黒髪と金目には既視感はあるものの、絶対に知り合いではない。
(知っていたらヘッダともっときゃーきゃー言っていたはずだ。うーん、でも声は覚えがある)
こんなの反則だろう、と思う。怪しいローブ姿で、実はこんな顔してるなんて!年齢は30前後だろうか、微笑んでいるともう少し若く見える。髪は無精っぽく伸び放題のくせに、鼻筋は品よく高く、つんと気難しそうな印象の輪郭に反して、薄く微笑む口元はいたずらっぽい。
万里子がぐぐっと眉間に皺を寄せて(声まで良いなんて反則だ!)と考えているのを見て、男は首を傾げ、それからぽん、とマンガの様な音を立てて手を打った。
「そうだった。あのときは人の姿ではなかった」
そう言うと男は持っていた書類を適当に丸めてローブの内側へ仕舞い、空いた右手でぱちんと指を鳴らした。
次の瞬間、この城の関係者の顔面偏差値どうなってるんだ、などと呟いているマリコの視界からローブ男の姿が消える。
「えっ?!」
驚いて後方へ飛びずさると、足元に黒い獣が四足で立っていた。
「あ、この前の!!ジャガー!!!!」
喜色を上げる万里子に冷静な声が訂正を入れる。
「豹だ。黒豹」
「すごい!喋れるだけじゃなくて、人間にも変身できるんだね?!」
万里子は興奮のあまり、というか、どさくさに紛れてなのか。黒豹の首に抱き着いてすごいね~と言いながら撫で倒している。
「・・・・・・何か勘違いしているな。お前、おい、ちょっと落ち着け!」
ぐいぐいと前足で万里子を押し返すと、その足先を握られ、肉球おっきい・・・と悦に入られてしまう。
「今日はお菓子は持ってないんだよ。ごめんね?」
すりすりと、親指で肉球を撫でられ、反対の手では顎の下もくすぐられている。万里子の頬は紅潮し、心なしか息も乱れている。
うーん色々とまずいな。人間の絵面だと通報ものだな、しかし、されるがままになるのもなかなか。と、男が思ったかどうかは分からないが、理性的な彼は無言で尖った奥歯をカチンと噛み鳴らした。
「夢を壊して悪いが、人間に変身できる豹ではない。豹に変身できる人間なんだ」
男は元の長身のローブ姿に戻り、丁寧に万里子の発言を訂正する。握られたままの手のひらを握り返して、地面に膝を着く万里子を立たせる。
「・・・・・・はあ~~~~でっすよね~~~~。もちろんそっちの可能性もね、考えなかったわけではないですよぅ」
万里子がぶつくさぼやきながら、先ほどまで存在した生き物の片鱗を探すように下を向く。
「そうあからさまにがっかりされると傷つくなあ」
「っ、すみません!」
がばっと顔を上げると、金色の瞳はおかしそうに三日月型に細められ「冗談だよ」と言っていた。
***
「アルフリードは何も説明しなかったんだな。俺は魔術師長のスコール・ロロワだ。さっき獣に変身できると言ったが、あれは魔術の一種だ」
「魔術師!はあ~~~~」
万里子が再度ため息を吐き、顔を両手で覆う
「な、なんだ?」
「すみません・・・。ただちょっと、最近キャパオーバーっていうか」
頑張って、馴染もうとしている。しかしその努力を上回る勢いで、万里子にとっての「非常識」は津波の様に押し寄せてくる。
「いや。・・・大丈夫か?」
スコールが身を屈め、万里子の顔を覗き込む。
「・・・ええ!すみません。あ、さっきから私謝ってばかりですね」
ぱっと顔をあげ、笑顔を作って見せる。スコールは再度気遣わしげな表情で口を開くが、言葉を発する前に万里子が続ける。
「ロロワさんお仕事中でしたか?なんだか大分時間を取らせてしまっていますが」
「スコールで構わない。ん、いや仕事は心配ない。ほとんどただの散歩だ。君は、あー・・・すまない、いきさつは聞いているんだが名前は失念した」
「万里子です。マリコ、ヤノ」
「マリコ、で構わないか?」
万里子が頷く。
「そうだ、塔に行くつもりだったんです。あの・・・あなたが塔に住んでいるというようなことを聞いて」
「俺?」
歯切れ悪く話す万里子に、スコールが自分を指差して目を瞬く。
この人、怪しいローブ姿と仕草にギャップがあるな、と万里子は勝手に思う。背も高いし、魔術師長と言っていたから地位も高いのだろう、とっつきにくそうな外見と肩書きの割に、話してみると案外気さくで、親戚のお兄さんという感じだ。
(それで言うとイシュは学校の先輩って感じかな)
「ああ、豹のな。随分好きなんだなあ」
「はい!大分!」
目を輝かせて、勢いよく言うものだから、スコールは敢えてこう続けた。
「俺が」
「えっ違、えっと、あれ?」
「ふ、動物が、だろ?」
綺麗な瞳を細めて笑うスコールに、万里子は違わないかも、と思った。