1.夏のはじまり
何も特別な夏ではなかった。うだるような暑さが続くわけでもなく、記録的な豪雨があったわけでもない。相変わらずセミはうるさくないてるし、扇風機からはぬるい風が漂ってくる。いつもと同じ学校、いつもと同じ町。
――――ただ、もしかしたら。
もしかしたら少しだけ、花火がきれいに見えた夏だったのかもしれない。
「あんたまだ進路調査票出してないでしょ」
終業式が終わったあと、俺は職員室に呼び出されていた。明日から夏休み。廊下では女子生徒が夏の予定を話しながらキャッキャはしゃいでいるし、校庭では夏の大会を控えた野球部が暑苦しいほどの声をあげている。
「夏休み前に出しなさいって言ってあったはずだけど?」
目の前で不機嫌そうにしているのは、柚和子ちゃん。俺のクラスの担任である。サバサバした性格で、ほとんどの生徒に懐かれ、親しみを込めて柚和子ちゃんと呼ばれている。まあ、本人は「奥村先生でしょ!」と主張はしているが、あんまり効果はない。
「すいません、忘れてましたー」
とりあえず謝っておく。
「ほーう? それが反省してるやつの態度なのかなー?」
「だから謝ってるじゃないですか。柚和子ちゃん、今日なんか機嫌悪い?」
「うっさい! こっちにもいろいろあるの!」
あ、これはまた彼氏にでも振られたか。柚和子ちゃんは確か今年で二十九。いわゆる結婚適齢期で、それなのになかなかいい男が見つからないらしい。一部の女子がうわさしているのを聞いたことがある。
「とりあえず、俺、進学するんで。夏休みは勉強しまーす」
「なるほど? それだけ言えば帰してもらえるとでも?」
柚和子ちゃんはまっさらな進路調査票をひらひらと俺の前で振る。
「ここにはどの学校に行くのか、学部学科はどうするのかを書く欄があるんだけど、柊くんには見えないのかな?」
そういえばそんな感じの紙だったなと、なんとなく思い出す。そんな俺を見て、柚和子ちゃんがニッと笑った。
「これから先生とじっくり将来について話そうか」
笑顔の柚和子ちゃんとは対照的に、俺の顔はひきつる。
「……マジですか」
こうして俺の夏休みは、ため息とともに幕を開けた。