九話
「さてと、とりあえずご飯も食べたことだし、ちょっと歩こうか」
葵はそう言ってガタリと席を立つと、片づけをそこそこに青年を促して食堂を出る。
一人では管理しきれないほどの敷地を有する鑑継家の屋敷には使用人さえいないようで、日光の差し込まない長い廊下を歩いていてもすれ違うどころか人の気配も感じない。にもかかわらず屋敷内には塵ひとつ落ちていないのは、いったいどういうからくりなのか。
青年は葵の背中を追いながらも、改めて周囲に視線を走らせる。
見たこともない異国の建物は武家屋敷というらしく、豪華絢爛といった王城と比べると見劣りするかと思いきやけっしてそうではない。よくよく見ればまさに職人技と呼べるような彫りや絵が天井や壁、柱に施されており、見た者に感嘆のため息を吐かせるほど繊細な装飾があちこちになされていた。
床を這うような冷気を足元に感じつつも長い廊下を抜けて縁側に差し掛かる。薄いガラス越しに暖かな日の光が降り注ぎ、じわりと身体に染みるような熱に思わず目を細めた。
屋敷を取り巻くような造りをした庭園には、夜の内に降ったであろう雪が所々溶け残っていた。その中でも一際立派な松の木は白く染まり、日差しを浴びて溶け始めた雪の露がポタリポタリと地面を濡らした。
青年は異国情緒溢れる美しい光景を前に言葉なく魅入ってしまい、いつの間にか呆けるようにその場に立ち尽くす。それに気づいた葵から子供に向けるような生暖かい視線を送られ、青年は言いようのない恥ずかしさに顔を逸らしながらすぐさま彼女の後へと続いた。
庭を隔てるような渡り廊下を渡った先、離れと言うには些か厳めしい扉が付けられた建物の前で、葵はようやく足を止める。建物自体はそう大きくはなく、離れと言うよりはお御堂と言った方がしっくりくる造りだ。
鈍く輝く重々しい扉は、厳重に封印するように鎖が何重にも括りつけられ、中央には緻密な文様に囲まれた鍵穴が取り付けられている。すべてを拒絶するようなそれに言い知れぬ威圧感を感じて、青年はなんとはなしに葵に視線を向けた。
彼女は扉に触れながら吐息のような声で何事か呟くと、彼女の髪が徐々に風に浚われたようにふわりと揺れ、隠れていたうなじに扉と同じ文様が浮かび上がる。その刹那、それに反応したように扉の文様が青白く輝きだし、括りつけられていた鎖が音を立てて弾けると、青い炎に包まれてあっという間に消えていった。
「後はさっきの鍵でここを開けるだけ」
葵は扉を指でツイと撫でながらそう言うと、くるりと振り返って青年を見据えた。滑らかな黒曜石をはめ込んだような瞳が心の奥の奥まで見透かそうとでもいうように真っ直ぐ向けられている。
「君はもう自由。この扉の先に行くかどうかは君次第だよ」
「……一つ、聞いてもいいでしょうか」
「ん?」
「どうしてここまでしてくださるのですか?」
青年は葵から目を逸らすことなく、思っていたことを素直に口に出す。
「私に普通というものがどれほど語れるかどうかはわかりませんが、無償の優しさがいかがわしいと言いながら、異世界から落ちてきた男を簡単に受け入れた挙句、これほどまでに世話を焼く……何故です? あなたにそういう手段があるからというだけでは無償の優しさとなんら変わりない。私には、あなたの目的がわからないのです」
葵を見つめる瞳には、どことなく懐疑の影がチラついている。
よくよく考えてみれば、もし今の彼の立場が自分であったら相手に同じような視線を向けるに違いない。何が目的なのかが不明瞭であるのもそうだが、何よりも得体の知れない不気味さというものが先立つ。
それもそうだと彼の言葉に妙に納得してしまい、今までなんだかんだと話していなかったことを正直に言うことにした。
「だって、これが私の仕事だもの」
「仕事?」
「この世界に限ってのことじゃないんだろうけど、異世界から異物が落ちてくることってまれにあるの。物によっては悪影響を及ぼす場合があったりするものだから、見つけ次第鑑定して回収、んで世界に影響しそうな物は元の世界に戻す。それが私の仕事なんだよねぇ。だから【落としもの】である君も、もちろんその対象ってわけ」
葵は青年の手にあった鍵に手を伸ばしてそれを受け取ると、軽く手の上で放りながらやれやれとばかりにため息を吐く。
「ただねぇ……つい最近仕事を引き継いだばかりだから、まさか物だけじゃなくて人間まで落ちてくるなんて聞いてなくってさぁ。正直無機物を元の世界に戻す時と同じ対応でいいのかどうかわからないんだよね。……それもこれもあのクソ親父が何にも説明せずに勝手に消えたりするから……」
「は、はぁ……」
先ほどの真面目な空気と打って変わってドヨンとした暗い空気を纏った葵を見て、青年はどう言葉にしていいのかもわからずに口元をヒクリと引き攣らせる。
「まぁ、とりあえず君の意見を聞いてから答えを出した方がいいかなーって思って色々と事情を聞かせてもらったんだけど……その顔見る限りでは、帰るんでしょ?」
「えぇ。たとえ自由になったとしても罪人は罪人。私だけが誰かに庇護され生き長らえようなどと思えるはずもありません」
「君の責任じゃなくても?」
「たとえそれが自分の意に沿わないものであったとしても、直接手を下したのは私ですから。それに、ここに残っていてもあなたに迷惑をかけるだけでしょう? 私はあの世界でやるべきことがありますし」
そう言って初めて見せた笑顔はだいぶぎこちないものだったが、その不器用さが年相応の可愛げに感じて、葵もついつられて笑みを浮かべる。
首輪の影響から解放され、少しずつではあるが自分の意思通りの表情を取り戻しつつあるようだ。それは彼にとって新しい人生の第一歩とも言えるだろう。
彼が言っていたやり残したことというのは、きっと王が行ってきた悪行の後始末。散々人としての尊厳を貶められてきた彼が、王族の血筋だからと言ってその業まで背負う必要がどこにあるのかと、葵はついつい口に出してしまいそうになるが、彼の笑顔を見て口を噤んだ。
彼が決めたことなら、葵はそれを尊重したい。選択の自由を教えたのは葵本人なのだから。
「……なんていうか、本当に真面目だねぇ。君みたいな人が私の傍に居てくれれば仕事も楽そうなんだけど。面倒くさがりの私と真面目すぎる君、相性よさそうでしょ? 帰らずに雇われてくれたら良い思いさせてあげるけど、どう?」
葵がスイと流し目をしつつ茶化すように言うと、青年は僅かに肩を竦めながら首を振る。
「それは大変魅力的なお誘いではありますが、もう決めたことです。……ありがとうございます」
「……そう。わかった。じゃあ今から君の世界に繋げる。少し下がっていて」
青年から返ってくる答えが予想できていた葵は、それ以上は何も言わず、空いた手でガシガシと己の頭を掻きながら[異界の合鍵]を鍵穴に挿し込みゆっくりと回す。同時にガチャリと金属音が響くと、重々しい扉がゆっくりと開いた。