三話
家から洩れる灯りに照らされてぼんやりと浮かび上がるそれは、見間違いようもなく人間だった。どうやら倒れているのは男のようで、池から這い上がったかのように下半身を池に落とし、ぐったりと横たわっている。全身を覆う外套も池の水分を吸ってしとどに濡れてしまっていた。
「えぇー…… ホントありえない……どうすんの、これ」
誰が見ても異常な光景だというのに、葵は悲鳴ひとつあげることなく天を仰いで眉間を指でつまむ。浮かんだ表情は驚愕というよりは困惑で、意味もなく周囲を窺いながらうーんと唸る。そんな葵の行動にも男は何の反応も示さず、うつ伏せに倒れたままピクリとも動かなかった。
「ちょっと、死んでるんじゃないでしょうね……」
男の傍に身をかがめて肩を揺すってみるが、濡れた外套は風に晒され氷のように冷たく、やはり意識がないのかなんの反応も示さない。しかし呼吸自体は安定していて、とりあえず死体ではなかったことにホッと胸を撫で下ろす。
ともかく、この男がたとえどんな人物であれ、寒空の下にずぶ濡れのまま放置するわけにもいかない。できることなら関わりたくないのだが、この状況のまま放置するほど鬼畜ではないし、何よりこの場には葵しかいないのだ。
両親が居ない今、どう足掻いても自分が引き受けなければならない厄介事なのだろうと、葵はその場でぐぬぬと唇を歪める。
「はぁ……ったく、しょうがないなぁ」
葵とて一応女である。本来ならば全く知らない男をプライベートスペースに引き入れることにかなりの抵抗があるのだが、この場合はそうも言ってはいられない。
未だ池に浸かったままの男をどうにか引き上げると、彼の肩に人差し指を置いた。そしてボソボソと何かを呟いた後、針を打ち込むようにトンと軽く叩く。
すると男の身体が瞬く間に星屑のような光に包まれ、濡れ鼠状態だった男の身体が一気に乾いた。
男の様子にうんうんと満足そうに頷いた葵は、自身にも同じことをして濡れた箇所を乾かすと、男に肩を貸してズルズルと引き摺り家に入る。
あぁ、気絶した成人男性の何と重いことか。男の重さに思わず舌打ちをしながら、なけなしの筋力でどうにかリビングまで運ぶと、男をいったんその辺に転がした。その際男から呻くような声が聞こえた気がしたが、そんなことは知らないとばかりに客間に布団の用意し、その上にペイと放る。多少扱いが雑なのはこの際許してほしい。仕事の疲れと空腹で全く余裕がないのだ。
そして湯たんぽを布団の中に入れてやるまでを済ませると、そこでようやく余裕が生まれ、庭の【落としもの】をまじまじと見つめた。
西洋寄りの顔立ちをしているからか、見た目だけでは歳を予想できない。けれど少しあどけなさが残っているようにも見えるので、もしかしたら葵より年下なのかもしれない。黒髪だらけの日本にはそぐわない鮮やかな赤髪に、これまた日本人離れした目鼻立ちはやつれているもののえらく端正で、眠っているだけにも関わらず艶麗な色気を感じる。
しかしすらりと伸びた身長の割にその肉体は些か華奢で、こけた頬を見るに、あまりいい環境で暮らしていたとは思えなかった。
そして何より一番目立つのが彼の首筋に嵌められた無骨な首輪だ。ひと際異彩を放つそれは、皮ではなく金属のようなものでできていて、取り外しができるようなバックルも無い。彼の首には掻き毟ったような傷が生々しく残り、それだけで彼がこの首輪を外そうともがいたことが窺えた。
「……《解析》」
人差し指で首輪に触れ、目を瞑る。葵の脳裏に首輪の名前から仕組み、使われている素材、効果まで、ありとあらゆる解析結果が事細かく浮かび、その内容の酷さに顔を引き攣らせる。
「隷属の首輪って……」
[隷属の首輪]という名称らしいそれは、その名の通り装着した者の肉体を命令という形で操ることができ、服従させる効果を持つらしい。主人に歯向かうことはできず、首輪を通して装着者に罰を与えることもできるようだ。死にはしないが死んだ方がマシだと思うくらいの激痛が全身に走るような仕組みになっている。
これのえげつないところは、肉体を支配しても精神はそのままだということだ。いくら反抗し抵抗しても、肉体は本人の意思とは関係なく動く。いくら人を殺したくないと思っていても、肉体は出された命令通りに人を殺す。まともな精神を持つ者は耐えられないだろう。精神まで隷属されていれば味わうことのない苦痛、それをあえて味あわせるアイテムなのだ。何をもってこんな仕組みにしたのかはわからないが、彼に首輪を付けた者は相当性悪だということだけは確かだ。
首に残った傷、これは罰を与えられた際に苦痛にもがいてできたものなのだろう。痛々しい爪痕が幾つも走り、葵は思わずグッと眉を寄せた。
そっと首輪の表面をなぞる。無骨ながらも継ぎ目は一切なく、見ただけではどう外せばいいのかわからない代物だ。この首輪に正攻法な解除法はない。首輪の主が死ねば命令を下すものが居なくなり、首輪の役目を果たさなくなるくらいしかまともな解決方法はないようだ。
しかし、ここに落ちてきた時点で首輪の機能は停止しているようで、ただの趣味の悪いアクセサリーと化していた。
「……いくら壊れてるっていっても、あんまり気分はよくないよねぇ。……うん、外そう」
そういうやいなや、葵はそっと首輪に触れながら目を瞑る。
「《分解》」
彼女の吐息ほどの呟きと共に、首輪はキンと音を立ててバラバラになる。部品というよりは元の素材に戻ったそれを拾い上げ、ザッと簡単にまとめた。
「《合鍵》《構築》」
手を翳してそう唱えれば、素材は一気に形を歪めてシンプルなスケルトンキーに形成される。電灯を浴びて鈍く光る鍵を拾い上げると、右手で弄びながら男に視線を落とした。
眠る青年の額にそっと手を添えると、触れた箇所がひんやりとしており、熱はないが濡れた所為で随分と身体が冷えているようだった。
首の怪我を手当てし終えると、部屋の暖房を少し高めに設定し、羽毛布団をしっかりと首まで被せる。布団の上から青年の胸の辺りをポンポンと優しく叩くと、苦しげに寄せていた眉間の皺が少しばかり取れた気がした。
「ったく、人の【落としもの】がくるなんて聞いてないよ、父さん……」
乱雑に頭を掻きながらそう呟いた葵は、部屋を出る前にもう一度男の方へと振り返る。
せめて日本語が通じる相手であるといいけど……葵はマイペースにもそんなことを思いながら、目覚めぬ男を残してリビングへと戻った。