#08
霧雨がまだ止まない中、フドミトクは夜番に就いた。王宮とノヴィの王宮のある一画は、夜になると昼間の活気が嘘のように静まり返る。しかし、王国一、どころか東の大陸一の大都市であるノヴィには、当然夜通し喧噪の耐えないかなりの規模の繁華街があり、そこで発せられたざわめきが、このような湿気の多い夜には、風に乗って距離のある王宮にまで届いてくる。微かに耳を騒がせるそれを聞きながら、フドミトクは敬礼で当番を終えた同僚を見送ると、新公爵が滞在している部屋の外に、同じ任務を帯びた相方と二人、直立不動で立った。建物内部とはいえ、湿った冷気が石造りの床を通して足下から忍び入ろうとし、騎士たちの揃いの防寒に優れたブーツに拒まれていいた。夜の寒さも、貴人の警護として夜番に立つのも、慣れたものである。気負うこともなく、フドミトクと相方の騎士は、時間を過ごして行った。
有に夜半を過ぎた頃、かちゃりという小さな音が廊下に響き、次いで夜番をしている扉が突然開いた。フドミトクと相方は、その手の訓練を受けていなければ、間違いなく跳び上がっていたと思うほどに驚いた。そして、そのような訓練を受けておらず、扉の外に誰かいるとは思っていなかったらしい、扉を開けた張本人は、文字通り跳び上がった。
「どうなさったのです」
一瞬で平常心を取り戻したフドミトクが問い掛けると、跳び上がった着地後も、驚きのあまり目を見開いて固まっていた新公爵の表情が、困惑に変わった。
「え、あ、えと…」新公爵は、視線を下に向け、なにやら口の中でつぶやいてから、やおら顔を上げるとはっきりと言った。「ちょっと、外の空気が吸いたくて」
『…』
フドミトクと相方は、無言で小柄な、まだ少年にしか見えない姿を眺めた。じろじろ見るのが欠礼に当たるのは知っていたが、そうせずにはいられなかった。フドミトクは静かに言った。
「お加減が悪いときに夜風は毒です。お戻り下さい」
もともと、新公爵の具合の良し悪しに限らず、無闇に部屋から出させるなとの命令を受けている。結婚相手として招いておいて酷い扱いではあるが、例え王宮内であっても、この結婚に反対する一派が強硬手段をとらないとも限らないので、ふらふら歩き回られては困るのだ。
「でも…」言い掛けて圭介は、別にこの二人を説得する必要がないということに気が付いた。なにせ今の自分は『公爵』で、王の結婚相手なのだ。この騎士たちに行動を制限する権利はない。圭介は扉を素早く抜け、一息に部屋から出ると、すたすたと廊下を一方向に向かって歩き出した。圭介は見ていなかったが、騎士二人は、笑劇かと思われるような慌てぶりを披露した。フドミトクは焦って新公爵を追いかけようと、一歩踏み出して、固まった。振り返り、相方の騎士と顔を見合わせる。相方もまた硬直していた。フドミトクと相方の騎士二人は今回、『新公爵の滞在している部屋』の警護を命ぜられていたのだ。仮に新公爵が外出する場合は、別途、付き従う騎士が任命されることになる。まさか夜中に新公爵が部屋から出ようとするなどとは考えられていなかったため、今そのための騎士はいない。扉から離れて警護対象を追ってよいのか、逡巡が騎士たちの動きを阻んだ。
「貴殿はここにとどまれ。ビンオン公は私が連れもどす」
一瞬の考慮の後、決断したフドミトクは相方に告げた。王宮内の所々には立ち番の衛兵がいるので、そのどこかで止められはするだろうが、衛兵に全てを投げ渡すわけにはいかない。相方が軽くうなずくのを確認すると、フドミトクは足早に新公爵の後を追った。
圭介は、騎士二人をかわすと小走りで廊下を進んだ。本格的に駆け出さなかったのは、絨毯引きとは言え、夜中の静寂の中で廊下の高い天井に響く足音が、思いのほか大きく聞こえたためで、更に人を呼ぶことを恐れたからだった。エト・ドレザクの王宮は石造りで荘厳とか重厚といった言葉が似合うが、華美な装飾が施されているわけではなく、特に所々に灯されたランプの光しか光源のない今は、ただ暗く、重々しかった。圭介は一心不乱に足を動かした。特にどこかへ向かう目的があったわけではない。ただ、寝室にいても、あの少女の面影がちらつき、眠るどころではなかったので、少しは気分転換になるかと、外に出ようとしたのだ。部屋を出るなとは言われていたが、まさか見張りまで立っているとは思わなかったので、先程は酷く驚いてしまった。
後ろから響いてくるもう一つの足音を耳に捉えつつ、圭介は角を曲がった。曲がる際に少し視線を動かして、追跡者の姿を確かめようとしたが、結局廊下の暗闇以外は見えなかった。改めて視線を進行方向に戻し、圭介の心臓は一瞬動きを止めた。
白い人影があった。
廊下に穿たれた窓の正面、ちょうど雲が切れたらしく、微かに射した月光と、壁のランプの明かりが重なって、それなりの光量がある。その光の中に、白い人が浮かび上がっていた。
「ビンオン公?」
超常現象的なものを連想し、思わず悲鳴を上げかけた圭介の耳に、その涼やかな声が届いた。思わず止めていた息を吐くと、人影を観察する余裕ができた。
全身に、白い服を纏っている。太陽教拝光派の神官の服に似た、長衣である。ただ刺繍などがなく、見事に白一色で、首回りに衣服のものよりも薄い布地のやはり白いベールともショールともつかない布がかけられている。唯一さらしている肌は顔のみで、それも白く、髪も銀色で真っ直ぐ腰まで垂らしているため、一見すると石膏像か、圭介が勘違いしたように半透明の幽霊のように見えた。顔立ちはまごうことなく整っているが、神殿で見かけた少女のような愛らしさはなく、さながらよく出来た芸術作品のようだった。
「ヴィシゲル辺境伯…」
圭介の後方から声が聞こえた。追いついたフドミトクの顔は、後ろ向きの圭介からは見えないが、蒼白に変わっていた。ヴィシゲル辺境伯と呼ばれた人影は片手を胸に当て、片足を引き、エト・ドレザク式の貴人に対する礼を圭介に対して取った。髪が流れて、圭介やフドミトクよりも先の尖った耳が露になった。
「お加減はよくなられたのでしょうか」
「え、あ、まあ」
小走りと驚愕の影響で、のどがからからに乾いていたが、なんとか圭介は言葉を発した。
「それはよろしゅうございました」
艶然と微笑むと、再度礼を取り、ヴィシゲル辺境伯は足音一つ立てずに去って行った。邂逅からしてそうだったが、どこか現実のものではないような情景だった。その後ろ姿をぼおっと眺めながら、どうしてエト・ドレザクには、こうも美形が多いのだろうと、圭介は自問した。
「お願いですから、お戻り下さい」
立ち竦んでいる圭介の正面に回り込み、フドミトクは膝をついた。
「あのひと、誰?」
圭介は、フドミトクを気に留めることもなく、既に見えなくなった白い人影が去って行った方向を見やったまま、半分上の空で、問い掛けた。
「ヴィシゲル辺境伯です。ええと、つまり、その…」フドミトクは言葉を濁すと、真っ直ぐに圭介を見やった。「とにかく、お戻り下さい」
圭介は、なおも言い募ろうとしたが、その時自分を見上げるフドミトクの顔に気付いて、止めた。あたかも首切り役人を目の前にし、慈悲を乞う死刑囚のようだった。圭介は嘆息し、面倒臭そうに踵を返した。フドミトクは慌てて立ち上がり、付き従った。
「今日、もう昨日か、神殿に来ていた人は誰か、全員分かっているか?」
二三歩歩いたところで、不意に思い付いて、圭介はフドミトクに尋ねた。
「…エト・ドレザクの貴族、官僚、神官方でございます」
フドミトクは一瞬だけ戸惑ったもののすぐに応じた。
「金色の髪に緑色の目をした女の子がいたけど、分かる?」
「緑色の瞳であれば、リアイイ子爵、エミュザ・レスベルイイ・リアイイ様です。先日、ご成人とともにご成婚されまして、子爵位とカヴァク領を御母堂様より譲り受けられました。緑色の瞳は彼の御方と御母堂様のお二人のみ受け継いでおられる貴重なものです。カヴァク領はノヴィから…」
フドミトクは、圭介が部屋に戻る気を変えないようにと、絶え間なく言葉を続けていたが、圭介は半分も聞いていなかった。ただ、エミュザ、という彼の美少女の名前は心に刻んだ。