#07
圭介が使用している部屋の暖炉には火が入れられていた。石炭に加えて焚き付けとして使われた、柔らかい若木の薪の燃える匂いが混じった乾燥した空気が、石造りの壁によって、湿度が高く温度の低い野外の空気と見事なほどに分断されている。暖炉の前には圭介が昨日から愛用している座り心地の良い安楽椅子が、今はさらにクッションが二つ三つ追加されて設置されている。
「寝台でお休みになられますか?」
部屋にはルラ刀自がいた。リドチア官長を初めとする、エト・ドレザクで王宮内の総務を担当する役人たちは、総じてルラ刀自を圭介の傍に置いておきたくない様子だったが、今回ばかりはそのような素振りを見せていない。結婚式が完了し、馬車で王宮に戻って来た圭介が、顔を天井に向け、ぐったりと安楽椅子に沈み込んでいる。顔色は悪くなく、どころかむしろ紅潮している風なのだが、熱が高く、目が虚空を彷徨っている。式の途中で急にこのような状態に陥った圭介に焦ったリドチア官長はすぐに、部屋で休めるよう準備を申し付け、ルラ刀自を呼び寄せておいたのだった。
「寝台でお休みになられますか?」
ルラ刀自は再度問い掛けた。ようやく、焦点が合っていないながらも圭介がルラ刀自の方に目を向けた。問い掛けられた言葉を内で反芻しているように、しばらく間を置いて、圭介は首を振った。振り終えると目を閉じて安楽椅子の背もたれてもたれかかった。
具合が悪くなったわけではない。ただあの少女の姿を視界に入れた途端に、体中に衝撃が走り、その余韻から抜け出せないでいるだけなのだ。そういえば、と圭介は述懐した。皆が口に出さないので忘れていたが、この世界には魔法がある。あの少女は魅了か何か、その手の魔法の使い手ではないか、今の自分のこの状態は、その魔法にかけられた結果なのではないか、とのとりとめのない考えが、頭をよぎった。
他者からすると高熱から昏睡状態に入ったようにも見えるその姿に、ルラ刀自の傍に控えながら、取り乱した表情を隠しきれていない無角童人種の侍女が遠慮がちに申し出た。
「あの…わたくし、発熱によく効く薬湯を持参しているのですが…」
「シレ、あなたボソの出身でした?」
内心はとにかく冷徹な表情を崩さないまま、ルラ刀自はビンオン領内で唯一薬草の卸業を行っている村の名をあげて問い掛けた。シレと呼ばれた侍女は首を振った。
「いえ、カガです。ネン老と同郷でして、村に魔法使いが住んでいるのです。彼のひとが薬の調合をしていまして…」
「…魔法使い…あなた、本気で言っているのですか?魔法使いが調合した得体の知れない薬を、ケイ様に、飲め、と」
ルラ刀自は声を荒げたりはしなかった。ただ静かに、一切容赦のない声を口調で、淡々と、問い詰めた。ルラ刀自の言葉が進む内に、シレの顔色は、圭介より余程具合が悪く見える色調に変化していった。微かに震え、怯えた様子のシレを無表情に眺めながら、ルラ刀自は内心、溜め息を吐いた。侯爵家であれば、このような馬鹿げた提案をしてくる女官も侍女もいないのだが、身替わりの発覚を恐れ、従者も侍女も全てこの件のために雇った新顔の、本物のケイをよく知らない者ばかりのため、この様である。何より悪いことは、このシレですら、お供の使用人たちの中では仕事が出来る方に属していることである。従者たちなど置物よりも役に立たないのだ。
「一人にして下さい」
ぼそりと、安楽椅子からつぶやきが聞こえた。はっとして、ルラ刀自以下、ビンオン領からやってきた一同と、正に今入室して来たリドチア官長と王宮付きの医師が、圭介を見た。リドチア官長は、何かを言い掛けたが止め、己が連れて来たばかりの医師と、ルラ刀自たちを促し、退室した。部屋には圭介と、所在無さげに立っている従者二人が残された。