#04
「エト・ドレザク王国の王都、ノヴィまでは二週間ですよ」
圭介の向かいに座っている『ケイ・ヌトの乳母』ルラは、馬車の揺れからくる腰の痛みと吐き気と戦う圭介にとって絶望的とも言える情報を伝えて来た。もっともその内容は既に承知している。ネン老人に連れられヌト侯爵の館に『ケイ・ヌト』として帰還してから今まで、圭介はひたすら今後必要となるであろう各種情報を覚えさせられていたのだ。
「もう一度確認致しましょう」ルラは圭介に対して容赦がなかった。「ご芳名とご身分、種族をどうぞ」
「ケイ・ヌト。無角童人種で、ビンオン領主、ズン・ヌト侯爵の五男」
「ご結婚のお相手は」
「エト・ドレザク王国の第十三代目の王、セニュイア。種族はもちろん竜種で黒曜翅族。御歳四十二歳」
圭介は乾いた笑いを漏らした。つまるところ、本物のケイが出奔した理由がこれである。ケイは圭介と同い年らしいので、四半世紀以上も年長の女性と結婚することになっていたのである。
…そりゃ逃げるよ…。
一介の地方領主の息子で、しかもいわゆる妾腹という生まれから、他国に婿入りするのに何が不満だったのかと初めは思った圭介だったが、婿入りの相手が『姫』ではなく『王』と聞かされた時点で嫌な予感がし、相手の年齢を聞いて納得した。というより自分も逃げたくなった。逃げなかったのは、詳細を聞かされたのがヌト侯爵の館に着いた後で、ネン老人の他、領主の館の使用人たちと、何より今眼前にいるルラ刀自の、ネン老人以上に家宰的とも言える徹底的に厳しい監視の目があったからである。そして何より、ネン老人から結婚式は挙げるものの、その直後に死を装って、速やかにエト・ドレザクから脱出する計画であるということを聞かされたからであった。
そもそも、この結婚はエト・ドレザク王国側から両国の友好の証のためと申し出られたものであった。だが二十年ほど前までフエ連合王国の軍が首都を含む東半分を事実上支配下に置いていた『格下』の王国相手に、なぜ結婚相手をやらなければならないのか、むしろ向こうが送ってくるのが筋だろう、というのがフエの首脳陣の半分を占める意見であった。残り半分の、縁談を断って無駄に事を荒立てる必要もない、という意見が採用されたのは、エト・ドレザク側が所望した結婚相手が無角童人種だったためである。無角童人種のフエ内での立場は弱い。フエの主要構成種族の中で人口は一番多いのだが、三十を越す領主・地方豪族の中ではヌト侯爵ともう一家、ブラン子爵の二家しかない勢力である。数は多くとも体が小さく、力も弱く、寿命も短い、それが無角童人種である。ただ一つだけ『他種族とでも子を成せる』という最大の特性があり、今回、結婚相手として特に種族として指定された。そしてフエ内での立場の弱さ故、結婚相手を出すように命じられたわけである。
ヌト侯爵家の治めるビンオン領は二百年前にこのフエ連合王国を建国した『建国王』ケイ一世を排出した地である。更に本物のケイは母親が狼牙種…圭介が初めて見た際に『犬耳で八重歯の獣人』と思った種族…の混血の無角童人種なのだが、ケイ一世も同様だった。建国王と同じ地で、同じ血液構成で、同名、というケイ・ヌトはエト・ドレザクに送られる友好の証としてはこれ以上ない肩書きだったのだ。
中央政府によって勝手に決められた縁談ではあるが、ネン老人は喜んだ。本物のケイの侯爵家での扱いは良くない。ケイに全うな愛情をもって接していたのはネン老人くらいで、それ以外からは、母親が第一夫人でないどころか、夫人ですらない他種族の一市民であるということで、疎まれていた。なのでいっそ、事情の全く異なる他国での方が幸せに過ごせると思ったのだ。ただ、ケイ本人はこの縁談を全力で拒否したため、それならと、結婚からも侯爵家のしがらみからも逃れさせてやる計画を立てた。というより、実父であるヌト侯爵が打診して来た。侯爵はどちらかというと、フエから結婚相手を出すことに反対であったし、父親として息子への愛情はあるものの、領内での扱いに困っていたのである。そのため、結婚式のみ挙げ、すぐに死を装ってフエに戻り、フエの首都ド・ルトか南部交易都市シャ・グか、とにかく人の多い都市で他にまぎれて新しい生活を始める計画が進められていた。
計画を知っているのはケイ本人とネン老人、ヌト侯爵とルラ刀自のみである。
ケイに随行するために『乳母』という肩書きを冠していたが、実際のルラ刀自は先代からヌト侯爵家に使えて、館の一切の家事を取り仕切り、館の女官たちをまとめあげる女官頭である。家宰のネン老人が婿入りに付いて行くわけにはいかないので、現地で死を装った脱出を手助けする人物として選ばれた。もともとネン老人以上に御家大事なルラ刀自は、本物のケイがエト・ドレザク王相手に何かやらかして、ヌト侯爵家の汚点とならないかと不安を抱いていため、計画を諸手を挙げて歓迎した。本物のケイが行方知れずとなり、ネン老人に、どこからか連れて来た瓜二つの少年をケイとして扱ってくれと頼まれたが、ルラ刀自にしてみればやることは同じで、むしろヌト侯爵の血縁者ではない相手で、気を使わなくて良い分、楽だった。
「お薬は」
「ここに」
ルラに問われ、圭介は人差し指にはまっている指輪を示した。一つはモトスから渡された翻訳機能のついた魔法の指輪である。圭介がケイ・ヌトの身代わりになることを承諾した際、モトスは万一を考え『紛失しても戻ってくる魔法』も掛けてくれた。その指輪の上に大粒の宝石をあしらった指輪がはめられている。これは台座の中が空洞になっており、中に薬を仕込める、という代物である。今は強い眠り薬が入れられていて、その量全てを一時に呑めば、あたかも死んだように見える、というわけである。
「あなたは侍女ですね?」
「はい、エラ・ゾと申します。狼牙種です」
ルラ刀自に問われ、圭介は脱出の際に成り済ます予定の名前と種族を復唱した。
侍女の中に、小柄な狼牙種の少年が、護衛と説明されて、女装して紛れている。計画では、死を装った後に空の棺を埋葬、圭介はその少年が扮している侍女の名前と身分を譲り受け、少年は男の姿に変わり、新しい使用人となる。使用人が一人増えたことを疑いの目で見られたとしても、その一人が狼牙種であれば、問題にはされないだろう、という算段である。その少年と圭介では、顔立ちがかなり違うのだが、ネン老人いわく、侍女の顔など皆いちいち覚えていないし、北方のひとにとって南方系の顔は見分けが付きにくいので、化粧でごまかせば問題ない、とのことだった。どうも北方に行くにつれ、ひとの顔立ちは、モトスのような欧米系になるらしい。
圭介は衣装葛篭の奥底に忍び込まされた、犬耳が付いたかつらと、他の侍女たちに比べて一回り大きいお仕着せを思い起こした。圭介の身長は大体百六十センチだが、これは実際のケイより少し高く、無角童人ではかなりの長身になり、ルラ刀自を含む無角童人の女性たちより頭一つ分大きい。そのため、成り済ます侍女には狼牙種が選ばれた。狼牙種の女性であれば、その身長でもおかしくないとのことだった。
そこまで計画されていたのに、ケイ本人は直前で逃げ出してしまったのである。慌てたネン老人は故郷のモトスにまで助けを求め、そして圭介が現れた。どうせすぐに脱出させてしまう算段である。短期間繕えれば良い、と考え圭介に身代わりを依頼した。