#14
屋敷の一階、使用人たちの部屋のある一角、薄暗い廊下の片隅で、ルラ刀自はモン侯爵の秘書に計画を打ち明けた。特に場所を選んだわけではなく、たまたまそこで鉢合わせたからだった。秘書は狼牙種で、片目のまぶたが少し歪んで瞳に覆い被さっていた。余り良くない人相だ、と思いつつ、ルラ刀自は、モン侯爵の従者にケイの身替わりとなり、『衰弱死』してもらう計画について話した。
「…モン侯爵様には非常にご迷惑をかけることと存じます。従者をひとり、失わせてしまうことになりますので。しかし、この手段であれば、エト・ドレザク側の落ち度に出来ます。フエにとっても有利になるかと」
「大変よろしい手段だと思われます」
秘書はうなずいた。目が爛々と輝いていた。頭ごなしに反対されるとは思っていなかったが、モン侯爵に伺いも立てずにあっさりと提案を認めた秘書を、ルラ刀自は拍子抜けして見つめた。もっとも、ルラ刀自の女官として鍛えられた表情筋は、このときもしっかりと機能していたので、その内心が顔に出ることはなかった。
「それで、無角童人種の従者をひとりと、あと…」
従者と圭介を直接入れ替えるのではなく、侍女を挟むというという方法について説明しようとしたルラ刀自の言葉を、秘書が遮った。
「従者を連れて行きます。ケイ様のお部屋はどちらで?」
「あ、いえ、従者はここまでお連れ下されば結構です。わたくしがケイ様のお部屋まで連れて行きますので。それから侍女…」
「いえいえそれには及びません。ルラ殿は随分ご心労が溜まっておいでのようですし、計画は分かりました。後は我々にお任せを」
連続して、ルラ刀自が言い終える前に、被せるように言い募ってくる。ルラ刀自の顔から表情が消えた。じっとまぶたのかぶさった瞳を見つめた。
「何を、お考え?」
「何を、とは?」
この秘書は明らかに自分が新公爵の部屋に行きたがっている。何故か。ルラ刀自の疑念がその視線に反映され、鋭く秘書を見据えた。
「ルラ殿…」
その視線に、秘書は一瞬気圧された。だが次の瞬間、薄く笑みを浮かべると同時に、片手でルラ刀自の口元を押さえ込んだ。同時に、逆の手で懐から刺突剣を抜いた。ルラ刀自の皺に埋もれた小さな目が目一杯見開かれた。そのまま、心臓を剣で一突きされたルラ刀自は、声を立てることなく廊下の床に崩れ落ちた。そこまでは、秘書の仕事は完璧だった。ただその時、ルラ刀自を探していた、ケナとシレが角を曲がって現れた。油を流し込んだような、異様な輝きをする目をした秘書を見、二者は立ち竦んだ。その足元に倒れた小さなお仕着せ姿に気付き、呆然とする。
「ルラ様!」
一番先に正気付いたのは、護衛の名目で雇われているだけあり、それなりに変事に慣れていたケナだった。その声にシレも我を取り戻し、屋敷全体に響く甲高い悲鳴を上げた。
「逃げろ!」
ケナが、シレをたった今曲がった角に向かって押し返した。その動作で、ケナの視界から秘書が外れた。秘書は一瞬で距離を詰めると、体ごとケナにぶつかり様、刺した。刺さりはしたものの、ケナが防御の態勢をとったため、急所には当たらず、浅く服と皮膚を傷つけただけになった。剣が素早く引かれ、二撃目が襲い来る。ケナは相手の手首を両手で掴んで止めた。だが、同じ狼牙種であっても、小柄なケナと中背の秘書の腕力の差が如実に出た。ケナは刃は止めたものの、床に押し倒され、馬乗りになった秘書の三撃目が、綺麗にその心臓を貫いた。
シレは訳も分からず叫び声を上げながら、廊下を無茶苦茶に走った。シレの声を聞きつけたのか、屋敷内にひとが乱暴に歩き回る足音が響き、怒鳴り声が上がった。どう走ったのか、シレは正面玄関のホールにまでたどり着き、ホールに足を踏み入れ様、横手から来た人影と思いっきりぶつかって転んだ。シレより大柄な相手は転びはしなかったものの、数歩たたら踏んだ。
「あ、ルラ、ルラ様が…」
上がった息で、必死にルラ刀自に変事があったことを知らせようとして、シレはぶつかった相手がモン侯爵の従者の一人であることに気付いた。モン侯爵の従者は、シレを見とめると、無表情のまま腰のナイフを抜いた。
「何がありましたか!?」
従者が出て来たのとは反対側にある廊下から、エト・ドレザクの兵士が一人、飛び込んで来た。平服だったので非番で、詰め所か屋敷内の台所で休んでいたのだろう。全力で駆けて来たらしく、顔が火照り息が切れていたが、抜き身のナイフを携えた従者を見ると、その顔が更に紅潮した。
「何をしている!」
兵士の問い掛けに、従者は答えなかった。無表情にナイフを構える。兵士はそこで自分が空手なことに気付いた。相手が、狼牙種で、平均的…百七十センチくらい…な身長なのに対し、兵士は竜種なので、体格は比べるべくもない。だが狼牙種は動きが素早いことが知られている。
シレ、従者、兵士、その三竦みの状態はすぐに終わった。兵士の後ろから数人、モン伯爵の同行者たちが現れたのだった。兵士は相当抵抗したが、刃物を手にした多勢に囲まれ、長く持たなかった。腰が抜けて床に座り込んだまま、兵士が血と肉塊になるのをぼんやりと見ていたシレの耳に、正面玄関の厚い木製の扉が叩かれる鈍い音が届いた。エト・ドレザクの兵士たちだが、兵士たちはあくまで新公爵が外に出るのを阻止する為に配置されていた。内部での凶行は想定外で、内鍵がしっかりと下ろされた扉の向うからこちらにはやってこれなかった。シレの前に、狼牙種の従者が立った。そのナイフがまだ血糊で汚れていなかったのは幸いだった。切れ味の良い刃先に、シレは痛みを感じることもなく、意識を一瞬で断たれた。
もともと、モン侯爵は結婚相手を差し出すことには反対していた。他の狼牙種の貴族もそうである。狼牙種はフエ国内では治安・軍事関連の職務に就いていることの多い種で、フエがエト・ドレザクの西半分を統治していた時期には、今のエト・ドレザク国内に赴いていたものも多い。そんな国の下風に立つかのごとき婚姻は、どうしても許せなかった。だが今のフエの王は豹爪種であり、エト・ドレザクと無用に争うことを避け、ケイ・ヌトを送った。
別件でエト・ドレザクへの派遣の命が下り、それが結婚式に前後する日程になると知った時、モン侯爵はケイ・ヌトを討つことを決めた。王宮内でことを行い、それをエト・ドレザク国内の結婚反対派の貴族の仕業に見せかけるつもりだった。ケイ・ヌトがビンオン領へ引きこもってしまった時にはあきらめかけたが、当の本人から招待が来た。渡り船にとばかりにビンオン領まで来たが、今度は警護の余りの堅牢さに、ケイを害することは可能でも、エト・ドレザク側の仕業に見せかけることは不可と思われ、どうするか、と思案中に、ルラ刀自に疑われた秘書が暴発してしまった。こうなれば、方法は一つである。エト・ドレザクの兵士が新公爵を襲い、それをモン侯爵の手勢が救おうとして乱戦、新公爵は残念なことに助からなかった、という筋書きで押し通すことを決め、命を下した。この筋を成り立たせるためには新公爵とその従者たちに含め、エト・ドレザクの人員を全員屠るしかない。
圭介は階下の叫び声を聞き、廊下への扉を開きかけたが、屋外の、兵士たちの動揺したざわめきが耳に入り、ベランダに出た。屋敷内からの明かりと、手に掲げた懐中電灯のようなランプの光の中、庭で巡視中だった兵士二人が屋敷の正面玄関に向けて駆けて行くのが見えた。正面玄関前に多数の兵士たちが集まっている様で、何か怒号を上げているのが聞こえる。その内、硝子の割れる音が響き、怒号に悲鳴が加わった。圭介はベランダの片隅でそれらの音を聞きながら立ち竦んでいた。状況が飲み込めないが、階下で何か暴力的なことが起こっていることは分かった。
突然、居室の部屋の扉が叩かれて、圭介は反射的に身を屈めた。低い体勢のまま、身を隠そうとして、ベランダにはそれだけのものはないと気付き狼狽して辺りを見回した。その目にベランダのすぐ傍の壁を這っている蔓が入った。乾燥したもの、まだみずみずしいもの、数本が束ねたように絡まって、壁に取り付いている。あれが自分の体重を支えきれるかと推し量った圭介の耳に、扉の向うから、先程とは比べ物にならない、明らかに扉を破壊しようとしている音が届いた。屋敷の主人の居室であるため、他より頑丈に出来ている扉だが、過剰な暴力を受けて、震えている。他に手段はない。圭介は腰より少し高い石造りの手すりをまたぎ越した。片手で手すりを持ち、片手で、一番丈夫そうな数本が絡まった蔓を掴む。そうっと、手すりから片手を離して、両手で蔓を掴むと、足でベランダの床を蹴った。全身が、両手を基点に宙に舞う。床を蹴った勢いは、壁にぶつかることで簡単に止まった。蔓はまだ耐えている。そのまま余計な刺激を与えないように、慎重に下る。足裏と地面との距離が圭介の身長以下になったくらいで手を離す。壁で全身が擦れたが、特に怪我なく、地面に着地出来た。
建物の周りは灌木の茂みになっている。しゃがみ込むと、意図して覗き込まない限り、中庭から圭介の姿は見えない。一息吐いて、辺りを伺う。エト・ドレザクの兵士たちは付近におらず、屋敷の中からの喧噪が酷くなっている。と、圭介から近い窓の一つを突き破って誰かが転げ落ちて来た。切り裂かれた犬耳が見え、全身に傷を負ったモン侯爵の従者の一人だと分かった。続けて兵士が数人、破られた窓から飛び出してくる。狼牙種の従者は機動性は高かったが、武装した複数の正規兵とやりあうだけの武力は持ち合わせていなかった。倒れた従者に向かって兵士の槍がうなり、従者のふくらはぎを突いた。穂先が抜かれると、辺りに血が飛び散った。
「ひっ」
屈み込んだ目の前数メートルのところで発生した出来事に、圭介は思わず悲鳴を上げた。幸い、兵士たちが低木を踏み折る音に混じり、誰の耳にも届かなかった。まだ動いてはいるものの、抵抗する気はなくした従者が、兵士たちによって乱暴に立ち上がらされ引きずられていく。圭介はそっと、四つん這いで、兵士たちが向かった正面玄関とは逆方向に移動した。建物を回り込んだところで、辺りに誰もいないことを確認するやいなや、茂みから飛び出し、一目散に走り出した。圭介はモン侯爵がケイ・ヌトの暗殺を企てていたことなど知らない。単純に、逃亡計画が発覚し、エト・ドレザクの兵士が強硬手段に出たと思い込んだ。
月が綺麗に輝いていた。屋敷の敷地から出た圭介は、その光を頼りに、近場にあった林の中に逃げ込んだ。
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