#13
ビンオン領は、もともと王族の避寒地として開発された地域で、『僭称王』が即位していた時期には貴族の領地として分け与えられていたが、エト・ドレザクが再統一された際に王家に接収され、今回セニュイアの婚姻にあたって、新公爵の領地として分割された。ビンオン領にあるケイ・ヌト公爵の屋敷は、改築や修繕は行われたが、避寒地だった頃に建てられたそのままのものが使用されていて、エト・ドレザクの王族・貴族の屋敷としては一般的な、二階建ての石造りで特に工夫もない建物だった。主人の部屋がある位置も大体同じで、二階の一番日当りの良い部屋である。ただ、部屋の造りは避寒を目的としていたものだけあって、陽光がふんだんに入れられる硝子の掃き出し窓が大きく取られていて、その外には日光浴が出来るように広く造られたベランダがあった。もっとも今は夜も遅い時間で、窓には厚いカーテンが下ろされ、暖炉には火が入れられている。ノヴィよりは暖かいものの、この時刻になれば、野外はそれなりに冷え込んでいたが、暖炉のおかげで部屋は暖かい。その部屋で圭介は、再び着る羽目になった侍女服を前に、溜め息を吐いていた。
圭介がビンオン領に入った後、ルラ刀自と今後についての話し合いの機会を持てたのは、実に五日後であった。医師が馬車の中で言った言葉は嘘ではなかった。五日の間、ルラ刀自どころかフエから付いて来た従者にすら会えず、圭介の身の回りの世話は、ノヴィから派遣されてきた竜種の従者が行った。部屋から出ることは許されず、従者以外には医師の診察があるのみで、従者は口をきかない、医師は圭介の問いにはまともに答えないで、ビンオン公に対する噂話を聞くどころか、実のある会話一つなかった。
五日経って機会が訪れたのは、ノヴィから屋敷を封鎖出来るだけの人員が遣わされて、新公爵の屋敷は文字通り、蟻の這い出る隙間もないほどに固められたからだった。屋敷を固める兵士たちのお偉いさんが堂々と、過激化した結婚反対派の襲撃から守るため、とお題目を唱えたため、文句も言えない。監禁場所が部屋の中から屋敷内に広がっただけだが、逆に言えば屋敷内では自由に振る舞えるようになった。久し振りに会ったルラ刀自は随分とやつれていた。後に続く者がなく入室して来たルラ刀自を見て、圭介は人心地が付いて声を掛けようとしたが、先にルラ刀自から爛々と光る目で睨め付けられて、黙った。
「ご自害なされるのが良いかと存じます」
開口一番、ルラ刀自はそう言った。
「は?」
「それであれば、皆、それ以上追求致しません。」
「…」
「死体の確認をあの医師がするのであれば、眠り薬ではごまかせないでしょう」
「…」
「死体が、必要です」
「それって…」
圭介が口を挟むより早く、ルラ刀自は圭介の聞いたことのない名前を持ち出して来た。
「モン侯爵がノヴィに滞在中です」
「え?誰?」
「フエの侯爵家の一つです。バヤ領の。狼牙種ですので、狼牙種の従者は当然おります。無角童人種や、中にはケイ様と同じ狼牙種と無角童人種の混血もいるかも知れません。モン侯爵は見栄張りというか、対面を気にされる方で、何をするにも大勢の従者を引き連れていることで知られていますので」一息ついて、ルラ刀自は続けた。「こちらへ寄られるように、お手紙を出して頂きます」
ルラ刀自が何故フエの貴族のことを話しているのか、圭介は訳が分からず、黙り込んだままだった。
「モン侯爵の従者とあなたが入れ替わるのです」
「え、それ大丈夫?疑われない?」
「モン侯爵から軽率さを責められ、悔やんだケイ様は食事が喉を通らなくなり、モン侯爵が立ち去られた直後に、衰弱死されます。なので疑われる間がありません」
眉一つ動かさずにそう言い放った、ルラ刀自の深い皺の刻まれた顔を圭介はまじまじと見た。
「それって…代わりに、その従者が死ぬってこと?本、当、に、死ぬってことだよね」
ルラ刀自は、事も無げにうなずいた。
「そんな、そんなの!駄目!」
「別に入れ替わらなくてもよろしいのですよ」
声を荒げた圭介に、ルラ刀自は冷たく言い放った。圭介は一瞬その意味が分からず、困惑の表情を浮かべた。
「身替わりの身替わりを立てるなど、わたくしも馬鹿らしいと思っております。が、ネンとの約束ですからね。あなたを、無事に返すと」
ルラ刀自が言っていることを理解して圭介は青ざめた。圭介がここで死ぬことをルラ刀自は望んでいる。そもそも圭介は身替わりであって、ルラ刀自が偏愛しているヌト侯爵家の誰でもない。その誰でもない存在が、ヌト侯爵家の家名に泥を塗ったわけである。圭介は、自分が不祥事を起こせば雑作もなく切り捨てられる身であることなど、これまで考えてもいなかった。
「そう、言い忘れておりました。ネンは亡くなりました。昨日、知らせが参りました」
黙り込んだ圭介に、ルラ刀自は声を掛けた。
「え?」
「ちょうど、我々がエト・ドレザクに入った頃になります。風邪をこじらせて、あっさりと」
ネン老人はそれなりの歳なので急死は不思議ではない。しかしルラ刀自にしてみれば、長年衣食住をともにしていた同僚が、最後までエト・ドレザクに赴いたケイの身の上を心配しつつ逝った、などと書かれた手紙を寄越されたわけである。みすみす約束を違えて圭介を見捨てるわけにはいかなかった。そもそも、圭介を身替わりにした件は自分も承知していたことである。何より己の浅はかさを呪っていた。
「モン侯爵も『ケイ・ヌト公爵の突然死』での幕引きには賛成なされるでしょう。実際はどうあれ、エト・ドレザクが手に掛けたように見えれば、フエに有利になりますので。その点はご心配なく。それから、セニュイア王が、このままあなたを監禁し続けてくれるだけで終えるものか、よくお考え下さい。彼の王は、ノヴィに攻め入った際、牢の中で死に掛けていた実兄を、わざわざ処刑場に引きずり出した御方ですよ」
ルラ刀自はそう言い終えると、さっさと席を立った。圭介は椅子に座り込んだまま、呆然とその後ろ姿を眺めていた。自分が死ぬのか、自分の代わりに誰か死ぬのを容認するのか、これ以上なく困難な選択だったが、同時に自分にはそもそも選択する権利も与えられていないことに気付いて、圭介は更に青ざめた。
今、階下にはそのモン侯爵が来ている。今回の件について、フエ側に説明して貰えるよう呼びたい、という希望を、エト・ドレザクの人員はあっさり許可してくれた。エト・ドレザクにしても、理由もなくフエ連合王国から迎えた結婚相手に無体な境遇を強いているとは思われたくないわけで、反対する理由もなかった。ただ、ケイ・ヌト公爵とモン侯爵が対面している間は、誰からしらが部屋の中にいて、圭介が余計なことを喋らないように監視していた。圭介は夜分に到着したモン侯爵に、挨拶と一連の件について当たり障りのない説明をしただけで、下がっていた。後はルラ刀自が、エト・ドレザクの監視の目のないところで、モン侯爵の秘書に計画の協力を求め、終わりである。一点だけ変更があり、圭介はモン侯爵の従者ではなく侍女に成り済ますことになった。モン侯爵の侍女の一人に、圭介と顔立ちが似ている無角童人種のものがいるのをルラ刀自が目敏く見つけたのである。その侍女は圭介より小柄なので、少年の従者に化けてもらう。そして背格好が圭介に似た無角童人種の従者のひとりはケイ・ヌトとして屋敷にとどまり、後はルラ刀自がつつがなく処理することになっていた。
圭介は再度溜め息を吐いた。今夜、何度目か分からない溜め息である。モン侯爵は日程の都合で明日朝一番にはビンオン領を発つので、今夜からもう圭介は侍女と入れ替わらなければならない。モン侯爵が計画に手を貸さない理由はないので、さっさと支度をして待っていること、とルラ刀自には言い含められている。今回、侍女が無角童人種なので、かつらの犬耳はシレが縫い目をほどいて取り外したうえ、色も染め粉で黒くしてくれていた。ケナは焦げ茶色の髪だったが、無角童人種の侍女は黒髪だったのだ。
もう一度、圭介は深く溜め息を吐き、覚悟を決めて着替え始めた。使う予定がなくなった睡眠薬入りの指輪を外す。自動翻訳機能付きの指輪が、侍女服とあっていないことに今更気付いて、少し考えて足の親指にはめた。身に着けていさえすれば良いとは聞いていたので、問題はないと思われた。黒髪に変わったかつらを被ると、焦げ茶の髪のときと随分雰囲気が変わることに気付いた。今、屋敷内にいるエト・ドレザクの要員たちの中に、前回の圭介の女装を見掛けたものがいる筈はないが、いたとしてもこれでは分からないかもしれないと思った。鏡の前で、もともと少しきつい上に指輪の分だけ更に窮屈になった靴になんとか足を押し込み、外に出る準備を整えた時、階下で叫び声が上がった。




