#11
その日の夕方、夕食までまだ少し間があり、押し寄せる夕闇に他者の顔の判別がしにくくなる時間帯、圭介はルラ刀自付きの侍女、ケナを呼んだ。狼牙種の、脱出時に圭介が成り済ます予定の『侍女』である。
「ルラの具合はどう?」
圭介がそれらしく尋ねると、疑いもなく答えてくれた。しばらくとりとめのない会話の後に、お茶を淹れてもらうと、一杯分、ケナに勧めた。本来、侍女が主人格の相手とお茶をするなど考えられないことなので、ケナも初めは遠慮したが、昼間シレにも勧めたので平等に、と言うと、納得してくれた。お茶には少しだけ、いずれ圭介が使う予定の睡眠薬が入れてあった。従者たちはすでに同じ薬を仕込み済みである。指輪の台座に入った分だけで仮死状態になるほど効果の強い睡眠薬は、あっさりとケナを眠り込ませてくれた。圭介は手早く侍女服に着替え、かつらを被った。こんな状況で女装の予行練習が出来るとは思わなかった。
身だしなみを整えると、何食わぬ顔で、扉を出る。扉の両隣に騎士が一人ずつ、警護に立っていた。一人は今朝紹介されたトマズハッツだったが、圭介はよく見ていなかった。騎士たちも、先刻入室した侍女が出て行くと思い込んでいて、よく見ていなかった。圭介はあっさりと監視の目から逃れられ、内心でガッツポーズをしつつ、廊下を歩き始めた。後はシレから聞いた通りに進むだけである。圭介は、シレがエミュザのと思しき侍女と会話をした場所にまで行き、侍女を待つつもりだった。侍女に会い、なんとかして、エミュザのもとにまで連れて行ってもらうのだ。実際問題、待ったところで、その場所に件の侍女が通りがかる可能性は限りなく零に近かったのだが、何もしなければエミュザと会う可能性は完全に零である。やるだけやってやる、と圭介は心に決めていた。
右に左に真っ直ぐに、と進んで行く。程なくして突如視界が開け、別の建物とつながる屋根付きの回廊の一端に出た。圭介の顔が一瞬で青ざめた。予定ではここで、シレが会話をした広めの廊下に出る筈である。回廊を廊下と言ったのかとも思ったが、シレは廊下の特徴として、大きな壁掛けの織物があったとも言っていた。どこかで道順を違えて別の場所に出たと考えた方が良さそうだった。
ちょうどその時、回廊の外から、交代を終えて休憩所に戻ろうとする騎士が歩いて来ていた。黒曜翅族としても大きい、二メートルほどもある大男だったのだが、圭介は、進むべきか戻るべきかの判断に迷っていたため、声をかけられるまで気が付かなかった。一方、騎士からすると、困惑した様子できょろきょろと辺りを見回す、狼牙種の耳と、南方系の顔立ちを持つお仕着せ姿の侍女は、かなり目立っていた。
「ここで何をしている」
問われて圭介は跳び上がった。反射的に逃げ出そうとしてしまい、視界に飛び込んで来た強面の大男に圧倒され、足がすくんでしまう。もっとも逃げ出したところで怪しさを増すだけで、すぐ捕まったと思われるので、動けなかったのは却って良かったとも言える。
「あ、えと、あ…」
「ビンオン公の乳母の侍女だな」
戸惑い、意味不明に言葉を発する圭介に対し、騎士は正確に指摘して来た。今、王宮に滞在している南方系の者と言えば新公爵が筆頭なので、当然と言えば当然なのだが。
「こんなところまで何をしに来た?」
「えと、えっと、侍女…違う騎士、騎士様を探していまして。ごめんなさい。すぐに戻ります」
侍女から騎士に変えたのは、待つつもりの侍女の名前を知らなかったからである。圭介が迂闊にも聞き忘れたのではなく、シレがそもそも覚えていなかった。騎士たちがそうであるように、侍女たちの名前も、フエの者からすると酷く長くて複雑だったのだ。
「騎士?名は?」
「フド…フミ?あ、ハヴァン。ハヴァン騎士」
更に尋ねられ、咄嗟に出たのは今朝聞いた名前だった。なんとかハヴァンの家名だけは覚えていたらしい。
「ああ、それなら、こっちだ」
圭介にとって不幸なことに、この騎士は、いかつい顔に似合わず親切だった。おまけに、シレが他の侍女と気軽に話していたことからも分かるが、もともと、新公爵やルラ刀自への警護は堅固であっても、侍女や従者に対してはそうではなかった。貴人の行き交う場所であれば問題だが、今圭介たちがいる一帯はいわゆる裏方が働く領域であり、侍女が休憩中の衛兵や騎士に会いに来ることも別段止められていなかったのだ。
圭介は内心、冗談じゃないと叫び出したかった。圭介は自分から名前を出した騎士の顔を覚えていなかったし、会って何を言えば良いのかも思い付かなかった。だが圭介の内心など分からない騎士は、さっさと圭介を促して歩き出してしまった。圭介は仕方なくその後ろを着いて歩き出した。必死で頭を巡らせて、あれこれ言い訳を考えたが、上手いものは思い付かなかった。
屋根付き回廊を進んで、圭介が出て来た建物から、別の建物に入る。石造りの床で、絨毯などは引いておらず全体的に質素だったが、圭介はそれらを見やる余裕はなかった。ざわめきが聞こえて来て、扉が一杯に開かれている部屋の少し手前で、大男の騎士は足を止めた。部屋は騎士たちの休憩所だった。
「ちょっと待っておれ」
騎士はそういうと、扉の外に圭介を置き、己は半身を扉の中に入れ、その体躯にふさわしい大声で呼びかけた。
「ハヴァン、客だぞ」
部屋の中から聞こえるざわめきが一瞬止み、内部でひとが動く気配がして、再び話し声が上がり始めた。程なく足音ともに人影が出て来た。圭介は腹をくくって顔を上げ、その姿を見、固まった。金色の鱗。背は圭介より頭一つ以上高い。圭介が毎日見ているものとは少し異なる騎士の正装を身に着け、金髪を後ろで纏めた、女性だった。
「ルラ乳母の侍女か。どうかしたのか?」
ルラ刀自の護衛を担当している騎士の一人、ピエレテ・ハヴァンは、圭介がケナと疑わずに尋ねた。ピエレテがルラ刀自の担当だからこそ、大男の騎士も圭介が『ハヴァン』と名指ししたことに疑問を抱かず、素直に連れて来たのだった。ピエレテは己の問いに答えず、きょとんとしている狼牙種の侍女を見て、事情を悟った、と思った。
「フドミトクの方か」
これまでの経験から、フドミトクに懸想した侍女が思いの丈を伝えに来たのだと思い込んだのだった。特にフドミトクは異動になり、ビンオン公は静養が決まっている。出発の前になんとか、と思い詰めてやってきたと考えるのは自然な成り行きだった。
ピエレテに確認され、圭介は思わずうなずいてしまった。うなずいてから、フドミトクのもとにまで連れて行かれてはまずいと考え慌てて否定したが、ピエレテはただ笑っていた。
「気にしなくても良い。よくあるのだよ。わたしとフドミトクは従姉弟でね、家名だけだと間違えられる。フドミトクだが、あいにく外回り担当になってしまって、こちらにはもう来ないのだ」
ある意味、圭介に取っては幸運だった。新公爵の顔を知っているフドミトクが、圭介を見破らないとも限らない。ピエレテは圭介をケナと思い込んだが、これは人懐っこいシレに比べて、無口なケナの印象が薄かったせいもある。ケナは声で性別を疑われることを恐れて、極力声を出していなかった。
「済まないね、部屋まで送って行くよ。正直なところ、余り気ままに出歩かれては困るのだ」
圭介が一言も発さないうちに、ピエレテに決められてしまった。だがひとまず、正体がばれないうちに部屋に戻れそうで、圭介は安堵した。




