#10
夜中の徘徊が祟り、圭介の寝起きは最悪だった。ルラ刀自からそれはもう厳しく申し渡されてある従者たちは、圭介が眠たそうだろうが、体調が悪そうだがお構い無しで、きっちりと時間通りに起こしに掛かった。ノヴィへの旅路の間には従者たちの方が寝坊し、圭介が時間通りに起きていることなど何度もあったのに、こういう場合に限ってしっかり時間厳守である理不尽さを圭介は嘆いた。無理矢理着替えをさせられ、上手く働かない睡眠不足の頭を抱えたまま、寝室から続きの居間に入ると、既に朝食が並べられていた。起床直後に過ぎるのと、スープを含め冷たいものばかりの献立のせいで、食欲が湧かないが、食べなければ後で空腹になることは分かりきっていたので、手を付ける。朝食を終えるとくつろぐ間もなく、リドチア官長が目通りを求めて来た。
「陛下がビンオン領での静養を勧められております」通されたリドチア官長は、見事な角を生やした顔を真っ直ぐ圭介に向けて言った。「公爵様のお加減が良くないとのことで、特別に」
ビンオン、と聞いて、フエのビンオン領を連想してしまい、圭介はしばらく混乱した。
「えっと、静養?ビンオン領って、ああ、エト・ドレザクの」
「左様です。公爵様の新しい御領地でございます。ノヴィからは一日かかりますが、ノヴィより暖かいのです」
ようやく、エト・ドレザク王国内の新しい領地のことを言っていると理解した圭介に、リドチア官長は言葉を続けた。
「…」
圭介はどう応えればいいのか迷った。結婚式は済んでしまっているので、あとはもう機を見て逃げるだけなのだ。運良く、というべきなのか、圭介が実際に体調が悪いので、今ここで『急死』しても誰も疑惑は抱かないと思われたが、逃げ出す元が、王宮とその領地の屋敷とどちらが良いのか、判断が付かなかったのだ。ひとまず保留して、ルラ刀自の意見を聞いて、と考えた。
「ビンオン領は、昔、火竜が棲んでいたといわれる土地でして、今も土が熱を発している場所があり、温かい水が吹き出すくぼみなどもあります。そのために気候が温暖で、南方よりお出でになった公爵様のお体には、よろしいかと」
「行きます」
圭介は一転、即答した。リドチア官長が言及した地形はつまり、火山と温泉である。東の大陸に来て以来、風呂どころか温水でのシャワーすら経験していない圭介には、喉から手が出るほど欲しい、魅惑的なものだった。圭介の快諾に、リドチア官長は礼を持って応えた。
「そう、忘れるところでした」
退室しかけ、リドチア官長は扉の脇に立っている騎士の一人を紹介した。
「フドミトク・ハヴァンが配置換えになりまして、このトマズハッツ・ドヴェレネネオスが新しく護衛の一人に加わります。お留め置きますよう」
圭介は形式的にうなずいたが、正直名前は覚えられなかった。
「エト・ドレザク王は、本日、貴族の方々の爵位継承のための式に出られているそうですよ」
シレがそう言ったのは昼もだいぶ過ぎたころだった。静養の件を承諾した後、リドチア官長と入れ違いで入室して来たルラ刀自に事のあらましを説明すると、ほっとした様子で判断を誉められ、勝手をしたことを咎められるかと思っていた圭介は少々拍子抜けした。ルラ刀自はと言えば、王宮の、というより圭介に対する警護が殊の外厳しいことで、死を装うことが可能なのか憂慮していたのだ。警護の厳しさは、圭介たちの到着が遅れたことで、結婚反対派の貴族が勢い付き、中立の者たちの不安を煽った結果だったのだが、そこまでは思い至る由もない。王宮以外、それも王都の外ということであれば、仮に王家から医者を送られても、なんとかごまかしがきくと思った。
ビンオン領への移動が決まったことで、少し心の軽くなったルラ刀自は、今は自室に戻っている。圭介ほどではないにしろ、高齢のルラ刀自にはノヴィの寒さはやはり堪えているようだった。代わりにシレが部屋の中をちょこまかと動いていた。従者たちは相変わらず、何も考えていない表情で控えている。リドチア官長や、ビンオン領までの護衛の兵を出さなければならない軍の責任者は忙しかったが、圭介は気分もよくゆったりと過ごしていた。体調が良さそうな圭介を見、シレも気が緩んだのか、ついそんなことを話しかけて来た。
圭介の脳裏に、不意にエミュザの姿が現れた。フドミトクが話した、エミュザが爵位を受けたばかり云々が記憶のどこかに入力されていたらしい。途端、温泉に浮かれてまるきり失念していたが、王宮を離れるということは、エミュザと出会う機会が全くなくなるのだ、ということに気付いた。気分が一気に落ち込んだ。
「魔法があればな」
圭介は独り言ちた。モトスが使った捜索の魔法がもし自分も使えたら、と思う。そうすればエミュザが今どこにいるか分かり、会うことも出来るのに、と。
「あの、魔法に興味がおありなのですか?」
「あ、いや」
シレに尋ねられて、聞かれていると思わなかった圭介は焦った。シレは圭介の動揺に気付かずに、勝手に納得した。
「それでエト・ドレザクに来られることにしたのですね。わたしも驚きました。エト・ドレザクには本当にいろいろな魔法の道具があるのですもの。まるで『さまよえる荷担ぎ商人』がくれるような品々が、そこかしこに置いてあるので、驚きましたあ」
魔法の道具があることに、シレとは別の意味で、圭介は驚いた。モトス以外に魔法使いと思しき相手に出会わなかったし、皆、魔法のことを口に出さないので、余りおおっぴらにする存在ではないのだと思い込んでいた。圭介の感覚の問題だった。圭介は、王宮のそこかしこに一晩中ランプが点いていても疑問に思わなかったが、シレからすれば、匂いのない高級な油をどれだけ使っているのかと、感嘆する点だった。そしてランプが全て魔法の道具で油は必要ないのだと聞かされ、心底驚嘆したのだった。
「そういう話題はどこで仕入れてくるんだ」
「騎士様です。ルラ様にも護衛がいらっしゃるんですよ、女性の騎士が。その方たちが教えて下さいました」
シレは誇らしげに語ったが、圭介は、自分へのエト・ドレザク王国の扱いを見るに、守るというより行動を制限させるために付いているのだろうと思った。
「女性の騎士…やはり貴族の、貴婦人の護衛はそういう人たちが務めるのだろうか」
「いえ、外国からの要人のみだそうです」
エト・ドレザクの王宮では、貴族は自分たちの領地から護衛を含めて連れてくるのが一般的だった。内乱中、ノヴィにいたのはフエ連合王国の軍で、信用など皆無であったための名残である。
圭介は落胆した。エミュザ付の騎士がいれば、情報を得ることが出来る、と考えていたのだ。
「さっきの、さまよえる…商人?って何?」
しばらく無言ののち、圭介は尋ねた。知らない単語が出て来ていたので一応の確認である。シレは大きくない目を精一杯見開いて、驚きの表情を表した。
「『さまよえる荷担ぎ商人』です。あの、ご存じないのですか?大きな袋を担いで、襤褸を着ているんです。子供たちが外で遊んでいると、ふらっと現れて、良い子には望みのかなう魔法の道具を袋から出してくれて、悪い子は捕まえてその袋に入れて攫って、魔法の道具の材料にしてしまう、あれです」
「ああ、うん」
圭介は曖昧に返事をした。民間伝承の一つでサンタクロースと子盗り鬼が混ざったようなものらしい。当然だが圭介は知らなかった。
「でもエト・ドレザクにも『さまよえる荷担ぎ商人』のお話があるのですよ。こんなに魔法の道具があるのに、不思議ですよねえ。他の貴族の侍女に聞いたのですけど、その方のご主人様はとてもお美しい方で、そのお母様もとてもお美しい方なのですが、美しいもののみ映す鏡、を、子供の頃『さまよえる荷担ぎ商人』から貰ったのだそうですよ」
「そのご主人様って、緑色の目の持ち主とか?」
圭介は思わず身を乗り出して尋ねた。
「あ、はい!ご存知でしたか。緑の瞳はお二方しかいないそうですねえ」
シレは圭介が積極的に話しに乗ってくれたことが嬉しかったのか、明るい調子で応えた。
「その侍女とは、どこで話しをしたの?」
「扉を出て…」
シレはエミュザ付と思われる侍女と会話を交わした廊下の一画までの道順を説明した。それを頭の中で再現している圭介の耳に、ネン老人の言葉が聞こえた。
「侍女の顔など誰も気にしていない」




