イシュカ・リンステッドは未来を憂いながらお茶を飲む
◇◆◇
赤薔薇の咲き誇る庭園のコンサバトリーで、年端もいかぬ幼い少女が優雅な仕草でアフタヌーンティーを楽しんでいる。
鮮烈なワインレッドの艶やかな髪に、甘く蠱惑的なヘイゼルの瞳を持つ少女。歳の頃は十を少し過ぎたくらいか。ふっくらと柔らかそうな白い頬や、瑞々しい果物のような唇がなんとも可憐だ。
少女の顔立ちは歳相応に幼いが、そのくっきり二重の大きな瞳には、歳以上に理知的で落ち着いた色を宿しており、どこかアンバランスな雰囲気がある。
テーブルには繊細な花の模様があつらわれた美しい茶器の他に、サンドイッチやスイーツなどが載せられたケーキスタンドがセッティングされている。少女のすぐそばには、彼女のレディースメイドが控えており、甲斐甲斐しく主の世話を焼いている。このメイドの淹れるお茶はとても美味しく、少女はお茶の時間を毎日とても楽しみにしていた。
そして少女の向かいの席でサンドイッチをつまんでいるのは、この空間に違和しかもたらさない全身黒づくめの男。
「――イシュカ、おまえの魂はこの世界のものじゃない。おまえはどこぞの世界からここに紛れ込んだ異分子だ。早く本当のおまえに会いたいものだが、おまえは一体いつ記憶を取り戻すんだ?」
少女の名前はイシュカ・リンステッド。由緒正しいリンステッド公爵家の令嬢だ。
そんなイシュカに、ニヤニヤと笑いながらわけのわからない世迷いごとを吹き込むこの怪しげな男は、名をフェイ・リーという。
腰ほどまでの長いブルネットの髪に、いつも他人を見下すように眇められている酷薄そうなアンバーの瞳。唇の片端を吊り上げて浮かべる歪な笑みは、怪しさ満載のこの男によく似合っている。
フェイは魔術師だ。しかも希少で非常に危険な黒魔術を扱う、国に数人いるかいないかというくらいの超高位魔術師らしい。
しかしながら魔術とはとんと縁のないイシュカには、この男がどれだけの力を持っているのかなどはわからない。
外見は二十代前半ほどに見えるが、実年齢は誰も知らない。イシュカの祖父が若い頃から親交があったというから、外見通りの年齢ということはないのは確かだ。魔力の含有量が多い者ほど長命だと聞く。
この怪しい魔術師はなぜか、こうしてよくイシュカの前にふらりと現れては、意味のわからない話をする。
「……またそのお話ですか。何度も言っておりますが、私はそんないかがわしい存在になった覚えはございません」
「おまえは記憶に錠を掛けているだけだ。おまえが望むなら、特別にこの俺がこじ開けてやってもいいんだがな。どうする、イシュカ?」
サンドイッチを口に放り込んだその指をペロリと舐めて、フェイは唆すようにゆるりと笑う。なんと行儀の悪い男だろうか。イシュカの眉がしんなりと歪んだ。
「結構です。例え本当に私が貴方の言うような不気味な存在だとしても、だからなんだと言うのです? その記憶とやらを呼び起こして、貴方は何をなさりたいの?」
「実に愉快じゃないか。おまえのような奇妙な存在を俺は他に知らない。これを見逃す手はないだろうよ」
結局は自分が楽しみたいだけということか。まったくいけ好かない男だ。
この魔術師の空事に付き合わされるのはもう何度目だろう。そろそろ飽きてくれても良かろうに。
イシュカは疲れたようにため息をついた。
そもそも、魂とか世界の異分子とか記憶とか、まったくもって意味不明だ。
確かに今よりもっと幼かった頃は、イシュカは周囲の人間に奇異の目で見られることが多かった。
イシュカにはなぜか一歳にもならないくらいからの記憶があり、その頃には周囲の言葉もおよそ理解出来ていたし、二歳頃には文字を覚えて読み書きも始めた。赤子の頃からほとんど泣くこともなく、ましてや甘えることもなく、大人の顔色を冷静に見ては空気を読むような気味の悪い子供だった。
三歳頃になると、我がリンステッド公爵家の系譜に興味を持って調べてみたり、ひいては自国やこの世界のあらゆる歴史書にまで手を出して読み耽ったりもした。
その頃のイシュカはこの世界を識ることに貪欲になっていた。その欲求の起因するところは今でもよくわからない。
しかしそんなイシュカも十歳になった今では、『歳のわりには落ち着いている大人びた子供』として見られるようになった。特別でも何でもない、少し精神的な成長が早かっただけの普通の小娘でしかない。
「なあイシュカよ、どうやったらおまえは俺の言うことを信じる?」
だからこの魔術師がなぜこのようにイシュカに興味を示して執拗に絡んでくるのか、見当もつかない。いい加減しつこくて、最近ではもううんざりしている。
「そんなものはご自分で考えやがっ……こほん、失礼。ご自分で考えては如何でしょう」
令嬢にあるまじき言葉遣いが口から飛び出しそうになるのも、すべてはこの男のせいなのだ。
「なら俺からひとつ、おまえに預言を与えてやろう」
「そんな胡散臭いもの要りません」
胡散臭い魔術師がもたらす預言など、嫌な予感しかないじゃないか。
「俺はおまえの魂に刻まれた記憶を視た。そこで実に滑稽で面白おかしいことを知ったんだよ。この世界の真実をね」
「私の話を聞いてください」
またふざけたことを言い出したフェイに、イシュカは自分でも驚くほどの冷え切った視線を送った。
それを傲岸な仕草で鼻で笑うと、フェイは話を続ける。
「おまえはニホンという国で生まれ育ち、二十数年ほどであっけなく死んだ哀れな女だ。そしてこの世界は、おまえがいた世界にあった『マンガ』という、フィクションが綴られた絵本の中の舞台だ。おまえの魂に刻まれた記憶の中のおまえが、好んで読んでいた本のね」
「もしもし? 頭大丈夫ですか貴方」
突飛なことを言い出したフェイに思わず本気で心配するも、フェイはまるきり気にも留めない。
「それはひとりの女が、耳に心地よい甘言や手練手管を弄して見目のいい男共を次々に虜にしていくという、なんともお粗末様な物語だった」
「……貴方の妄想力にはいっそ恐れ入ります。それで? この私がその男好きの尻軽女だとでもおっしゃるつもりですか?」
「いいや。その物語での『公爵令嬢イシュカ・リンステッド』の役割は、平民出身の主人公の恋路を邪魔する当て馬、いわゆる悪役といったところだな。主人公の取り巻きになるひとりの男に執心していたイシュカ・リンステッドは、主人公に愛しい男を盗られて嫉妬に狂い、地位や権力を存分に振るって主人公を痛めつけて排除しようとする。が、結局最後は自身が愛した男の手によって罪を暴かれ非難され、悲惨な末路を辿ることで物語から排除されるのさ」
「ひ、悲惨な末路とは……?」
フェイが至極愉快そうに語る物語につい興を惹かれ、イシュカはこくりと息をのんで問うていた。
「イシュカ・リンステッドが愛したのはこの国の第一王子であるルーファス・ブラッドレイ。二人は親の決めた婚約をしていた。けれど王子に罪を暴かれたイシュカ・リンステッドは、婚約を破棄され、さらに王族の不興を買った不出来の娘として親にも見放され、最後には醜い豚のように肥え太った貴族の男のもとに嫁がされ、その男から毎夜受ける陵辱に耐えきれなくなって最後は自害した……と、物語の中では簡単に記述されていた」
十歳の幼い小娘になんてハードな話を聞かせているのだ、この胡散臭い魔術師は。レディースメイドのシエラの冷たい非難の眼差しが見えないのか。
しかしあくまでもフェイはリンステッド家の客人なので、シエラのその態度は少々頂けない。気持ちはわかるが。そしてべつにこちらが招いた客人でもないが。
イシュカはシエラを視線だけでそっと諫めて、改めてフェイに向き直った。
「――それで、そんな愚にもつかない与太話を信じろと? 無理に決まっているでしょう。私が子供だから、からかっているのでしょうか」
どこかの世界の物語の中の悪役の当て馬だなどと言われて、素直に信じる人間などそうそういない。イシュカの顔立ちがまさにそんな役割が似合うきつい悪女顔だから、小馬鹿にしているのだろうか。言っておくが、猫のような大きなつり目はイシュカにとってはチャームポイントだ。
「イシュカをからかうのは俺の趣味のひとつでもあるが、これはそういう類の話じゃないんでね。ちなみに俺もその物語の登場人物のひとりだぞ」
「貴方にも役割があるというの?」
「ああ。フェイ・リーは退屈凌ぎの気まぐれでイシュカ・リンステッドに手を貸し、主人公を籠絡せんと画策し近付くが、逆に主人公に絆され惚れてしまう。そしてイシュカ・リンステッドを裏切り、主人公を取り巻く男共のひとりに成り下がる滑稽な魔術師だよ」
「そんな哀れなご自分の姿を、私の閉ざされた記憶の中に視たとおっしゃるの? やはり到底信じられませんわ。私が恋に狂うというのもそもそも信じたくはありませんが、それよりもフェイ、貴方が誰かを恋い慕う姿など想像もつきません」
「そうか? いずれ、おまえにならそんな顔も見せてやってもいいとずっと思っているんだがな?」
相変わらずニヤニヤと質の悪い笑みを浮かべているフェイの言葉の真意は読めない。琥珀をはめ込んだような瞳はとても綺麗なのに、放つ光彩がとても妖しげで危うい。ふと気を抜いた瞬間に取り込まれてしまいそうで、恐ろしくもある。
「それはともかく。イシュカ、さっき俺が言ったことを覚えているか?」
「なんです?」
「預言を与えるという話だ。おまえの記憶の中に視た物語の内容を、俺はすでに知っている。俺がこれから言うことが現実に起きれば、おまえは俺の言うことを信じざるをえないだろう?」
「……そうですね。でも貴方はとても力のある高位の魔術師なのでしょう? 預言と言いながら物事を思い通りに軌道修正することもできるのではなくて?」
「お褒めに与り光栄だがね、さすがに王族を操ることは俺にも出来ない。王家に流れる特殊な血の作用か、精神操作系の術は王族にはまったく効かないのさ」
「ということは、預言とは王族にまつわることですか」
「そうだよ、イシュカ。――イシュカ・リンステッドは十二歳になる年に、この国の第一王子のルーファス・ブラッドレイと婚約する。そして身を滅ぼすほどの恋に狂うだろう。……腹立たしいことにね」
愉しげな瞳の中にとろりと混ざる暗い危険な色。まるで深淵を覗き込んだような気分になり、ひやりと背筋が震えた。
イシュカはこのとき、フェイが垣間見せた物騒な雰囲気に恐れはしても、その言葉はまったく信じていなかった。
第一王子との婚約は、それ自体はリンステッド家の爵位や、第一王子と同い年のイシュカの年齢からいって政略的に有り得ない話ではない。けれど候補者は他にもたくさんいる。
だからイシュカは楽観視していた。もとより魔術師の戯言など欠片も信じていなかった。
フェイはことあるごとに妄想力を発揮してイシュカに「早く記憶を解放しろ」と意味不明なことをせっついてきたが、そんなことも気にせず、預言のこともすっかり忘れて平和な日々を過ごした。
そうして二年後。
十二歳になったイシュカは、第一王子のルーファス・ブラッドレイと婚約した――。
◇◆◇
「イシュカ・リンステッド。私が貴女を愛することはない。婚約は家同士の契約であり、気持ちの伴うことではない。そのことを充分にわきまえ、私に必要以上の接触を持つことを禁止する」
光を含んで輝いているようなブロンドの髪を持つ美しい少年は、どこまでも冷え切ったアイスブルーの瞳をしていた。
ある日父と向かった王宮で、イシュカは初めて自分が婚約したことを知った。
しかも知った直後に相手の第一王子のルーファスと二人で詰め込まれた部屋で、イシュカはルーファスからの冷たい拒絶を受けていた。
特に傷ついたり悲しんだりすることはないが、初対面でこうも蔑まれるとは思ってもみなく、少し驚いた。しかし無駄な接触を禁じられたし、イシュカ自身も王子に特別な興味はないので、その真意を問いただすことはしなかった。
そういえばフェイは二年前のあのとき、なんと言っていただろう。
あの黒づくめの魔術師の預言は当たった。
となれば、彼が視たというイシュカの錠のかかった記憶なるものの存在の信憑性も高まったということになる。
本当にこの世界が、その記憶の中で読んだ物語の舞台だというなら――。
イシュカは目の前の冷たい瞳の美しい王子をじっと見つめた。己はこれから、彼に恋狂って破滅するというのか。……いや、有り得ないだろう。冷たく拒絶されて恋に落ちるなど、どんな感性をしていればそのような不可思議な事態になるのだ。イシュカにそんなマゾヒズムはない。
「聞いているのか、イシュカ・リンステッド」
苛立った冷たい声に、やはり彼に恋をすることはないと確信を募らせていく。
どこぞの魔術師が預言した破滅への道が潰えていくようで、ルーファスの拒絶には内心安堵した。
そしてイシュカは令嬢の見本のような完璧な笑顔を浮かべた。
「もちろんでございます。すべてはルーファス王子殿下のお心のままに。私は父に、王に、そして貴方に従うだけですわ」
「……女のくせに、やけに物分かりがいいな。何を企んでいる?」
ルーファスは女性蔑視の思想でもあるのだろうか。それとも女性に何か嫌な思い出でもあるのか。
「何も企んでなどおりません。貴方にどう思われようと、私は私の立場ゆえの務めを果たすだけです。それは互いに同じでしょう?――そういうことですから、王子殿下、本日はこれ以上の接触は必要ありませんよね? 父はまだ戻らないようですので、私はこれから王宮の素晴らしい庭園を散策して残りの時間を楽しむことに致します。よろしいですか?」
話は終わりだとばかりにさっさと退室する意を伝え、一応お伺いもたてる。
イシュカはとにかく早くルーファスから離れたかった。フェイの預言の通りにこの王子に恋をするとは到底思えないが、万が一ということもある。だからなるべく接触は最小限に抑えておくことが賢明だ。
疑りながらも了承を示したルーファスに礼を言い、イシュカは王宮の庭へと足を運んだ。
◇◆◇
「なあイシュカよ。俺の預言は当たっただろう? どうだ、王子に会って何か思い出したか?」
二年経ってもこの魔術師には何も変化がない。全身黒づくめの怪しげな恰好も、歪なニヤニヤ笑いも、その言動すらも、相変わらずだ。
イシュカたちは現在、二年前のあの日と同じように、リンステッド家の庭のコンサバトリーで向かい合ってアフタヌーンティーを飲んでいる。
「……貴方の胡散臭い預言は確かに一部は当たりました」
「ほう。一部とはどういう意味だ?」
「私はルーファス王子と婚約は致しましたが、恋に落ちるどころか、好意すら持ちませんでした」
そうきっぱりと告げると、フェイの笑みが深くなった。実に満足げだ。
「それは重畳。イシュカ・リンステッドは第一王子に一目惚れする運命にあった。そういう筋書きだったからな。けれどおまえはそうはならなかった。これがどういう意味かわかるか、イシュカ?」
「……この世界が本当に、貴方が視たという物語の舞台だとしたら。恋に落ちるはずだったのにそうならかった私は、イシュカ・リンステッドでありながら、本来のイシュカ・リンステッドはない、ということでしょう」
「そうだ。面白いな。やっぱりおまえは面白いよ、イシュカ。長年生きてきて、おまえのような奇妙で不確かな存在に出逢ったのは初めてだ。こんな僥倖に巡り会うとは、俺は実に運がいい!」
なぜだか上機嫌なフェイは、珍しく心から嬉しそうに笑っている。
それに比べ、イシュカの表情は暗い。
「……イシュカではないというなら、一体、私はだれなの。私は……、私は、本当のイシュカ・リンステッドの身体を乗っ取ってしまったの? ねえ、フェイ、だったら本当のイシュカはどうなってしまったの? わたしが、ころしてしまったの?」
幼い頃からほとんど泣いたことのないイシュカの大きな瞳に、じわりと水分の幕が張る。心細そうな、擦り切れるような弱々しい声音だった。
それに慌てたのはレディースメイドのシエラだ。シエラはイシュカが小さな頃から身の回りのお世話を任されてきた。ずっとずっとイシュカのそばでイシュカの成長を見てきた。
子供とは思えないほど冷静で賢く、リンステッド家に相応しい令嬢で在るための努力を惜しまず、使用人たちとも壁を作らず、しかし節度をわきまえて接する心優しいイシュカ。そんなシエラの自慢の主が。いつも気丈なイシュカが、泣いている。泣かされている。
シエラは己がただのメイドであることを忘れ、主の客人である魔術師を掴みかからんばかりの勢いで睨みつけた。
しかし、その勢いも一瞬で消え失せた。
なぜなら、イシュカを泣かせた張本人の魔術師が、いつもの飄飄とした態度も歪な笑みも見下すような視線も忘れて、ただ呆然とイシュカを見つめていたから。そんな隙だらけの間抜けな表情を見たのは、イシュカもシエラも初めてだった。
「フェイ……?」
イシュカが不審そうに呼びかけながら、軽く首を傾げた。その拍子に、限界まで溜まっていた涙がぼろりと零れて、そのまろいすべやかな頬に伝い落ちた。
それを目の当たりにしたフェイは、目を見開いてはじけたように立ち上がった。
その勢いにイシュカがびくりと肩を震わせるのにも構わず、つかつかと長い脚でイシュカのもとに歩み寄ると、衣服が汚れることも厭わずに地に膝をついてイシュカと視線を合わせた。
そして、そうっと手を伸ばしてイシュカの頬に触れると、親指の腹で優しく涙を拭った。ひんやりと冷たいその手は、きっとこういうことに不慣れなのだろう。すごく動きがぎこちない。
「……イシュカ。なあイシュカよ、泣くな。俺が悪かった。謝る。だから泣かないでくれ、イシュカ。それに何を不安がることがある。おまえは正しくイシュカ・リンステッドだよ。他の誰でもない、おまえこそが」
いまだかつて見たことのないフェイの狼狽ぶりに、イシュカのほうが戸惑ってしまう。
「けれど……、私はルーファス王子に一目惚れなどしませんでした。貴方の視た物語と違うことをした私は、本物のイシュカ・リンステッドではないのでしょう?」
「そもそも本物などは存在しない。俺が視たのは創作の物語だと言っただろう。単なる絵空事だ。おまえが今こうしてイシュカ・リンステッドとして生まれて意志を持って行動している時点で、おまえ以外のイシュカはこの世界には最初から存在しないんだよ。だからおまえが本物を殺したなんてことは有り得ない。存在し得ないものを殺すことなど誰にも出来ない」
「……、よく、わからないのですけれど……。では、私はこれからもイシュカ・リンステッドとして生きていてもいいの?」
「もちろんだ。俺はおまえ以外のイシュカなど要らない。むしろもしも物語の筋書き通りにおまえが王子に心を奪われていたら、その時は俺はおまえを――」
「私を?」
「――いいや、なんでもない。過ぎたことだ。イシュカはすでに物語とは違う道を選んだ。それでいい。それだけがおまえの真実だ。俺にとってもな。……いいかい、イシュカよ。これからも王子などに気を許すな、惹かれるな。物語のイシュカ・リンステッドなどには決してなるな。でないと、おまえ自身が物語に喰われるぞ」
イシュカの濡れた目元を指先でゆるりと撫でながら、フェイは強い執着の孕む琥珀色の瞳でじっと見据えながら言い聞かせる。
その様子をレディースメイドのシエラははらはらとした面持ちで見守っていた。端から見れば、怪しい魔術師が、年端もいかぬ可憐な少女を唆しているようにしか見えない。黒魔術師は禁忌とされている洗脳や精神操作を扱うという。だからその存在を危険視されているのだ。
しかしながらイシュカは、フェイの瞳を見ても特に惑うことはなく、聡明な意志の宿るヘイゼルの瞳でしっかりと受け止めているので、シエラは魔術師を止めることはしなかった。いや、魔術師の行動を止めることなど、だだのメイドであるシエラにはそもそも出来ない。しかし命を賭してでも主を守る覚悟はとうに出来ている。
「フェイ、では教えてください」
「なんだ?」
「物語の主人公となる方は、本当にこの世界にいるのですか?」
「ああ、いる。他の登場人物たちも、全員この目でその存在を確認してきた。ただ、おまえのような稀有な魂を持っている者も、俺のように他人の魂の記憶を視れるほどの魔力を持つ者もいなかったから、俺たち以外の人間は余計な介入をしない限りは物語通りに生きるだろう。現に、王子はおまえに冷たく接した」
「……ええ。女性に不信感を持っておられるようでした」
「あれは王子という立場や美しいルックスに群がる女共しか見たことがない子供だからな。女という生き物を毛嫌いしている。そういうシナリオだから」
「なるほど。ということは、その狭き心の隙間に主人公となる方が入り込んで夢中にさせるというわけですね」
「そうだよ」
「でしたら、婚約の件はどうなってしまうのでしょう?」
気になるのはそこだ。結婚することに抵抗はない。ルーファスにも言ったように、政略結婚は貴族に生まれた者の務めだと理解しているので、相手が誰であろうと関係ない。例え毛虫のように嫌われていたとしてもだ。
しかし物語通りに事が運ぶなら、ルーファスはいずれ、本当に愛しく想う女性が出来る。それに嫉妬をしたイシュカ・リンステッドはその女性を権力を使って貶めようとする。その結果、婚約を破棄されるという。
だとしたら、イシュカが彼らに何も干渉しなかった場合は、一体どうなるのだろうか。
「……さあな。おまえと俺が物語から離れてしまった以上、それがどういう結果を招くのかは予測も出来ない。俺は記憶を視ることが出来ても、さすがに未来を視ることは出来ないからな」
「そうですか……」
「おまえは王子と結婚したいか?」
「リンステッド家の意志は私の意志ですから。父がそれを望むのなら、私は果たさなければなりません」
「では、デューイが望まぬなら、おまえは絶対に王子なんざとは結婚しないということだな」
デューイというのはイシュカの父の名だ。このふてぶてしい魔術師は、父や祖父のことも当たり前のように呼び捨てるし、それを許されている。フェイが誰かに礼儀を尽くしているのを見たことがない。おそらくだが、彼はこの世で一番偉いのは自分だと思っているに違いない。
「家のことを抜きに考えるならば、私自身がルーファス王子を選ぶことは有り得ません」
初対面で冷たく拒絶されたからというのも当然あるが、それ以上にそもそも恋愛対象に見れる気がしない。ルーファスは王子といってもまだ十二歳の少年だ。そんな子供に恋をするなど、有り得ないを通り越して犯罪のような気さえしてしまう。自分だとて同じ歳なのに、なぜこのように思ってしまうのかはわからない。もしかしたら自分は年上の男性にしか興味が持てないのかも知れない。
「――くく、それでいい、おまえはそうでなければな。イシュカよ、その言葉、何があろうと違えるなよ」
「……? ええ、そのような事態にはなりませんわ」
「言質はとったぞ。違えた場合は……、そうだな、俺が直々にお仕置きしてやろう」
本調子を取り戻したフェイは、何やら悪巧みをしているような質の悪い笑みを浮かべている。相変わらずわけのわからない男だ。
イシュカとシエラの不審な者を見るような冷たい眼差しも意に介さず、魔術師はひとり愉しげに笑っている。
「……なぜ私が貴方から折檻されなければならないのです。絶対に嫌です」
「嫌なら、ようく肝に銘じておくことだな。おまえが選んでいいのはこの世でただ一人だけだ。もちろん王子などではないぞ」
「え、決まっているのですか? どなたでしょう?」
「自分で考えな。……まあしかし、もし答えを間違えたり、その身体が大人になってもまだわからないと言う場合は、そのときは俺がちゃんと教えてやるさ」
妖しげな光を孕んだ琥珀の瞳に見つめられ、イシュカはなぜだか寒気を感じてふるりと体を震わせた。何か、とてつもなく嫌な予感がする。取り返しのつかないことをしてしまったような、そんな危機感。
「楽しみだな、イシュカ」
ルーファスに恋心を抱かないことで身の破滅は免れたと思ったが、あるいはこちらの道もまた、先に待つのは破滅なのかも知れない。一体どちらの未来のほうがまだ救いがあったのだろう。
そんな詮無きことを考えて憂鬱な気分になりながら、イシュカは今日も美味しいお茶を飲む。
令嬢や転生などの流行りの設定で書いてみた結果。ただ説明的にお茶会してるだけの話になってしまいました。
後書きで書くようなことでもない余談ですがひとつ。イシュカは前世の記憶を持って産まれてきたけれど、大人だった頃の感覚のまま赤ちゃんの身体になるという齟齬に精神が耐えられず、自己防衛本能が働いて自ら記憶を封じ込めたという設定です。
さらに蛇足。
本当は乙女ゲームものにしたかったけれど、話の設定上、魔術師にテレビやゲーム機やソフトや乙女ゲームなどの説明をさせるのが無理だったので漫画になりました。