それでも時は狂わない
うつ伏せに倒れ伏した彼を見る。石の床は赤く濡れて、彼の体を中心に石の継ぎ目に沿って暗い赤に染められていく。開け放たれた窓から絶えず風が吹き込んでいるのに、部屋の空気はいつまでも生臭い。
「守番、どうした。何を寝ている」
いつものように呼びかけているのに彼は応えない。動かない彼に近づくと、足首から伸びている鎖がじゃらじゃらと重い音を立てた。
「おい、守番」
彼の金茶の柔らかな髪も赤く汚れていた。触ると私の手も同じ色に汚れた。生ぬるい。その半端な温度に、決定的なものが喪われたことを遅まきながら知る。
「そうか」
呟きを、彼はもう聞いてはくれない。もう一度言う。
「君の時間は止められてしまったのか」
光を失ってなお真っ直ぐな紅茶色の瞳が動かないのを確認してから、振り返る。凍りついた一人の男がそこに立っている。何か問おうとしたのだろうか、男の口はわずかに開いていたがもう永久に動かない。この善人面した馬鹿な男は、死にもせず、生きもせず、未来永劫この瞬間に取り残されるのだ。
私を解放すると言っていた。馬鹿な男だ。お前にとって時とは何だ、そう尋ねたら、人間を縛り自由を奪うものだと答えた。
非。お前の答は相応しくない。
「よって、――お前の時を止めるに値する」
反芻する呟き。誰も聞いていないと知っていながら出した、無駄な声。
初代は言った、「お前の心臓が刻むものだ」と。
九代目は言った、「絶対でありながら気まぐれな河だ」と。
十八代目――彼は言った、「君そのものだ」と。
いずれの答えも是。即ち時守に相応しい。
だが彼らは既に過去の人間だ。
窓から街を見下ろす。穏やかな午後の光に照らされた、煉瓦色の街並み。そのそこここに同朋が留まっている。解放されて戸惑って、途方に暮れて佇んでいる。
我々の鼓動は正確無比に時を刻むため、これまで何百年と人間たちに利用されてきた。小さき者は懐中時計の中に、大きな者は柱時計の中に、簡単に引き千切れるようなちゃちな鎖でつながれうとうとと眠りながら時を過ごしてきた。
人間が生きる時間はたかが知れている。それに、閉じ込められても暴れるのは性に合わない。だから時計が壊れるのを待って眠り、または「所有者」である人間を眺め、我々にとっては刹那でしかない日々をそれなりにゆったりと送っていた。
それが突然、これだ。
解放されたにも関わらず、誰も飛び去ろうとしない。それはきっと、皆「所有者」に良くしてもらっていたからなのだろう。ちょうど私と同じように。
穏やかに静まり返った街は、表面上はいつもの夕暮れの表情だった。
「…………馬鹿めが」
時は、人間を縛り自由を奪うものではない。縛っているのはお前たち自身だ。そんなこともわからずに時計を壊して、我々の止まり木を壊して、……時計台の守番を壊して。
だから時を止めた。壊せはしなかった。あの男の時を思い切り進めてやれば、あるいは戻してしまえば、壊せたはずだった。
けれどそれをやれば彼がひどく怒るから。
でも今なら壊せる。何故なら怒るような人はもう――
平静だったはずの心がひどく波立ち、掴んでいた石の窓枠が一瞬で風化した。両手いっぱいに掴んだ砂が風に運ばれていくのを眺めながら大きく息を吸い、吐く。荒れた心拍数を、早まり過ぎた時を元に戻していく。
やめて、おこう。いちいち壊すのも面倒だ。それにこれ以上動揺すれば、この石造りの時計塔は灰塵に帰す。
これで最後にしよう。終わらせなければ。ここを離れて時を乱さずに静かに暮らそう。既に時を止められた者のために思い悩むわけにはいかない、馬鹿な男に殺されたあの――
名を訊けばよかった。
そう気付くのが、遅すぎたのだ。
目の前からいなくなってしまったから、もう呼べない。
『君はここにいてくれさえすればいいんだ』
そう言って笑った彼の名前を、私は知らなかった。
私をここに留めていたのは鎖ではない。君なのに。