ACT.20
ACT.20
それは、淳が中学生だったときのことだ。
警察から入った電話に、母親が真っ青になりながら淳の手を引いて病院まで連れて行った。
車の方が早い、という淳の声が聞こえないほど、淳の手を引いて近くの病院まで走っていった。
なぜ手を引かれているか分からずに、ただ病院に行くと言い、鬼気迫る勢いで走り出した母親に困惑しながらも止められなかった。
込み上げてくる不安。
その不安は、的中する。
「先ほど、救急車で運ばれた坂田斎の家族です」
受付で、母親が硬い声で告げたのは、淳の弟の名前だった。
脳に障害をおった斎は、ずっと植物状態だった。
たまに動く指先に、時々零れる涙。
もう意識が戻ることはないだろう、と宣告されて、3年がたち来年に控えた受験を理由に病室への足が遠ざかってた頃。
たまたま立ち寄った本屋で、平積みにされていた新刊コーナーで植物状態から意志を伝えられるようになった人のことを書いた本が置いてあった。
思わず手にとり、そして家に帰り一睡もせずに何度も何度も読み返した。
(……斎に、似ている)
瞳が動く。指が、微かに動く。
もし、斎の意識が戻っていればコミュニケーションだって取れる可能性がある。
胸が高鳴った。今すぐ病室に行きたい気持ちを抑えて、夜明けまで待ち、学校をサボって病室へ駆け込んだ。
「……斎、久しぶり。分かるか?俺のこと。もし分かったら」
微かに動いた眼球。確かに、淳を見ている。
「……目を、動かしてくれるか?」
一か八か。
もし、動いたら。
まばたき一つの時間だったかもしれない。それでも、淳にとっては永遠に感じられた。
「………!」
そっと、斎はまばたきをした。
「斎……分かるのか!?本当に分かったのなら、もう一度まばたきをしてくれ!」
ベッドから乗り出して、斎の肩を掴みかかる勢いの淳。それでも、もう一度。斎はまばたきをした。
「……っ、斎……!」
声を上げて、淳は泣いた。聞こえてきた大きな泣き声に驚いた看護士が部屋を覗きに来て、その看護士も驚いて声をなくした。
この時、淳の中で夢が生まれた。
いつか、斎のような人がスムーズに意志疎通出来るような機械を作りたい。
そうして大学進学して、初めて誘われた合コンで、七海と出会った。
障がい児ボランティアサークルに所属しているという七海に、斎の話をすると思いがけず真剣に聞いてくれて。
「……頑張ったんだね」
「だろ?事故で脳をやられても、頑張って生きた。あいつは、俺にとって誰よりもスゴいヤツなんだよ」
「うん。弟さんもすごいよ。でも、坂田さんもすごいよ」
「……え」
合コンの二次会に行かずに、公園で夜風にあたっている二人の声が風にのる。頼りない照明に、お互いがベンチに座り話している時間は穏やかで。
「本屋で、活字嫌いの坂田さんがその本を手にとったことも。
意志疎通が図れるように、今も悪戦苦闘しながら弟さんのところに通っている坂田さんも、えらいよ」
酔いさましに飲んでいるペットボトルから水滴が流れる。
「弟さんも、生きていくことに葛藤があるでしょ?それでも、生きていくように背中を押してあげている坂田さんも、すごいよ。
そんな坂田さんたちがいたから、今、機械を使って意志が伝えられるようになったんじゃないかな?」
暖かい、ほんわかした笑顔で。
「すごく素敵な兄弟だよね」
そう、屈託なく笑うから。
込み上げてきた涙を、のみこむのに苦労したことを覚えている。
破滅的にニブい七海を、幾度目かのデートでやっと彼女にすることができたのは、奇跡だとしか思えなかった。
斎に紹介して、両親にも紹介して。本気で将来を一緒にする女性だと思っていた。
「淳の夢、もうすぐ叶うね」
就職氷河期の御時世。やっと就職が決まった淳に、電話口で七海が嬉しそうに笑っていた。
その頃は、七海は学校図書館司書2年目で、淳は大学4回生で、まだお互い忙しいといっても月数回は会えた。
そうもいかなくなったのは、淳が就職してから。
忙しかったのもあったが、大学より研究も試作も充分に出来る環境に、同じ夢を持った同僚。やっと夢へ近づいていっている実感を伴って、仕事にのめり込んだ。
『……そっか、またキャンセルだね』
いつからか覚えてない。七海が電話口で寂しそうにしているようになったのは。胸が痛んだけれど、まだ社会人になりたての自分には《結婚》という二文字には、経済的にも無理なことで。
寝食を忘れるくらい仕事に取り組んで。
夢と、七海を幸せにするために。
ただ、ひたすらがむしゃらに突き進んだ。
七海からのメールも電話も、必ずチェックはするものの、家に帰れば寝てしまう生活だったから返事を忘れてしまうことは度々だった
しかし、いつもメールの文章は明るかったから、気持ちは通じ合っていると思っていて。
ようやく、掴んだ夢への切符。
結婚を切り出した淳に、七海は戸惑いの声をあげて。
(……どうして?)
思い出すのは、大学のころ一緒に公園で夢について語り合ったキラキラした時間。
(なんで、七海は)
本社に栄転することになったことを告げてから、返ってこないメール。
急に不安になった。
今まで、こんなことなかったのに。
離れていても、繋がっていると信じていた絆。
いや、信じたかった絆は、すでに途切れていたことを。
まだ、淳は知らなかった。