ACT.09
ACT.09
夏休みだったことに、こんなに感謝したことはない。
部活などで生徒は登校してきてはいるが、人数が少ない。
透が七海を抱きかかえて保健室に急いでいても、生徒に見られる可能性は低いだろう。
が。
それとこれと、話は別で。
「あの、あたし、歩けるから」
「バカ言うな。結構熱あるだろ?とにかく熱を計れ。話はそれからだ」
ずんずんと歩いていく透が、何だかイライラしているようでギュッと身を縮める。
怖い。
いつだって、透はおちゃらけているか笑っていた。初めてかもしれない。こんな風に怒りを滲ませていること。
「自分で気が付かなかったのか?」
「……朝、起きたときに計ったら微熱だったし。それに、あたし、熱には慣れているから多少熱が出ても大丈夫だし……」
「自分の身体だろ?もっと労れよ」
「……ごめんなさい」
小さく呟けば、フッと透の身体から力が抜けて、軽く苦笑される。
「無理すんなよ?こじらせたら大変だからな」
「……うん」
背中をポンポンと叩かれて、それが何だか暖かくて。こみ上げてきそうになるものを飲み込む。
保健室のドアを開けて、ベッドに下ろされる。
「はい、体温計。計ってあげようか?」
「計れますっ」
「それだけ元気があれば大丈夫か」
ははっ、と笑って、透はベッドのカーテンを閉める。
少し機嫌が良くなったような透に、少しだけホッとする。
気がゆるんだのか、熱がある、と言われたら体調が悪くなってきたような気がして、透に分からないようにため息をつきベッドに腰掛けて体温計を脇に挟む。
あぁ、そういや、斎藤さんが予約しておいた本、今日来る予定だったな。
明日、部活があるって言ってたし、熱がなければブックカバーシートをつけて、貸し出し出来るようにしておこう。
何だかぼんやりしてきた頭の中で、仕事のことを考える。
だって。
そうしないと。
……ピピッ、ピピッ、ピピッ。
「体温計鳴ったー?」
「んー…」
カーテンの向こうからの透の声。ノロノロと体温計を出して、数字を見て、一気に覚醒する。
――38.6℃
「どうだった?」
「だっ、大丈夫だったよ!ありがとう、あたし、図書室に戻るねっ」
隠さなきゃ。
その一心で慌てて体温計を隠す。
透が渡してくれた体温計は、前回の体温が記録されているタイプの体温計だ。こんな数字見られたら、すぐに強制帰宅させられる。
まだ、身体に辛さはきていないから大丈夫。まだ、仕事が出来る。
仕事をしないと。
「うそ、結構高いはずだろ?さっき抱いていたとき熱かったのに」
カーテンを開けて慌てて出てきた七海に、疑いの目を向ける透に、無意味に笑顔を振りまき、そそくさと出口に向かう。
「七海ちゃん」
地の底から這うような、低い声が聞こえる。普段の高めのオネェ声とは比較にならない低い声に、思わず足が止まる。
「体温計、ちょうだい」
「………」
蛇に睨まれた蛙のごとく、一歩も歩けない七海の背後から首に腕を回し、抱きしめる。
「イイ子だよな、七海は?」
冷や汗が滲んで、一気に血の気が引いていく。
解熱剤なんか、目じゃない。
一気に体温が下がったのは、多分気のせいじゃないだろう。
「……本当にバカだろ。なんだって、こんなになるまで気がつかないんだ?」
「……言い返す言葉もありません」
結局、体温計を渡した途端に「この馬鹿やろうっ!」という叱責を受け、早退しようとしたら歩けなくなっていてベッドに強制的に寝かされた。冷えピタを貼られて、学生でもないのに家族の迎えを待っているのは何だか恥ずかしい。
しかし、熱があるために足元がふらついて、まともに歩けない。歩いても、すぐに息切れする。
透にベッドに寝かされ、かわりに早退を伝えてもらい、家族に連絡してもらったり、頭が上がらない。
「……で?」
「え?」
「何を、そんなに思いつめてたんだ?」
口元までタオルケットを上げて、熱のために微かに潤む瞳で透を見上げる。ただ、心配の色がある瞳に視線を反らしてしまう。
「プライベートで何かがなければ、仕事に逃げるようなことしないだろ。……彼氏か?」
何となく。
知られたくはなかった。
けれども、透には通じなかった。
「東京行き、決まったのか」
もはや疑問型でない、断定の口振り。
「応えを、せがまれているのか」
「……分からないの」
知られたくなかった、透には。
何故か分からないが、透に知られるのは恥ずかしくて。でも、透にしか話せないような気がしていた。
透なら、弱さも強さも見守ってくれる安心感があったのかもしれない。
それと同時に、自分は年上だからということと、デキる社会人の透に弱さを見せたくないという変なプライドとか、ごっちゃになって。
ただ、熱に犯されたボーッとした頭で言葉を紡ぐ。
「……どうすれば、いいのかなぁ。あたし、馬鹿だから分からない。淳の夢も大事。あたしの夢も大事。でもね」
熱でごちゃごちゃになった頭。でも、その分余計にシンプルな答えだけが浮かんでくる。
「……あたし、淳のこと……。
好きなの……?
まだ、好きなのかな……?」
そっと、七海のまぶたに手のひらをのせる透。
暖かな手のひらに、七海は瞳を閉じる。
「……俺には分からない。でも、今は眠れ。そばにいてやるから」
「……ん……」
身体も限界だったのだろう。素直に目を閉じた七海から、規則正しい呼吸が聞こえてきたのはすぐのことだ。
そっと、前髪を指ですく。いつもはサラサラの前髪が、微かに汗ばんでしっとりとしている。
「……そばにいてやるから。だから」
選べよ。
呟きは、誰の耳に入ることなく。
保健室のカーテンを揺らす風とともに消えていった。