は裏切らない
筋肉は、裏切らなかった。
それはゆっくりとした裏切りの否定だった。
ある朝、レディアナは目を覚まし、まずシーツの重さに気づいた。
違う。
シーツが重くなったのではない。
自分が、重くなったのだ。
彼女は仰向けのまま、両腕を天井に掲げた。
光の中に、自分の腕があった。
まだ細い。
まだ、理想には程遠い。
だが、
そこには確かに、
昨日まで存在しなかった「抵抗」があった。
空気が、わずかに押し返される感覚。
世界が、少しだけ彼女を認識し始めた証拠。
「……はは」
湿った笑いが、喉に沈んだ。
朝食が運ばれてきた。
パン。
スープ。
果物。
貴族として正しい構成。
筋肉としては、間違っている構成。
「卵を」
レディアナは言った。
「十個」
侍女は固まった。
「……じゅ、十個、でございますか」
「そう」
「調理方法は」
「全部」
侍女は理解を放棄した。
レディアナは卵を食べた。
一つずつ。
静かに。
祈るように。
筋肉とは、祈りに似ている、と坂田は思っていた。
すぐには応えない。
だが、裏切らない。
祈った分だけ、
わずかに、
本当にわずかに、
世界が変わる。
窓の外では、鳥が鳴いていた。
軽かった。
軽すぎた。
彼らには、筋肉が足りない。
ドレスが、入らなくなった。
正確には、入るには入った。
だが、閉じなかった。
背中で、布が抵抗していた。
「お嬢様……これは……」
侍女の声は、罪を見つけた神父のようだった。
レディアナは鏡を見た。
背中。
そこに、
線があった。
一本。
存在してはならない線。
貴族令嬢の背中にあってはならない、
努力の痕跡。
レディアナは指でなぞった。
硬かった。
「……はは」
湿っていた。
社交界からの招待状が、山のように届いていた。
レディアナはすべて断った。
断罪イベントの準備は、
着々と進んでいるはずだった。
王子は、きっと、
正しい角度で、
正しい声量で、
正しい軽蔑を用意している。
だがレディアナは、
スクワットの方が重要だった。
ある日、
王子が来た。
庭だった。
レディアナは、
バーベルの代わりに、
石像を担いでいた。
天使の石像だった。
愛を象徴する天使は、
いま、
レディアナの僧帽筋を象徴していた。
「……何をしている」
王子は言った。
レディアナは、
石像を担いだまま振り返った。
王子は、
言葉を失った。
そこにいたのは、
以前のレディアナではなかった。
肌は焼けていた。
腕は細いが、
もう「だけ」ではなかった。
背中は、
何かを裏切り始めていた。
「鍛えています」
レディアナは答えた。
王子は理解できなかった。
「なぜ」
レディアナは少し考えた。
なぜ。
それは難しい質問だった。
なぜ筋肉を求めるのか。
なぜ重さを愛するのか。
なぜ苦しみを繰り返すのか。
「そこに」
レディアナは言った。
「弱さがあるからです」
王子は、
その言葉を理解できなかった。
彼は、
軽かった。
王子は帰った。
その背中は、
何も背負っていなかった。
数日後、
断罪の日が来た。
広間。
人々。
光。
期待。
レディアナは呼ばれた。
歩いた。
一歩。
重かった。
良かった。
王子が言った。
「レディアナ・フォン・グランベル」
声が響いた。
「貴様の罪を――」
レディアナは、
その途中で、
腕を曲げた。
盛り上がった。
ほんの、
わずかに。
だが、
確実に。
その瞬間、
レディアナは理解した。
勝った。
何に対してかは、
わからなかった。
王子か。
運命か。
物語か。
それとも、
かつての、
軽かった自分か。
「……はは」
湿った笑いが、
広間に落ちた。
誰も、
その意味を、
理解できなかった。
レディアナだけが、
知っていた。
筋肉は、
裏切らない。




