筋肉
坂田健太郎は、自分の二の腕が存在しないことに、まず気づいた。
いや、存在しないというのは語弊がある。そこには確かに腕があった。ただし、それは坂田健太郎の腕ではなかった。坂田健太郎の腕とは、もっとこう、社会に対するささやかな反抗のように隆起しているべきものであり、少なくとも、こんなふうに白磁の壺のような、曖昧で、責任感のない曲線をしていてはならなかった。
彼は、しばらくそれを見つめた。
持ち上げてみた。
軽かった。
あまりにも軽かった。
坂田健太郎は、世界大会の地区予選で三位になったことがある男である。そのとき審査員の一人は彼の上腕二頭筋を評して「誠実な筋肉」と言った。坂田はその言葉を、これまでの人生で唯一信じた他人の評価として大切に保管していた。
だが、いま、そこに誠実さはなかった。
ただ、なめらかな裏切りだけがあった。
鏡があった。
そこに映っていたのは、令嬢だった。
完璧な楕円の顔。陶器のような肌。首筋は細く、折れそうで、実際に折ってしまえそうだった。鎖骨は繊細で、そこには重さの記憶が存在していなかった。
坂田は思った。
――終わった。
彼の人生は、終わったのだと。
しばらくして、彼は腕を曲げてみた。
盛り上がらなかった。
何も。
ただ皮膚が移動しただけだった。
その瞬間、坂田の口から、声が漏れた。
「……はは」
乾いた笑いではなかった。
湿っていた。
床下で腐りかけた木材のような笑いだった。
「ははは……」
喉の奥がぬるついた。
「は、ははははは……」
彼は笑った。
笑いながら、理解した。
これが、絶望だと。
記憶が遅れてやってきた。
悪役令嬢。
レディアナ。
断罪。
婚約破棄。
追放。
処刑。
そういう単語が、壊れたエレベーターのように脳内を上下していた。
だが坂田は、それらにほとんど関心を示さなかった。
処刑?
だから何だ。
彼はすでに、もっと重大なものを失っていた。
筋肉だ。
彼は、椅子から立ち上がった。
軽かった。
自分の身体が、風船のようだった。
こんなものは身体ではない、と彼は思った。
これは、身体のふりをした概念だ。
身体とは、本来、もっと重く、もっと不自由で、もっと希望に満ちているものだ。
彼は決意した。
――取り戻す。
鏡の中の令嬢は、相変わらず美しかった。
だが坂田は、その美しさを一切評価しなかった。
それは筋肉ではなかったからだ。
「待っていろ」
彼は鏡に言った。
「必ず」
その日から、レディアナは変わった。
社交界に出なかった。
舞踏会を欠席した。
代わりに、庭に出た。
最初の日、腕立て伏せは一回もできなかった。
地面に顔をぶつけた。
鼻血が出た。
侍女が悲鳴を上げた。
レディアナは地面に伏したまま、笑った。
湿った笑いだった。
――いい。
いいじゃないか。
ゼロだ。
ここからだ。
ゼロは、裏切らない。
三日後、彼女は一回できた。
七日後、三回。
二週間後、侍女たちは泣きながら止めた。
「おやめください、お嬢様……お肌が……」
レディアナは答えた。
「筋肉は、肌の内側にあるのよ」
侍女たちは意味を理解できず、ただ泣いた。
一ヶ月後、彼女の肌は黒くなり始めた。
貴族としては、失敗だった。
坂田としては、成功だった。
鏡の前で、彼女は腕を曲げた。
わずかに。
本当にわずかに。
そこに、
隆起があった。
レディアナは笑った。
湿った、
心からの笑いだった。
その頃、王子は言っていた。
「最近、レディアナを見ないな」
誰も答えられなかった。
レディアナは忙しかった。
断罪される予定の悪役令嬢は、
いま、
庭で、
スクワットをしていた。




