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マカブル・ティータイム

婚約者の想い人はわたしではないようです。

作者: 櫻まど花
掲載日:2026/02/10

「スヴェン様、またあちらへ行かれたんですって?」


「ええ、毎日欠かさず赤い薔薇の花束を持ってね。お相手のクリスティーン様というのは、凛とした気品のある、それは美しい方だそうよ。スヴェン様があんなに熱心に通い詰めるなんて、よっぽど夢中なのね」


「まあ……。それでは、あのお部屋にいらっしゃる婚約者の方はどうなるの? 海の方からいらした、あの波間に溶けてしまいそうに儚いお姫様は」


 掃除の手を止めたメイドの声が、廊下の角で立ち止まったラウラの耳に鋭い刃物のように入り込んできた。痛む胸にそっと手を当てれば、絹のドレス越しに感じる鼓動は今にも消えてしまいそうなほど頼りない。


「……スヴェン様。わたし、あなたを信じておりましたのに」


 スヴェンはいつも、彼女の白く透き通るような肌を「真珠のようだ」と褒めてくれた。彼女が壊してしまったティーカップの破片を拾う時も、「君の手を傷つけなくてよかった」と優しく微笑んでくれた。

 けれどあの薔薇の花束は、ラウラのためのものではなかった。毎日彼の髪から漂っていたあの甘い花の香りは、別の女性への想いの残り香だったのだ。


 それから数分後。

 自室に引きこもったラウラはあまりの悲しみに、自分なりに情緒不安定と戦っていた。


「ああ……悲しい。わたし、悲しすぎてお腹が空いてしまいましたわ。このまま泡になって消えるくらいなら、せめて最後に……海への未練を胃袋に収めておかなくては」


 バリッ、ムギュッ!


 ラウラはしとしとと真珠のような涙をこぼしながら、大ぶりの生イカをひっ掴んで踊り食いし始めた。吸盤が彼女の頬にペタペタと吸い付き、イカが激しく最後の抵抗を見せるが、ラウラは容赦なく咀嚼する。


「……おいしい。おいしいけれど、なんてしょっぱいのかしら。もっと、もっと持ってきてちょうだい! 悲しみに耐えるには、タウリンが足りなくてよ!」


 彼女の脳裏によぎるのは、一族に伝わる古く残酷な掟。愛する人が他の誰かに心を移せば、セイレーンは泡となって消える──ふと見下ろした指先はしゅわしゅわと白く濁り、ソーダ水の泡のように弾け始めていた。


「ああ、なんてこと……。わたし、あんなにスヴェン様をお慕いしていましたのに。陸の恋というのは、潮の流れよりも早く変わってしまうものなのですわね……」


 彼女の口の端から黒い墨がひと筋垂れた。このままスヴェンの心が離れれば、彼女は明日を待たずして、ただの形のない泡として潮風にさらわれて消えてしまう。


 海と陸、二つの種族の和平を願う両家の期待を背負い、ラウラがこの海辺の街を治める伯爵家にやってきたのは一年前のことだった。

 彼女はセイレーンの貴族の娘。本来なら荒れ狂う波を歌で鎮め、時に巨大なクジラと格闘して糧を得る、血の気の多い種族である。

 ところが陸の人々にとって彼女は、泡から生まれた真珠のような異国の姫君に見えたのだ。伯爵夫妻は彼女を蝶よ花よと慈しみ、邸中の使用人たちもまるでクラゲでも扱うような手つきで彼女の身の回りを世話した。


 そんな中で始まった花嫁修行は、ラウラにとって、ある種の拷問に近いものだった。

 まず尾びれを魔法薬で二本の足に変えた代償として、歩くたびにナイフの上を歩くような激痛が走る……はずだったのだが、そこは生命力の塊であるセイレーン。ラウラの場合、痛みよりも陸の淑女に必須の優雅な歩行に苦労した。


「ラウラ様、もっと爪先を外へ……そう、ふわりと浮かぶような足取りで……」


 しかし彼女の尾びれの筋肉は、深海一万メートルの水圧に耐えうる強靭なものである。実際、ラウラがしとやかに一歩踏み出すたび、高級な絨毯には深く踏み込みの跡が刻まれるのだ。


 食事の作法もそうだ。フォークで肉を上品に突くたび、彼女の脳裏には「手掴みで丸呑みにしたほうが鮮度を損なわないのに」という野性的な本能がよぎる。刺繍を教われば、繊細な糸は彼女の強靭な指先によってあっけなく千切れ飛び、家庭教師をたびたび失神させた。


 そんな「海の怪物」としての自分を押し殺す日々を支えてくれたのが、婚約者のスヴェンだった。

 ラウラが力加減を間違えて庭の石像を粉砕してしまったときも、彼は「最近の石造りはもろいからね。怪我がなくてよかった」と、的外れながらも心からの優しさでフォローしてくれた。


 彼の瞳の中に映る自分が、単なる和平のための婚約者ではなく、守るべき愛しい存在に変わっていくのを、ラウラは確かに感じていたのだ。だからこそ、今のこの裏切りは鱗を剥がされるよりも耐えがたい痛みだった。


「あんなに甘い言葉をささやいて、わたしの拙い踊りを『月夜の波のように美しい』と褒めてくださったのに。スヴェン様の……浮気者! 陸の男なんて、みんな干物にして海に沈めてやりたいわ……!」


 しかしセイレーンの悲しみは、一瞬にして猛烈な生存本能へと変換される。ラウラはしゅわしゅわと音を立てて消えゆく自分の指先を、サメのような真っ黒な瞳で見つめた。


「……決めましたわ。わたし、黙って泡になんてなって差し上げません。死なばもろとも、ええ、素敵な言葉ですわね! 陸の言葉で一番気に入りましたわ!」



 ◆



 海辺の天気は移り変わりやすい。その晩、外は荒れ狂う嵐だった。波の音に混じって、スヴェンの馬車が帰ってきた音がする。

 ラウラはお気に入りのドレスの裾を震わせながら、玄関ホールで彼を待ち構えていた。


「スヴェン様……。わたしのような取り扱い注意の魚類を裏切るなんて、勇気がありますのね……」


 ラウラはハンカチでそっと目元を拭った。その動作はどこまでも優雅だったが、ハンカチを握りしめた瞬間に不穏な音がして、ハンカチは雑巾のように絞り切られていた。


 そこへ、スヴェンがびしょ濡れで戻ってくる。そしてその隣には、彼が差し出す傘の下で、凛とした美しさを放つ人間の女性──クリスティーンが寄り添っていた。


「ラウラ! 帰ったよ、こんな嵐の夜に待っていてくれたのかい?」


 無邪気に笑うスヴェンの姿を見て、ラウラの心に真っ黒な海原が広がる。


「ええ、お待ちしておりましたわ。……スヴェン様、そちらの方が、あなたの意中のお相手なのね? わたしを泡にして消し去って、その方と陸で幸せに暮らすおつもりなのね……」


「え? いや、彼女はクリスティーン、君に紹介しようと思って──」


 ラウラは続きを聞かないまま、淑やかに片手を掲げた。その瞬間、彼女のドレスが内側から突き破られ、鋭い銀色のヒレが生え出した。首筋には美しいエラが浮き、瞳は潤んだブルーから深海の捕食者のような漆黒へと塗り潰される。


「……わたし、悲しいですわ。悲しくて、悲しくて──あなたたちを胃袋に収めてしまいたい」


 ラウラが上品に、かつ大きく牙の生え揃った口を開けた。その喉の奥からは、空気そのものを震わせるような音が漏れ出す。セイレーンの絶唱。それは聴いた者の精神を破壊し、物理的に岩をも粉砕する死の歌である。


「ちょ、ちょっと待ってラウラ! 誤解だ! クリスティーン、早くそれを!」


「さようなら、スヴェン様。地獄の底──海底でお会いしましょう。……アーーーーーーーッ!!!!」


「ああああッ!!」


 ラウラの口から放たれた超音波が大窓を一瞬で粉々に粉砕し、シャンデリアのクリスタルが豪雨のように降り注いだ。スヴェンの鼓膜は限界を迎え、クリスティーンは持っていた金槌を壁に突き刺すことで崩れ落ちないように耐えている。


 その時、スヴェンが命がけでラウラの足元に滑り込み、一つの小さな箱を掲げた。


「これを見てくれ! 君の力でも曲がらない、特注の超硬質クロム合金の指輪だ! 君がティーカップを握りつぶすたびに、僕は普通の金細工じゃ君を受け止められないと思って、彼女に無理を言って作ってもらっていたんだ!」


「…………え?」


 ラウラの歌が止まる。

 粉々になったガラスの破片がパラパラと落ちる音だけが響く中、ラウラはパチパチと瞬きをした。


「……指輪? わたしのための?」


「そうだよ。君が毎日、食器やペンを粉々にしているのは知っている! でも、僕はそれが嬉しかったんだ。君がそれほどまでに、陸の生活に馴染もうと一生懸命に力を込めてくれている証拠だと思っていたから」


 スヴェンはフラフラと立ち上がり、泡になって消えかかっているラウラの透けた手を取った。


「クリスティーンはこの街で唯一、その金属を扱える職人なんだ。毎日君の指のサイズに合わせて、一ミリの狂いもなく鍛え直させていたんだよ。誓って言う、浮気なんかじゃない。どうか、信じてほしい」


 ラウラの体に浮かんでいた泡が、みるみるうちに消えていった。代わりに彼女の頬は乙女らしい珊瑚色に染まる。エラは引っ込み、サメのような瞳はまたか弱き人魚姫の潤んだ瞳に戻った。


「まあ……スヴェン様ったら。そんな素敵な理由で夜遊びをなさっていたの? わたし、勘違いして……あんなに大きな声を出してしまいましたわ」


 ラウラは可愛らしく頬に手を当てたが、彼女が立っていた大理石の床は先ほどの超音波でひび割れていた。クリスティーンはやれやれと首を振り、まだ痛む耳を抑えながら、ボロボロになった壁から金槌を引っこ抜いた。


「全く、とんだ人魚姫様だわ。……でも、いい指輪になったでしょ? さあ、約束通り明日の分も、とびきり香りの強い薔薇を工房に届けなさいよ。今夜はこれだけ派手に働かされたんだから、最高級の薔薇風呂に浸かって、念入りに肌の手入れをしないとやってられないわ!」


 彼女は吹き飛んだ扉の向こう、雨が上がり始めた夜の街へと去っていく。今夜彼女の家のバスルームには、スヴェンが届けた真紅の薔薇がこれでもかと浮かべられ、最高の香りを放つことだろう。


 嵐が去り、静寂が戻った玄関ホール。窓は全て割れ落ち、夜空の雲の間から差し込む月光が、粉々になったクリスタルの破片を宝石のように照らしていた。


「ラウラ。君がどれほど強く僕の手を握っても、この指輪があればもう安心だ。僕は一生、君の隣を離れない。……君が時々、庭の鯉を踊り食いしていても、うっかり屋敷の壁を貫通させても、僕はそんな君の全てを愛しているんだよ」


「……もう、そうならそうとおっしゃってくださればよろしかったのに。わたし、あんなにイカを食べて……お屋敷を更地にしてしまうところでしたわ」


「はは……そうだね。でも窓がなくなったおかげで、今夜は星がよく見えるよ、ラウラ」


 ラウラは潤んだ瞳で彼を見つめ、そっと彼を抱きしめた。喜びのあまりについ力が入り、スヴェンの背骨が鈍い音を立てたが、彼は愛の重さに耐えて幸せそうに微笑み返した。

 人魚姫は泡に消えず、決して壊れない愛の形を手に入れた。海と陸の和平は、少しだけ暴力的なほどの純愛によって、ようやく本物になったのである。

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