第60話 燃え上がった激情
街の喧騒が嘘のように遠のいていく。早朝、石畳を駆ける俺たちの足音だけが、静寂を切り裂いていた。
俺の隣を走るブランクは隠密部隊長としてのその動きには、一切の無駄がない。後方からはヴァイスとプリンが静かに、しかし確かな存在感を放ちながら追従していた。俺の心は自分でも驚くほどに静まり返っていた。シスターの涙と、攫われたリリィの恐怖を想像した瞬間に燃え上がった激情は、今や絶対零度の刃へと変貌を遂げている。それは熱を失った、ただ対象を斬り裂くためだけの冷徹な殺意。
「主よ、大丈夫か?」
ヴァイスがどこか不安気に、それでいて畏怖を滲ませた声で囁く。普段のヴァイスなら俺の覚悟を試すような挑発の一つでも口にしただろう。だが、今の俺から放たれる気配は、そんな軽口を許さないほどに研ぎ澄まされているのを本能で感じ取っているらしかった。
「あるじぃ……こわいけど、がんばるのぉ……」
プリンは俺の服の裾を掴んだまま、小さな体で必死に俺たちの速度についてくる。その声は震えていたが、瞳の奥にはリリィを助けるという強い意志が宿っていた。
ブランクが示したアジトは、ヴェントの街の貧民街のさらに奥、人の気配がほとんどしない場所にひっそりと佇む、古びた石造りの少し大きな家だった。表向きは寂れた貿易会社の所有物ということになっているらしい。
「ここだ。間違いなく奴らのアジトの一つ。だが、入り口は一つでも内部は迷路のように入り組んでいる。見張りも相当数いるはずだ」
ブランクが息を潜め、警戒を露わにする。俺は無言で頷きスキルを発動させた。こっそり練習していたのを報告する事すらしていなかったスキル達だ。使う事があまりなかったからだ。
「鷹の目、オートマップ、マップ共有」
瞬間、俺の視界は倉庫の壁を透過し、内部の構造、人間の反応、その全てを立体的に捉える。地下三階まで続く複雑な構造、巡回する見張りのルート、そして……地下最深部の牢に、小さな光点が一つ。リリィだ。間違いない。俺が見ている映像は、そのままブランクの脳内にも共有される。
「なっ……!? なんだこれは……!?」
ブランクが驚愕に目を見開く。彼の常識を遥かに超えた索敵能力。しかし、今はそれに驚嘆している時間すら惜しい。
「説明は後だ。行くぞ。最短ルートで突っ切る」
「待て! いくらなんでも無謀だ! 見張りが……」
「問題ない」
俺は言葉を遮ると、倉庫が落とす濃い影の中へと一歩踏み出した。
「影移動」
ブランクが何かを言う前に、俺たちの体は音もなく闇に溶け込み、そして次の瞬間には、倉庫の一階、見張りの死角となる柱の影の中に立っていた。周囲には数人の構成員が退屈そうに雑談をしている。俺たちの侵入には、誰一人として気づいていない。
「……信じられん」
ブランクが絶句する。だが、俺は彼を振り返ることなく、先行するヴァイスに短く告げた。
「ヴァイス、派手に頼む」
「心得た。殲滅の時間じゃの。後でスキルの事も詳しく聞くからのぅ?」
ヴァイスの口元が獰猛な笑みに歪む。その姿が影から躍り出た瞬間、アジト内の空気が震えた。雑談していた構成員たちは、突如現れたヴァイスの姿に一瞬反応が遅れる。その一瞬が彼らの命運を分けた。
「な、なんだてめぇ!?」
「敵襲! 敵襲だ!」
警報を鳴らす暇も武器を抜く暇も与えない。ヴァイスは剣で攻撃をしかける。構成員達の苦痛と悲鳴が飛び交う。それは戦闘というより一方的な蹂躙。ヴァイスは文字通り、嵐のように一階の敵を薙ぎ倒していく。
「我はここの掃除をしておくから、主たちは先に行くと良い」
「助かる。ブランク、プリン、行くぞ」
ヴァイスが陽動というにはあまりに苛烈な攪乱を始めた隙に、俺たちは地下へと続く階段へと向かう。ここからは俺の領域だ。
「隠密、気配遮断」
俺の存在が完全に闇に同化する。すぐさま階段から駆け上がってきた数人の増援とすれ違うが、彼らは俺たちの存在に全く気づかない。その背後を通り過ぎながら俺は手にしたナイフの柄で、一人一人の首筋を正確に打ち抜いていく。声も上げられず崩れ落ちる男たち。その動きは、まるで精密機械のように冷徹で、一切の感情を伴わなかった。
「……これが、君の本当の戦い方か」
後方で同じく気配を消しているブランクが、息を呑むのが分かった。俺は答えず、ただひたすらにリリィがいる地下最深部を目指す。
地下二階。そこは幹部クラスの部屋が並んでいるのか、先ほどまでとは比較にならないほど練度の高い見張りが配置されていた。だが、今の俺の前では赤子同然だった。
「誰だ!」
一人が俺の殺気に気づき振り返る。だが、その時には既に俺は彼の懐に潜り込み、顎を蹴り上げて意識を刈り取っていた。続けざまに、隣にいた男の腕を掴み、関節をありえない方向にへし折る。骨が砕ける乾いた音が響くが、男が絶叫を上げる前に喉を潰し、沈黙させた。殺しはしない。だが、二度と子供に危害を加えられないように、戦闘能力は完全に奪う。それが、俺が自分に課したルールだった。
「ぐっ……き、貴様……!」
最後の見張りが恐怖に顔を引きつらせながらも、短剣を構えて向かってくる。
「遅い」
俺は短剣をいとも簡単にいなし、その勢いを利用して男の体勢を崩す。そして、がら空きになった腹部に容赦なく膝蹴りを叩き込んだ。男は「がはっ」と蛙が潰れたような声を漏らし、白目を剥いて床に沈んだ。
「あるじぃ……」
プリンが怯えたように俺を見上げる。俺は無言で彼女の頭を一度だけ撫でると、再び前を向いた。優しさを見せる余裕など今はなかった。
そして俺たちはついに地下最深部に続く、重厚な鉄の扉の前にたどり着いた。ここが最後の関門。
扉の向こう側からは複数の強い気配が感じられた。おそらく、ブランクが言っていた幹部クラスが数人、そしてリリィを攫った実行犯だろう。
「ブランク、プリン。ここからは俺一人で行く。お前たちはここで待機していてくれ。リリィを連れて戻る。構成員が来たら入れないようにしておいてくれ」
「しかし!」
「足手まといだ」
俺の冷たい一言にブランクは言葉を詰まらせた。彼の隠密能力は高い。だが、これから始まるのは隠密行動ではない。制圧だ。そして、プリンを危険な場所に連れて行くわけにはいかない。
「……分かった。だが無茶はするな。子供を助けるのが最優先だ」
「ああ、分かっている」
俺は鉄の扉に手をかける。鍵がかかっているが、そんなものは意味をなさない。俺はわずかに力を込めて、扉を内側へと押し開いた。ギィィ、と耳障りな音を立てて扉が開く。
部屋の中は薄暗い松明の光に照らされていた。中央には椅子に縛り付けられ、ぐったりとしているリリィの姿。その周りを見るからに手練れといった雰囲気の黒装束の男たちが四人、囲んでいた。
「……誰だ、てめぇは」
一人が、侵入者である俺に気づき、低い声で問いかける。
「よくも俺たちの遊び場を荒らしてくれたな。ここまでたどり着いたことは褒めてやる。だが、ここまでだ」
男は舌なめずりをしながら腰に提げた毒々しい色の短剣を抜いた。他の三人もそれぞれ武器を構え、俺を取り囲むように散開する。殺気が部屋に満ちていく。だが、俺の心は凪いでいた。怒りは既に行動理念へと昇華されている。俺はゆっくりとフードを脱ぎ、顔を晒した。そして手首に結ばれたミサンガを、奴らに見えるように掲げる。
「リリィに……この子たちに謝れ。そして二度と子供たちに関わらないと誓え。そうすれば命だけは助けてやる」
俺の言葉に男たちは一瞬きょとんとし、そして次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。
「ハッハッハ! なんだこいつは! 状況が分かってんのか?」
「命乞いをするのはてめぇの方だろうが!」
「そのお守り、あのガキが作ってたやつか? そんなものが何の役に立つってんだよ!」
リーダー格の男が嘲笑と共にリリィの頬を汚れた手で撫でる。その瞬間、俺の中で最後の理性の糸が音を立てて切れた。
「……そうか。交渉の余地はないと」
俺の口から漏れたのは、氷よりも冷たい呟き。
「忠告はしたぞ」
次の瞬間、俺はスキルを発動させた。
「能力3倍強化」
膨れ上がる闘気。俺の体が放つ圧力が部屋の空気を震わせ、松明の炎を激しく揺らした。さっきまで嘲笑っていた男たちの顔から笑みが消える。彼らの暗殺者としての本能やスキルが、目の前の存在が自分たちとは次元の違う絶対的な捕食者であることを告げていた。
「な……なんだ、こいつの気配は……!?」
「ひっ……!」
恐怖に引きつる彼らを視界の端に捉えながら、俺は一歩、また一歩とリリィの元へと歩を進める。
「お前たちはもう朝日を拝む事はないだろう。覚悟しろ!」
静かな宣告と共に俺は床を蹴った。
今週はこれにて。次回更新は未定です。ムクノキの感情が自分に燃えうつって、さらにテンションが上がりまくったおかげで、精霊の存在をわすr⋯⋯ry
長期空いてますが、続きは書くつもりですので、しばらくお待ちください。




