第59話 シスターの涙と昏い感情
俺たちはブランクと話し合った後、宿の一室に戻っていた。テーブルの上には優勝賞品である、スキルオーブが淡い光を放っている。しかし俺の心は目の前の輝きにはなかった。
「なぁ、ヴァイス。このスキルオーブ、売ったらいくらになるかな」
「主よ、それは愚問というものじゃぞ? スキルオーブの価値は計り知れん。金に換えるなど愚の骨頂じゃぞ」
ヴァイスが心底呆れた表情をしてため息をつく。
「わかってる。冗談だよ。ただ、孤児院の屋根を直したり子供たちに新しい服を買ってやったりするには、やっぱり金がいるだろ?」
俺の視線の先には手首に結ばれた不格好なミサンガがあった。子供たちの純粋な想いが編み込まれた、何よりも重いお守りだ。
「あるじ、やさしいぃ〜♪」
プリンが俺の膝の上で嬉しそうに微笑む。その頭を撫でながら俺は、明日の深夜に決行される作戦に思いを馳せていた。ブランクとの約束。暗殺者ギルドに捕らわれているという子供たち、そしてリリィたちの笑顔。全てを必ず取り戻す。
そのための力は、もう俺の手の中にあるのだから。
「ま、このオーブをどうするかは後回しにするか」
俺たちは静かに明日の戦いに備え始めていた。だが、守ると誓った場所で静かな悪夢が始まろうとしていることなど、この時はまだ知る由もなかった。
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ここは街の片隅にある小さな孤児院。深い静寂に包まれていた。子供たちは今日の出来事を夢に見ながら、すうすうと安らかな寝息を立てている。リリィもその一人だった。
ベッドの中で彼女は今日一日を思い出していた。闘技場で見たムクノキの圧倒的な強さ。自分たちが作ったお守りをつけた彼が、大きな歓声の中で腕を掲げられる姿は、まるで物語の英雄のようだった。
(お兄ちゃん、すごかったな……。約束、守ってくれたんだ)
優しくて強くて、少しおじちゃんっぽいけど最高にかっこいいお兄ちゃん。
(また来てくれるかな……? 輪投げの新しい技、教えてもらいたいな)
淡い期待を胸に、リリィの意識はゆっくりと眠りの海へと沈んでいく。シスターが静かに見回りを終え、月の光だけが子供たちの寝顔を優しく照らしていた。孤児院が一日のうちで最も無防備になる時間。
その静寂を破るように教会の古い床が、音もなく軋んだ。現れたのは闇に溶け込むような、黒装束を纏った三人の男たちだった。彼らの動きには一切の無駄がなく、まるで床の上を滑るようにして子供たちが眠る部屋へと侵入する。その足音は猫よりも静かで、彼らの気配は夜の闇そのものだった。
一人が子供たちのベッドを見回し、やがてリリィの寝顔の前で足を止めた。懐から取り出した小さな水晶が、リリィにかざされると微かに光を放つ。
「……間違いない。この子だ」
囁くような声に、もう一人が頷く。彼らの目的は最初からリリィただ一人だった。その時、物音に気づいたのか、シスターが自室から顔を覗かせた。目の前の異様な光景に彼女は息を飲む。
「あなたたち、ここで何を……っ!」
悲鳴を上げるよりも早く、黒装束の一人がシスターの背後に回り込み、その口を塞ぐ。抵抗しようとする彼女の首筋に手刀が打ち込まれ、シスターは声もなくその場に崩れ落ちた。
「静かにしろ。他の子供を起こす気か」
冷たい声が響く。彼らは子供たちに危害を加えるつもりはないらしい。あくまで目的はリリィの身柄のみ。そこで、異変に気づいたリリィがうっすらと目を開けた。目の前に立つ黒い影。すぐそばで倒れているシスター。状況を理解した瞬間、彼女の顔が恐怖に引きつった。
「シスター! 誰か……!」
叫び声は分厚い手で即座に遮られる。小さな体で必死に暴れるが、大人の男の力には到底敵わない。
「助け……お兄⋯⋯ちゃ……!」
必死に紡いだ助けを求める声は誰の耳にも届かない。男は忌々しげに舌打ちすると、リリィの鼻と口に甘い香りのする布を押し当てた。抵抗する力が急速に失われ、リリィの意識は再び暗闇の中へと引きずり込まれていく。ぐったりとした小さな体を担ぎ上げると、男たちは来た時と同じように音もなく闇の中へと姿を消した。
後に残されたのは意識を失ったシスターと、主を失った空のベッドだけ。窓から差し込む月明かりが、まるで涙の跡のように、冷たい床を濡らしていた。
**
翌朝、孤児院は絶望的な静寂から一転、パニックに陥っていた。
頭の痛みを堪えながら目を覚ましたシスターが、リリィがベッドにいないことに気づき、真っ青になったのだ。
「リリィ! リリィはどこですか!?」
シスターの悲痛な叫び声に、子供たちが次々と目を覚ます。いつもなら「おはよう」と笑ってくれるはずのリリィの姿がどこにもない。空っぽのベッドが、昨夜の出来事が夢ではなかったことを物語っていた。
「シスター、リリィは?」
「どこかへ遊びに行ったの?」
不安げに尋ねる子供たちに、シスターは涙をこらえながら首を横に振ることしかできなかった。何者かが侵入した痕跡。そして消えたリリィ。最悪の事態が彼女の脳裏をよぎる。攫われたのだ。
「そうだわ……あの人に知らせないと……!」
シスターの脳裏に浮かんだのは、子供たちの英雄となったあの青年の姿だった。衛兵に訴えても、すぐには動いてくれないかもしれない。だが、あの人なら。子供たちのためにあれほど親身になってくれた彼ならば、きっと助けてくれるはずだ。
シスターは、一人の年長の少年に後を託すと震える足で孤児院を飛び出した。一刻も早く、この絶望的な事実を伝えなければならない。
その頃、俺たちはブランクとの最終的な打ち合わせのため昨夜の酒場へと向かっていた。作戦は明日の深夜。それまでに装備を整え、万全の態勢で臨むつもりだった。
酒場の個室に入ると、すでにブランクは待っていた。しかし、その表情は昨夜とは比べ物にならないほど険しい。
「ブランク、どうした? 何かあったのか?」
俺の問いに、ブランクは重々しく口を開いた。
「……最悪の事態だ。昨夜、奴らが動いた」
「何!?」
「俺の部下からの報告だ。昨夜、一人の子供が孤児院から連れ去られたらしい。おそらく暗殺者ギルドの仕業だ」
その言葉に俺の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。孤児院。まさか……そんなはずはない。俺がそう否定しようとした瞬間、個室の扉が乱暴に叩かれた。
「失礼します! ここにムクノキ様はいませんか? 大変なんです!」
息を切らして飛び込んできたのは、宿の主人だった。主人は俺達を見つけると急いでこちらへ来た。
「ムクノキ様にお会いしたいという方が……孤児院のシスター様が血相を変えてお見えなんです! 急いで宿に戻ってください!」
全身の血が凍りつくような感覚。俺はブランクと顔を見合わせると、すぐさま部屋を飛び出した。宿のロビーには涙で顔をぐしゃぐしゃにしたシスターが立っていた。俺の姿を見つけると彼女は藁にもすがる思いで駆け寄ってくる。
「ムクノキさん……! お願いです……助けてください……!」
「シスター、落ち着いてください! 何があったんですか!?」
「リリィが……リリィが昨夜、何者かに連れ去られて……! どうしようも出来ず⋯⋯」
その言葉が、俺の中で、頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
怒りではない。もっと冷たく、底なしの昏い感情が腹の底から湧き上がってくる。リリィの笑顔が、俺にミサンガを渡してくれた時の真っ直ぐな瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
「……そうか」
俺の口から漏れたのは、自分でも驚くほど静かな声だった。だが、その静寂に込められた絶対零度の怒りは、従魔たちには痛いほどに伝わっていた。それは普段の彼からは想像もつかない、全てを凍てつかせるような冷徹な殺気。その奔流を間近で浴びたヴァイスは、歴戦の魔獣としての本能から無意識に声を漏らす。隣のプリンは、そのあまりのプレッシャーに青い瞳を恐怖に揺らし、ぷるぷると小刻みに震え始めた。
「主……? どうするんじゃ?」
ヴァイスの声には畏怖が滲んでいた。
「あ、あるじぃ……?」
プリンは怯えたように俺の服の裾を掴む。二人とも俺がこれほどの怒りを露わにしたのを初めて見たのだ。俺はシスターの肩をそっと掴み、震えを止めるように、しかし力強く言った。
「シスター、安心してください。リリィは俺が必ず助け出します」
その目には、もはや一切の迷いも温情もなかった。俺はブランクの方を振り返る。彼もまた、事の重大さを理解し覚悟を決めた顔をしていた。
「ブランク」
「……言われずとも分かっている。作戦は変更だ」
「ああ。明日の深夜じゃない」
俺は手首に結ばれたミサンガを強く握りしめた。子供たちの想い。それを踏みにじった奴らを決して許さない。
「今すぐ行くぞ」
そして俺達はアジトへと向かったのであった。
作戦? え? 頭がパンクしそうで訳わかめorz んなもんかんけぇねえ! つっこめぇ!




