第九話:報いの果てに
逢魔の本庁舎にて、ある一室の扉が静かに開く。凛夜は、足音一つ立てずに闇のように部屋の中へと滑り込んだ。手には一枚の札。その札が、今回の事件の裏に潜んでいた者の名を指し示していた。
調べはすでについていた。巧妙に情報を流し、古い記録を歪め、陰でカガリの過去を暴いたのは――逢魔の中でも中堅にあたる男陰陽師の一人だった。
動機は単純だ。
「妖が受け入れられてたまるか」「凛夜様に近づいているのが気に入らない」
――その両方だった。
凛夜は、怒っていた。静かに、深く。カガリが流した涙も、押し殺した感情も、自分にさえ隠していた痛みも――すべてを、知っていた。
「お前か」
不意に背後から囁かれた声に、男は凍りついた。振り返ると、そこに立っていたのは久遠凛夜。冷たい黒の装束に、澄んだ双眸。闇よりも深いその眼差しに貫かれ、男の喉は金縛りにあったかのように動かなくなった。
「他人を貶めることでしか、自分の正義を守れぬとは。――哀れなことだ」
凛夜の言葉は、さほど大きくない。それでも、まるで魂を凍えさせるような重さがあった。空気が音を失い、部屋中に圧が満ちる。
「償え。今すぐに、カガリの前で、な」
男は逃げようとすらできなかった。ただ、凛夜の一瞥に怯え、震える指で扉を開いた。
カガリは、外れの庭園で草木の世話をしていた。こうして何かに手を動かしていないと、気が紛れなかった。
そんな彼女の前に、彼が現れた。
「……あ、あの……すまなかった……俺が……やった……全部……」
震える声、伏せられた目、地面に擦れる膝。
「わ、わたしは……その、妖魔に家族を殺されてて……でも、それでも……お前が何もしてないのは分かってた。けど……許せなかった……」
最初は何が起きたのか分からなかったカガリ。しかし、視線を逸らして立ち尽くす凛夜の姿を見て、すべてを理解した。
(凛夜が……わしのために……)
瞬間、何かが溶け出すように、胸の奥が熱くなった。
「う……あ……」
涙が一粒、頬を伝う。止まらない。熱く、温かく、心の底から込み上げてくる感情が、涙となって溢れていく。
「ひ……ぐっ……う、うぅっ……!」
堪えきれず、カガリはその場に崩れ落ちた。草木の上で、子どものように泣きじゃくった。
「……ありがとう……凛夜……ありがとぉ……っ」
その姿に、周囲で物陰から様子を見ていた陰陽師たちは、言葉を失った。
強く、凛々しく、冷ややかなまでの風格をまとっていたはずの妖魔が、今はただ一人の少女のように泣いている。
(……あれが、彼女の本当の姿かもしれない)
そう思った瞬間だった。
「……ふっ」
凛夜が、ふと微笑んだ。
――それを見た瞬間。
「あ……」
「……あれ、今の……」
「めっちゃ、かっこよ……」
陰から覗いていた女性陰陽師たちの間に、ため息と共に色めき立つ空気が広がった。普段無表情な凛夜が、感情を滲ませた。その破壊力は、想像以上だった。
彼女たちは知らなかったのだ。凛夜が誰かに微笑むということの、あまりの希少性と、甘さを。
だが、当の本人――凛夜は、そんな視線には一切気づいていなかった。ただ、泣き崩れるカガリを遠くから見守るその表情には、今まで誰にも見せたことのない、優しさが確かに宿っていた。
(……泣いてもいい。お前が、お前としてここにいることを、もう誰にも否定させはしない)
凛夜は、静かに背を向けた。守るべきものの名を、心の中でそっと呼びながら。
――「カガリ」