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第八十三話:修羅へと堕ちしモノへの哀悼

冥道は、今にも崩れ落ちそうな身体に鞭を打ち、異界の門の前に立っていた。

瘴気は天を穿ち、門の向こうからは、次元を超えた妖気が滲み出ている。


「……くっ……自らの後始末すら叶わぬか……」


その声はかすれ、もはや呪力も尽き果てていた。

膝が砕ける。左手の小指が、灰となって風に舞った。


痛み以外の感覚は⋯もはや身体に残っていない。

他にあるとすれば、燃え尽きる寸前の命の熱だけ。


――その時だった。


ふと、体の芯に差し込むような温もりが走った。

痛みが、わずかに和らぐ。


「……娘……何のつもりだ」


美奈子が、冥道の傍らに膝をついていた。

術式を通して、彼の身に癒しを注いでいる。


「私では……貴方の痛みを、ほんの少し和らげることしかできません。でも、それでも……!」


美奈子の声は震えていた。だが、逃げなかった。


その隣で、もう一人。

カガリ――かつて白鐘篝と呼ばれた巫女もまた、冥道に癒しの術をかけていた。


「……貴様まで、何をしている……白鐘篝……」


冥道は振り向かずに呟いた。


「儂はもう白鐘篝ではない。今の名は――久遠カガリじゃ」


カガリの声音は、かつての鬼気を失い、静かな慈しみに満ちていた。


「お主がやったことは、許されることではない。儂がそれを言う資格はないのだろうがの……。じゃが――それでも、今のお主を、儂は恨み切ることはできぬ」


冥道の背中が、わずかに揺れた。


「……馬鹿な……奴らだ……」


吐き捨てるような声には、微かな安堵の色が混じっていた。


門の向こうでは、異形の妖魔たちがうごめき、すでにこちら側に半身を踏み出しかけている。

冥道は、残されたすべての力で、結界術を組み上げた。


美しい術式だった。

緻密で、繊細で、どこまでも強固。

それだけに、カガリと美奈子の胸には痛みが走る。


――なぜ、この男は、こんな術を、正しき場所で使えなかったのか。


異界の門が軋み、半ば閉じかけたその時。

冥道の左足が、灰となって砕け散った。


「――ッ!」


地面に崩れ落ちる。右手を地につくが、それもまた灰と化す。

顔を上げようとするが、視界がにじみ、世界が遠ざかっていく。


カガリと美奈子は、もう目を背けるしかなかった。


その時――


「まさか、お前に助けられることになるとはな……冥道」


聞き慣れた声。

仰向けの冥道が、ひび割れた顔を向ける。


「紅明……か。俺を、笑いに来たか……?」


紅明は、いつもの調子をやめ、静かに言った。


「笑う暇なんてねぇさ……礼を言いに来ただけだ」


一瞬、冥道の唇が震えた。


「縁を……救ってくれたこと。感謝する」


その言葉を聞き、冥道は、想像してしまった。

かつての平安の世。晴明がいて、紅明がいて、縁がいて、宗雅がいて――そして、自分が愛した女もいたあの頃。

そこに…自らが並び立つ姿を。


皆が一同に介し、何でもないことで笑い合っている。

それは、あり得たかもしれない、もう一つの過去。


冥道の顔を見て、紅明が呟いた。


「……あったさ。お前が思い描いてる、その未来も、過去も……全部、きっと、あったんだよ。……馬鹿野郎が……」


冥道は口を開きかけたが、その言葉を飲み込む。

それでも、ひとつだけ、嘘を口にする。


「……俺は、後悔など……ない。俺は俺として生きた。そこに……後悔など……あろうはずも、ない……」


冥道の体が、指先から崩れていく。

涙すら、もう流せない。

瞳は、光を失っていた。


美奈子が、冥道の胸にそっと触れた。


「冥道さん……もう、いいんです。どうか……休んでください」


その声は、冥道にはもう、よく聞こえていなかった。

――けれど、彼の脳裏には、かつて愛した女の声が響いていた。


冥道の口元が、わずかに笑みを浮かべた。


「……ああ……少し……疲れたよ……」


その言葉を最後に、冥道の瞳は閉じられた。


全身が、風に還るように、灰となって溶けていく。

風が吹き、ただ静かに、彼を空へとさらっていった。


紅明は、その舞い上がる灰を見上げながら、呟いた。


「……本当に……どうしようもない、大馬鹿野郎だ……」


けれど、その声には――怒りも、憎しみもなかった。


ただ、かつての友を見送るための、惜別の言葉があった。

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