第八十二話:その手に引かれて
暗闇の中に、紅明はいた。
空間の感覚も、重力の方向もない。
上も下も、右も左もわからない。
まるで意識に霧がかかったように、世界は朧だった。
――俺は、どこにいる?
記憶の断片だけが、かすかに残っている。
凛夜とカガリに檄を飛ばしたことは覚えていた。
だが――その後は?
「ここは……どこだ……。まさか、俺は……死んだのか……?」
呟いた声さえも、すぐに虚無へと溶けていく。
全身がひどく冷えていた。
骨の髄まで凍えるような寒さ。
心の奥まで、しんしんと凍りついていくような孤独。
「……あいつらは、勝ったのか……生きてんのか……?」
かすれる声。答えはない。
「……いや、生きてるさ。あのふたりなら……きっと……」
紅明は、自分に言い聞かせるように微かに笑った。
「寒いな……それに……少しだけ……寂しいな」
そう呟いて、苦笑する。
「ハッ。らしくもねぇ」と自嘲気味に。
「……まあ、やれることはやったよな。兄者……宗雅……」
あてもなく歩き出す。
足元は見えないが、なぜか歩ける。
歩いても、歩いても、ただ暗闇が広がるばかり。
終わりも始まりもない、永遠の夜。
だが、その時だった――
声が、聞こえた。
”――そちらへ行かないで”
”――紅明お兄ちゃん、こっちだよ”
”――駄目ですよ。みんなのところに帰ってきてください”
確かに、声がした。
懐かしくて、あたたかい声だった。
思わず振り返る。
そこに、三つの人影が浮かんでいた。
顔は見えない。だが、なぜか懐かしい。
三人は、そっと手を差し伸べていた。
――帰ってこい、と。
――まだ、終わっていない、と。
紅明は、無意識にその手に自分の手を伸ばした。
温かく、優しい手だった。
どこまでも穏やかで、強くて、導いてくれる。
三人の手が、彼をゆっくりと――光の方へと導いていく。
歩いていく。
どれほど歩いただろうか。
進む先に、淡く輝く光が見え始めた。
暗闇の中に、確かに在る、あたたかな光。
その光の向こうには、幾人もの人影が見えた。
それはきっと、自分が守ってきた人たち。
守りたかった未来。
もう会えないと思っていた、大切な“誰か”。
紅明は、一歩ずつ光の中へと踏み出していく。
その瞬間――
意識が浮上する。
まぶたの裏に、淡い温もりを感じる。
全身が痛い。
鈍い重さが、肉体へと帰ってきていた。
だが、それは生きている証だった。
「……ん……」
かすかな声が漏れる。
その刹那――
「おはよう……紅明お兄ちゃん……そして……ただいま!」
その声が、耳に届いた瞬間、世界が音を取り戻す。
――この声は。
懐かしい。
痛いほど、会いたかった声。
もう二度と聞けないと、諦めていた声。
縁の――ゆかりの、声だ。
紅明は、ゆっくりと瞼を開ける。
痛む身体を無理やり起こす。
視界に映るのは――美奈子。カガリ。そして……縁。
彼女は、微笑んでいた。
あの頃と変わらない、優しく、強いまなざしで。
「これは……夢か……? ゆか……り……。お前……」
縁は、何も言わずにそっと紅明を抱きしめた。
あたたかかった。
この世で、何よりもあたたかいと思えるその抱擁に、
紅明の胸がきゅっと締め付けられた。
そして――縁は言った。
「紅明お兄ちゃん……大好きだよ」
その一言が、紅明の心を突き動かした。
止まっていた何かが、動き出す。
張り詰めていた何かが、ほどけていく。
気づけば、紅明の頬を、熱いものが伝っていた。
それは――
自らに泣くことを禁じてきた男の、
千二百年ぶりの、涙だった。
ただ一人の最愛の人に抱かれながら。
もう一度、この世界に帰ってきたのだった。




