第八話:静かなる炎
それは、確かに変化だった。
逢魔の一角――仮配属された管理課分室。
異端の存在であるカガリは、今日も黙々と資料整理をしていた。
冷え切った空気の中、誰に呼ばれるでもなく出勤し、与えられた仕事をこなす。
時折、道具の扱いに手間取ることはあっても、彼女は決して弱音を吐かなかった。
人々の視線は、まだ刺さる。
だが、それでも。
「お、おい……。あの帳簿のまとめ、よくやってくれてるらしいな」
「……昨日、困ってた後輩の機材設定、手伝ってたって。案外器用なんだな、あの人」
わずかに――本当にわずかに。
空気が、変わり始めていた。
いつしか、職員たちの中にもカガリの姿を“存在”として受け入れ始めた者が現れ始めていた。
かつて恐れられた“妖魔”としてではなく――今ここで、ただ懸命に働く一人の“存在”として。
(……変わったのう、儂も)
ふと、窓辺で書類を閉じながらカガリは思う。
凛夜と出会う前の自分であれば、耐えることなどできなかっただろう。
(今の儂は……あの男のおかげでここにおる。……それだけは確かじゃ)
その想いは、いつしか確信に変わっていた。
(儂は……凛夜が、好きじゃ)
それが、許される想いなのかは分からない。
人間と妖魔。交わることのない道を歩んできたはずの者同士。
だが、それでも彼のそばにいたいと願ってしまう。
(許されたい。……せめて、この想いだけでも)
――しかし、そんな淡い希望は、突如として打ち砕かれる。
「……おい、聞いたか? 昔、カガリって、平安の大妖として一晩で村を焼いたらしいぞ」
「え、まさか……それ、実話?」
「いや、それだけじゃない。陰陽師を喰ったこともあるって……名前まで記録に残ってるそうだ」
冷ややかな空気が、再び広がる。
そしてそれは、明らかに“自然に漏れた情報”ではなかった。
平安時代の史料にしか残っていないはずの、特定の出来事。
隠匿されてきたはずの“闇”が、精密に選ばれた形で噂となって広がっていた。
――人為的に、意図的に、カガリを排除せんとする力。
それは彼女を再び、針の筵に座らせた。
「…………」
それでも、カガリは何も言わなかった。
(……儂がやったことじゃ。仕方あるまい)
罪は消えぬ。
赦されぬことを、彼女自身が一番理解している。
だからこそ――
(耐えるしかあるまい。凛夜に……迷惑は、かけとうないからのう)
心に槍が刺さっても、顔には出さず。
彼女は今日も書類を抱えて、いつもと同じように出勤していった。
一方、凛夜はその噂の広がりを、遅れて知ることになる。
「――誰だ」
噂の出所を探る必要もない。
情報の出し方があまりに精緻だ。
カガリの過去を知る人間など、ごくわずか――それも機関の中枢に近い者のみ。
「……意図的に仕組まれたもの、か」
机の上で手を組みながら、凛夜は静かに瞳を閉じる。
胸の内から沸き上がる感情――
それは、かつて自分でも理解しきれなかったものだった。
この女が、どうして自分に懐くのか。
この女が、どうして変わろうとしているのか。
最初は、それすら分からなかった。
だが今は――
(あれほどの力と業を持つ者が、それでも人の世界に留まろうとする理由)
(……答えは、すでに俺の目の前にある)
そして、彼女が耐えていることも分かっている。
何も言わず、ひたすら堪えていることも。
――それでもなお、穏やかでいられるほど、凛夜は達観してはいなかった。
「……誰の仕業かは知らんが――逃さんぞ」
静かに、凛夜は立ち上がる。
深い夜の如き闇の中から、微かに立ち昇る殺気。
それは久遠凛夜という男が、“本気”で怒りを露わにする前兆。
「報いは、受けてもらう」
凛夜の黒衣が揺れる。
背に刻まれた封符が、淡く燃える。
陰陽の術が、静かに、しかし確かに満ち始めていた――