第七十七話:《宿命、目覚めの鼓動》
京の空を裂くような戦の残響の中、日下部美奈子はひた走っていた。
満身創痍の紅明の下へ。
この場で、癒しの術を使えるのは──ただ一人、美奈子だけだった。
癒しの巫女と呼ばれたカガリですら、いまはその力を持たぬ。
妖魔へと堕ちたその日、癒しの力は消え去っていたのだ。
悔しさを押し殺しながら、唇を噛み締めるカガリ。
美奈子は地を蹴り、紅明の傍らに膝をつく。
泥に汚れた手をそっと彼の胸元に当てた。
「……鼓動……まだ、ある……!」
その言葉に、凛夜の色を失っていた視界に、鮮やかな世界が戻ってくる。
まるで、それは凍った心が溶け出す瞬間のようだった。
美奈子はすぐに印を結び、術を起動させる。
余力など、残している場合ではなかった。
今ある力のすべてを、ただ一人の命に注ぐ。
「死なせない……! 絶対に死なせるもんか……!」
眩い癒しの光が紅明を包み、その身体にゆっくりと、生の温もりが戻っていく。
その様子を、少し離れた場所に立ち、冥道は静かに見下ろしていた。
その手ひとつ振るえば、紅明も美奈子も容易く葬れる。
だが──冥道は、動かなかった。
「……好きに足掻がいい、人間ども。抗えるものならな」
そう呟いた冥道の瞳に、わずかなゆらぎが浮かぶ。
彼は目を閉じ、そしてゆっくりと再び開いた。
その刹那に現れたのは、かつて知っていた修羅の目だった。
冥道の視線がカガリへと移る。
「白鐘の女よ……千二百年の時を渡り、なお“在る”とはな。
かつて我が手で破滅に至らせた貴様が……さぞや我が憎かろう?」
問いかけるような声音に、カガリは静かに答えた。
「……憎い。いや、憎かった。かつてはな。
じゃがの、いまの儂は……お主が哀れでならぬ」
その言葉に、冥道は眉を僅かに動かした。
そして──その瞳が、わずかに濡れる。
ほんの一瞬。
それは、誰にも気づかれぬような、かすかな涙の気配だった。
しかし冥道はすぐに目を細め、冷笑を浮かべる。
「ふ、妖魔風情が我を哀れむか。滑稽な……」
次に冥道は、真っ直ぐに凛夜を見つめた。
「久遠凛夜……よくぞここまで来たな」
凛夜は、カガリの傍に立っていた。
彼女の鼓動を背に感じながら、正面から冥道と対峙する。
「……冥道」
その名を呼ぶ凛夜の声は、澱みなく、迷いもなかった。
冥道はひとつ、間を置いて呟く。
「……長き因縁も、ここで終わる。久遠凛夜──お前という存在を喰らい、我は望む我となる」
一瞬の沈黙の後に。
「そして、我に背を向けた世界に地獄を落とそう。決着をつけよう。我が“血”よ」
凛夜の声が重なる。
「確かに、俺には芦屋の血が流れている。
……一時は、俺自身も“修羅”に堕ちかけた。
でも──俺はお前にはならない」
瞳を細め、力強く続ける。
「俺は、この血を“守る”ために使う。
お前のように、壊すためには使わない。
決着だ、冥道!」
その場に風が吹き抜ける。
時を超え、血を超え、想いが交錯する。
凛夜とカガリ。
そして冥道。
一千二百年にわたる因果の終着が、いま、静かに幕を開けようとしていた──。




