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第六十五話:芦屋冥道の章1:影を落とすもの

平安京の空に、月が鈍く浮かんでいた。

音のない宵闇のなか、ひとりの男が立っていた。


芦屋冥道──安倍晴明と並び、宮中に仕える陰陽師。

その名は静かに、しかし確かに人々の間に響いていた。高い術の才を持ち、理知的で、学識深く、誰よりも冷静で、そして、努力を惜しまない。


……ただ、一つだけ──


「……やはり、あの男か」


人知れず、冥道は呟いた。

遠目に見えるのは、安倍晴明が帝に拝謁している姿。冥道が準備していた呪式を、より洗練された形で、晴明は提示したのだ。


称賛の声が飛ぶ。笑みが浮かぶ。

帝の御簾の向こうからさえ、満足げな気配が漏れ出していた。


冥道は、唇を噛みしめた。


──晴明は、完璧だった。

才も、人望も、運命さえもが彼の味方をしているように思えた。


幼き日。ともに陰陽寮で学びはじめた頃には、たしかに実力は拮抗していた。いや、努力の量でいえば、自分のほうが勝っていたはずだ。


だが、晴明は違った。

彼には、あらゆる呪の理が「降ってくる」ようだった。理解するより前に、感じ、掴み、操る。自然の摂理をまるで親友のように扱うその姿は、畏怖すら覚えるほどだった。


「……俺は、足りないのか」


思わず、拳を握り締める。


そんなある日──


冥道が心を寄せていた女がいた。

知性と気品を備え、宮仕えではないながらも、陰陽寮に縁深い医師の家の娘。


ある春の夜、彼女が漏らした言葉が、冥道の心に永遠に刺さった。


「……晴明様のこと、尊敬しているの。あの方がもし、“そういう目”で私を見てくれるなら……」


その声音は、柔らかく、そして本物だった。

誰の気持ちにも気づくはずの冥道が、その言葉だけは──気づきたくなかった。


その夜、冥道は酒を口にし、久しく眠れぬ夜を過ごした。


心がじわじわと黒く染まっていくのを感じていた。

まるで、胸の奥に、冷たい泥が流れ込んでくるかのようだった。


晴明は何も悪くない。

だが──なぜ、すべてを奪っていく。


術の才も。人の信も。

そして、たった一人、想いを寄せた女の心までも。


「……俺は、間違ってなどいない。努力して、磨き続けた。なのに、なぜ……選ばれない……?」


問いは、誰にも届かなかった。


ただ、彼の足元に影が一つ、伸びていた。

それは、晴明でもなければ、彼の想い人でもない。


冥道自身の心から湧き上がった、純粋な闇。

それが、彼の運命を変えていく。


静かに、確かに。

一人の天才陰陽師が、闇に足を踏み入れる第一歩を踏み出していた。


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