第六十四話:晴明の章 後編――伝わらなかった名前たち――
今日は4話いけました!
冥道が封じられた夜から、いくつかの月日が流れた。
京の町は、平穏を取り戻した。
怨霊は姿を消し、妖異もまた沈黙した。
けれど、それは――
彼らがこの世からいなくなったという、何よりの証だった。
宗雅、紅明、縁。
あの三人の力が、この世にもう無いという現実。
(……残ったのは、私だけだ)
晴明は、京の外れにある山里を訪れていた。
久遠宗雅が最後に会いたいと願った、ひとりの女性に伝えるために。
彼女は、宗雅の妻だった。
その身には、新しい命が宿っている。
質素な着物に身を包み、清らかな井戸水で庭の草花に水をやる姿。
その背には、覚悟の色と、かすかな期待が滲んでいた。
私の姿を見ると、彼女は静かに微笑んだ。
「……宗雅様は、お役目を果たされたのですね」
「……ああ。見事に、成し遂げた」
「……そうですか」
それ以上、何も訊かれなかった。
代わりに、彼女の手に一通の文が渡される。
宗雅が、最後に書いたもの。彼女に遺すために託された手紙だった。
彼女は、ゆっくりとその文を開いた。
数行も読まぬうちに、その指先が震え始める。
やがて、膝を折り、声もなく泣き崩れた。
私はただ、黙ってその隣に立ち続ける。
その涙の意味を、私は知っている。
言葉ではなく、魂で交わした想いの深さを。
宗雅という男が、どれだけの“愛”と“責任”を抱いて生きたかを。
しばらくして、彼女は顔を上げた。
その目には涙が残るものの、微かに笑みが浮かんでいた。
「……ありがとう、晴明様。あの人のこと、最後まで……」
「……私が言葉を尽くすよりも、宗雅の魂が、すべてを伝えたはずだ」
「ええ。ええ……」
庭の花が、静かに揺れる。
その奥で、風に乗って宗雅の声が、どこかで囁いているようだった。
その日を境に、私は再び“陰”へと戻った。
歴史の表には、安倍晴明という名だけが刻まれた。
未来に語られる英雄譚の中に、久遠宗雅も、安倍紅明も、安倍縁も、その名を連ねることはなかった。
だが、それでいい。
名が残らずとも――
彼らの想いは、確かにこの国の根を支えていた。
宗雅の知略が無ければ、冥道を封じる術式は生まれなかった。
紅明の力が無ければ、妖魔たちは封じきれなかった。
縁の慈しみが無ければ、傷ついた者たちは癒されず、心も命も散っていた。
三人の名は消えても、
彼らが遺した“生”は、この国の土となり、未来の種を育てていく。
私は――
そんな彼らの“影”として、生きることを選んだ。
幾度も、人を救った。
幾度も、陰陽を操った。
だが、それはすべて、彼らが遺してくれた力があったからこそ。
「晴明様、どうか教えてください。
なぜ、あなたはそのように人のために――」
若き陰陽師にそう問われた時、私はただ、静かに微笑んでこう答えた。
「……昔、命を懸けて“未来”を信じた者たちがいてな。
私はその未来に、生きているだけだ」
だから、涙は流さない。
宗雅が命を賭して望んだもの。
紅明が未練を断ち切って託した力。
縁が最後に願った、人の安寧。
そのすべてを、俺が抱いていればいい。
(――名は残らなくとも、魂は続いていく)
風が、空を抜けていく。
その風は、千年の時を超え、いつかまた、あの“未来”に辿り着くだろう。
(――そこに、希望があれば)
私はその風に、三人の名を乗せて、祈るように呟いた。
「久遠宗雅……安倍紅明……安倍縁。
お前たちの生きた証は、私が決して忘れない」
空に、答える声はなかった。
けれど、私には確かに聞こえた。
――ありがとう、と。




