第六十一話:宗雅の章 7――未来へ託して――
星すらも雲に隠れた夜だった。
湿った風が吹き、京の外れにある呪禁の地には、瘴気が渦巻いていた。
その中心にいたのは、篝――かつて人だった女。
裏切りと憎しみに喰われ、自ら妖と化した、呪詛の塊。
己を傷つけた人間への怨嗟だけを力に、血を浴び、命を啜る。
それでも、我ら三人は退かなかった。
晴明は呪式を編み、紅明は炎を纏い、私は風と雷で縛りを築いた。
三人で、ようやく封じ切った。
だが、その勝利の余韻は一瞬にすぎなかった。
「……終わったか……いや……終わってなどいないのだな」
戦後の静寂の中で、晴明がそう呟いた。
私はその意味を、すぐには理解できなかった。
数日後――
晴明に呼び出された我らは、霊山の奥深く、人の立ち入らぬ地にいた。
彼の顔には、かつて見たことのないような陰が落ちていた。
「……未来を視たのだ」
晴明の第一声に、私は言葉を失った。
あの晴明が、“未来”を視たと言うのだ。
「およそ千二百年後、この国に、未曽有の災厄が訪れる。
大百鬼夜行──人も妖も、神さえも呑まれる、理を超えた災厄だ」
彼の言葉に、紅明が息を呑んだ。
私は、信じたいような、信じたくないような思いで、その続きを待った。
「そのとき、今のままでは防げない。
誰かが“未来”に行き、備えをせねばならない」
重苦しい沈黙。
誰かが、未来に旅立つというのか。
紅明が、一歩踏み出した。
「ならば俺が行く。俺が未来で、それを喰い止める」
私は即座に言った。
「ならば、私が行こう。お前よりも、私の方がこの時代に未練はない」
「そいつは違う、宗雅。」
紅明は静かに首を振った。
その目には、覚悟があった。もう、誰にも揺るがせないほどのものが。
「兄者はこの時代に必要だ。お前も。俺は……縁がいなくなってから、ずっと空っぽだった。
だったら、何かを守るために、その“空っぽ”を使う。
それでいいじゃないか」
私は、唇を噛んだ。
そう言われて、返す言葉がなかった。
晴明もまた、紅明の意思を覆そうとはしなかった。
むしろ、理解した者の目をしていた。
そして、禁術が発動される日が来た。
術式の中心に立つ紅明。
晴明と私は周囲に結界を張り、陣を定めた。
これは、魂と肉体を時間の流れから切り離し、未来に送り出す術──
すなわち“時封の呪”。
一度発動すれば、二度とこの時代には戻れない。
目覚めが成功する保証もない。
それでも、紅明の顔に恐れはなかった。
晴明が、静かに口を開く。
「……許せ、弟よ。お前にこれほどの業を……背負わせてしまう兄を……」
紅明は、それをやんわりと制した。
「分かってる。兄者がどんな想いでこれを言ってるか、俺が一番知ってるよ」
そう言って、紅明は私を見た。
いつもの軽口も、気安さも、そこにはなかった。
ただ、真剣な、真っ直ぐな目だけがあった。
「宗雅。頼んだぜ。兄者のことを」
その言葉が、胸に突き刺さった。
(お前が……私にそれを託すのか……?)
声が出なかった。
叫びたかった。
止めたかった。
けれど、それでも私は、式を止めなかった。
なぜなら、それが彼の“答え”だったからだ。
紅明は目を閉じ、術式が起動する。
時の流れから切り離された彼の肉体が、まばゆい光に包まれ、結界の内へと沈んでいく。
風が止み、音が消えた。
空間が歪み、紅明が“未来”へと封じられる。
紅明は、眠りについた。
千二百年の時を超えて、いつか再び目覚めるその日まで――
術式の終わった場所に、残されたものは何もなかった。
ただ一枚の護符と、彼の名を記した封呪の印が、風に揺れていた。
私は目を閉じ、拳を強く握った。
(……紅明。
ならば私も、お前に背を向けるわけにはいかぬ)
未来に託された友。
この時代に残された我らの責務。
彼の眠りが無駄にならぬよう、私は“今”を守り抜かねばならない。
そして願う。
彼が再び目を覚ます未来に、縁の想いも、我らの願いも、きっと届いているように――




