第五十一話:篝の章5―その身、妖に落ちてなお―
焼け焦げた記憶の中、彼女は彷徨っていた。
名も、言葉も、肌を撫でる風のやさしさすら思い出せぬ深淵で、
それでも、ただ一つの想いだけが篝の魂にしがみついていた。
――志晴さまに、会いたい。
幾度となく人の世を呪わんとした。
怒りに任せて街を破壊しようとした時もあった。
だが、そのたびに彼女の中で、かすかな声が響いた。
『だいじょうぶです。私はここにいます』
『お薬、おつけしましょうか』
『お辛いときは、泣いてもいいんですよ』
それは、自分が他者にかけてきた言葉。
あの頃、癒やしの巫女と呼ばれ、人々を温かく包んでいた日々。
それが、呪いのように篝の心を縛っていた。
「……私は……何に……なってしまったのかしら……」
自問するたび、身体の奥に巣食う“何か”が牙をむいた。
あの時、あの処刑の火刑台で、肉体と心を引き裂かれた瞬間――何か異質な力が、彼女に入り込んだ。
それが、芦屋冥道の手によるものだとは、篝は知らなかった。
ただ、世界が歪んだことには、気づいていた。
人の心を狂わせ、愛する者すら反転させる理不尽な何か――。
「それでも、私は……」
――癒したい。たとえ、この身が呪われていようとも。
篝は、焦土と化した村にたたずみ、小さな骸を見つける。
かつて、自分の薬で病を癒やした少女だった。
すでに冷たくなったその手を包み、篝はそっと目を閉じる。
「ごめんなさいね……守れなかった……」
その涙は、もう赤かった。
人の流すものではなく、妖の、呪いの涙。
けれどそこに込められていたのは、間違いなく――優しさだった。
やがて、数年の時が流れた。
篝は妖魔として語られるようになった。
「平安最強の妖魔・白鐘の女」
その名は、畏れと共に陰陽師たちに刻まれていく。
しかし誰も知らなかった。
その妖魔が、戦うことより、誰かを癒やす手の温もりを覚えていたことを。
破壊より、微笑の方が美しいと知っていたことを。
そして、誰よりも深く、たった一人の人間を愛していたことを。
篝は、自らを討伐に来た陰陽師を退けることはあっても、今に至るまで、ただの一人も殺さなかった。
しかし、その妖力は強大すぎた。他の妖魔の仕業ですら、白鐘の女の仕業であるとされるほどに。
それでも、篝は殺さなかった。
殺すぐらいなら、自らが傷つくことを選んだ。それでもどうしようもない時だけ、戦い、退けた。
篝は志晴に会いたかった。
ただ一目会い、すまなかったと、愛していると、そう言ってもらえれば、自分は人としての心を持ったまま逝ける。
それだけを望みに、篝は志晴を探し求めた。
ある夜、篝はぼろぼろの衣をまとい、遠く山中の墓地へと辿り着く。
風に苔が揺れるその場所に――彼の名を刻んだ墓石があった。
「………………」
言葉は出なかった。
崩れ落ちるように膝をつき、そっと墓の石に手を添える。
何かが、壊れた。
誰にも届かなかった想い。
もう決して戻らない日々。
「――志晴さま……?」
乾いた喉がかすれる。
返事は、ない。
ただ、墓前に添えられた白椿が一輪、風に揺れた。
それを見た瞬間、篝の中で、何かが決定的に崩れ落ちた。
嗚咽も出ないほどの、空虚な喪失感。
その身を妖魔に落としながらも保ち続けた“人の心”が、音を立てて砕けていく。
「……もう、いないのですね……」
そう呟いた声に、かつての優しさはなかった。
ただ、深い底から湧き出る冷たい怒りと――虚しさがあった。
この瞬間、篝は完全なる妖魔となった。
だがその奥底で、かつての“癒やしの巫女”は、今も小さくうずくまって泣いている。
誰にも知られぬままに。




