第四十八話:篝の章2 手折られた癒しの華
草花が風に揺れ、陽だまりの中で小鳥がさえずる。
その光景の中に、ひとりの巫女がいた。白鐘篝――「癒やしの巫女」と呼ばれたその女性は、清らかで、穏やかで、ただその存在だけで人々の心をほぐしていた。
「どうか、お身体を大切になさってくださいね」
篝は誰に対しても丁寧に言葉をかけ、傷ついた者には手を添えて癒やしを与え、泣いている子供には、そっと微笑んで歌をうたった。
周囲の者たちは皆、そんな彼女を慕い、尊び、「まるで神が遣わした癒やしの申し子だ」と称賛してやまなかった。
けれどその日々は、静かに、そして着実に崩れはじめていた。
最初は小さな噂だった。
「白鐘篝は、異なる力を使って人を操っている」
「笑顔の裏に、邪なる気が潜んでいる」
誰が言い始めたのかもわからない噂は、まるで瘴気のように広がっていった。
それでも篝は、眉ひとつ動かさなかった。
「人は、不安になると真実を見失うものです。私は、誰も責めません」
そう言って、今日も傷ついた者の手を取り、祈りをささげた。
だが――悪意は止まらなかった。
ある日、篝が通う社に、ひとりの男が駆け込んできた。
「娘が……娘が突然おかしくなった! あんたのせいだ、あんたが娘に呪いをかけたんだ!」
「いいえ、私は……」
篝が否定の言葉を口にしかけた瞬間、男は地面に落ちていた石を手に取り、彼女に投げつけた。
それを皮切りに、集まっていた人々が次々と石を投げ始める。
「魔性の女め!」
「笑って人を陥れやがって……!」
篝は、それでも逃げなかった。
震える手で胸元の数珠を握り締め、唇に微笑を浮かべたまま、黙ってすべてを受け入れた。
涙は、流さなかった。
その夜、篝は独り、境内の石段に座って、月を見上げた。
月は静かに照らしていた。誰が正しいかも、誰が嘘をついているのかも語らずに。
――なぜでしょう。こんなにも心が冷えるのに、涙は出てきません。
心の中に渦巻く黒い影。それが何者なのか、篝にはわからなかった。
だが確かに、何かが人々の心を蝕んでいた。
篝にはその「悪意」の存在だけが、はっきりとわかっていた。
やがて、篝に処刑の命が下される。
「白鐘篝は、人々に邪をもたらした罪により、死をもって償うものとする」
そして迎えた、最期のとき。
篝は白装束に身を包まれ、広場へと引き立てられていた。
人々の罵声が飛び交う中、その場を先導していたのは――愛した男、藤原志晴だった。
志晴はどこかうつろな目をしていた。冥道によって心を支配されているとは、篝には気づけなかった。
ただ、彼の手が震えていたことだけは、はっきりと見えた。
篝の身へと火が放たれる。
みるみるうちに、その身を業火が焼いていく。
「志晴…様……」
地獄の苦しみの中、篝は最後の言葉を、彼に向けた。
「それでも私は……あなたを信じています」
処刑人の手により、太刀が振り下ろされる。
血が咲いた。
白き装束が紅に染まり、彼女はゆっくりと倒れた。
最期まで、笑顔を失わずに。
その瞳には、志晴の姿が映っていた。
処刑された瞬間、人々の中に静寂が落ちた。
まるで何かが、取り返しのつかないものを失ったことに、うっすらと気づいたかのように――
その夜、篝の身体はそのまま社の奥に葬られた。
誰も祈らなかった。誰も花を手向けなかった。
篝は、もういなかった。
けれど、彼女の心は、完全に壊れきっていなかった。
――なぜ、こんなことになったのか。
――誰も恨みたくない。ただ、それでも、痛かった。寂しかった。
そして、篝は死したのではなかった。
眠りについたのだ。
その身が妖魔として目覚める、長い長い悪夢の入り口に――




