第五話:焔心(えんしん)
人間の里にほど近い山中。
深い霧が立ち込めるなかで、激しい火花が散っていた。
「くっ……この程度で……!」
妖炎を纏った掌を振るい、カガリは目前の異形を蹴散らす。
だが、それは即ち、次の一撃を呼び込むに等しい。
目の前に現れたのは、漆黒の大蛇――否、蛇の形をした“呪詛”そのもの。
人の怨嗟と妄執が積もり積もって生まれた、魑魅魍魎の最たるもの。
ただの妖などではない。これは“闇”だ。
「……儂とて、かつては闇より生まれしものじゃ……」
己に言い聞かせるように呟き、再び火を放とうとした瞬間――
背筋に走る、凍えるような悪寒。
遅かった。
呪蛇が大口を開き、咆哮と共に一気に間合いを詰める。
回避は間に合わない。
防御も追いつかない。
全身を貫かれる幻覚を覚えた――
「ッ――ああ、もう……ここまで、か……」
悔しさと、虚しさと、どこかほっとした気持ちすら混ざっていた。
(ようやく…終われる……)
だが。
――その時、空気が反転した。
「木、火、土、金、水――」
静かでありながら、全てを断じるような声が、空気を切り裂いた。
「――【五行滅殺】」
瞬間。
大地が震え、空が裂けた。
五つの光――緑(木)、紅(火)、黄(土)、白(金)、蒼(水)が一斉に奔り、
巨大な五芒星を描くように呪蛇を包囲した。
逃げ場も、反撃の余地もない。
「ぎャアアアアアア!!」
絶叫と共に、呪蛇はその身を引き裂かれ、塵と化した。
霧が晴れる。
立ち尽くすカガリの前に現れたのは、黒衣を翻す男――
「……遅くなった」
――久遠凛夜だった。
「お、お主……いったい、何者じゃ……」
しばし言葉を失ったカガリは、ようやく一歩を踏み出すと、震える声を絞り出す。
「な、なぜじゃ……? なぜ……助けた」
自分を祓う力など、とうに持っていたではないか。
五行を極めるような術式、あの時も使えたはず。
「それほどの力があるのに、何故……あの時、儂を祓わなかった! 妖魔を、あれほどまでに憎んでいたではないか!」
口から出た言葉は、怒りよりも――悲鳴に近かった。
「なぜ、儂だけ……!」
その問いに、凛夜はわずかに視線を伏せ、そして言った。
「……お前を見て、思っただけだ。『俺と同じだ』と」
「……っ」
「全部を失って、それでも立っている者の目をしていた。……それを、否定したくなかった。それだけだ」
静かすぎる声。
けれど、その奥に潜んだ痛みと温もりが、真っ直ぐに胸を撃つ。
「お前が……俺だったかもしれない。
だから――祓えなかった」
その言葉を聞いた瞬間。
カガリの中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
(……なんじゃ、これは)
喉が熱い。胸が苦しい。
自分のことでこんなにも心が乱れるなど、かつてなかった。
(まさか……儂は――)
気づいてしまった。
久遠凛夜という男に惹かれている、自分の心に。
「ぬ、ぬぬぬ……っ」
顔が熱くなる。抑えきれず、そっぽを向いて叫ぶ。
「だ、だからといって、別にっ! 感謝しておるわけでは――!」
「……ああ。知ってる」
あっさり返され、余計に悔しい。
「ぐぬぬぬぬぬ……っ!」
それでも。
――この心のざわめきが、ただの反発ではないことに、カガリ自身が一番気づいていた。
(久遠凛夜……お主はいったい、儂に何をしたのじゃ……)
月が、凛夜の背を照らしていた。
その光が、やけに温かく感じられる夜だった。